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後醍醐天皇と名和長年

2009年07月25日 | 鎌倉・室町時代

 名和氏の先祖は村上天皇の第七子具平親王であるから赤松氏と系統が同じである。そこから9代目の僧侶・常陸房昌明という人物が源義経の伯父である行家を捕まえて恩賞として鎌倉幕府から但馬の多田荘と葉室荘を与えられ、承久の変でも鎌倉幕府の側に付き但馬の守護職と多数の荘園を与えられた。 そしてその子の行明にも伯耆の長田が与えられたという。 山奥の長田から海岸近くの名和に館を移し姓を『名和』と名乗り、海運業、漁業などで財力のある豪族となっていった。

村上天皇-具平親王-源師房1008-1077
          ┣顕房1037-1094-季房┳忠房-憲房-憲政-豪運-昌運-昌明-行明-行盛-行高-名和長年?-1336
          ┃         ┗季則--赤松則景-家範-重則→
         藤原尊子1003-1087(藤原道長娘)
→赤松則村(円心)1277-1350⇔後醍醐天皇1288-1339(鎌倉倒幕の功立てるが冷遇)
  ┣赤松範資 ?-1351円心とともに足利尊氏派
  ┣赤松貞範1306-1374(姫路城基礎築く) 
  ┣赤松則祐1314-1372 
  ┃ ┣赤松義則1358-1427(弥勒寺本堂再建)
  ┃ ┗有馬義祐-1421 ┣義雅-時勝 
  ┃ (摂津有馬氏祖)  ┗赤松満祐1381-1441⇔義教1394-1441(嘉吉の乱)  
  ┃           ┣赤松教康1423-1441 幕府軍(山名宗全)追討を受け自殺
   ┃           ┗赤松時勝 
   ┃   置塩城を築城 ← ┗赤松政則1455-1496(室:細川勝元娘 赤松氏を再興)
   ┃              ┗娘 
   ┗赤松氏範          ┣
    ┣氏春          赤松義村?-1521(置塩城主)
    ┣家則           ┣赤松晴政1513-1565
    ┣祐春           ┗赤松政元1500-?(上月城主)
    ┣季則
   ┗乙若丸

  鎌倉倒幕に失敗し(元弘の変)、隠岐に流された後醍醐天皇は幕府討伐を諦めず密かに山陰の武士達への協力を求めた。 1333年になると播磨の赤松円心など西国の武士が幕府に反旗を翻し、吉野山では天皇の息子・護良親王が奮戦しており、、後醍醐天皇は隠岐を脱出しようとする。 天皇の警護をしていた佐々木義綱を味方にし出雲の豪族である塩谷高貞に協力するように伝えたが、高貞は態度を明らかにしなかった。 1633年2月24日、後醍醐天皇は一緒に流されていた千種忠顕らとともに隠岐を脱出した。 途中で追手の船に追いつかれたが、なんとか船頭の機転により追手の船から難を逃れることができた。 後醍醐天皇らは最初出雲の杵築浦を目指したが西風に流されて伯耆国の名和湊に漂着したという。  千種忠顕が先に上陸し道行く人に武勇で知られた名和長年という財力・思慮に富んだ人物のことを聞くと、忠顕は名和氏の館に行き、その武勇に頼った。 酒宴の最中だった名和一族のなかでも長年の弟である長重が進み出て「名を後の世に残すのは名誉なことである」として、名和一族は天皇を奉じて挙兵することを決意したのである。 琴浦町にある船上山の要害に立て籠もることを決めた長重は天皇を背負って船上山に向かった。 一方長年は兵糧5千石を用意したという。 立て篭もった150騎の名和軍は逆木を打って守りを固め、1333年2月隠岐守護の佐々木清高が率いる2000ほどの幕府軍を船上山で迎えた。 幕府軍の指揮官・佐々木昌綱が流れ矢により右眼を負傷し戦死すると、昌綱の部下500は戦意を失い、また別の指揮官・佐々木定宗は800騎を率いて搦手で戦っていたが、降伏してしまったという。 佐々木清高は攻め立てていたが、今が好機と見た名和長年は射手を率いて攻撃に転じ、幕府軍を討ったのである。 この勝利によって後醍醐天皇は上洛のために諸国の武士に綸旨を発して兵を集めると、西国中の兵士が船上山の周囲2~30里に集まり人馬の波で埋まったという。 これらの功により名和長年は伯耆守に任ぜられた。 当時、長年は『長高』と名乗っていたが後醍醐天皇の進言により長年と改名した。 京都に上洛した長年は従四位下に叙せられ京都の東の市場を管轄する東市正に任ぜられた。 また息子の義高も正五位下左衛門少尉に叙せられ天皇の親衛隊である検非違使に任ぜられた。 京都の人々は栄進し権勢を振るった名和伯耆守長年・楠木正成・結城親光・千種忠顕を『三木一草』と呼んで噂したという。  政権を獲った後醍醐天皇だったが、その政治は公正なものとはいえず、戦功のないものに領地が与えられたり、戦功のあった赤松円心には恩賞が少ないなど公家に厚く武家に薄い恩賞に武士達の不満は募っていった。 1335年6月、西園寺公宗の天皇暗殺計画が発覚する。 西園寺公宗は北条氏と親しかった為、建武の親政では没落していたが、その一族を盛り立てて再び世に出ようと、北条氏の残党と組んだのであった。西園寺公宗は名和長年らに捕らえられた後、処刑されたため計画は未然に防がれた。 1335年、鎌倉で最後の執権北条高時の息子・時行が兵を挙げて足利直義を一蹴して鎌倉を占領した。 これを源氏再興の機会だと見た足利尊氏は勅許を待たずに鎌倉に向かって出発すると直義と合流し3万騎の兵で北条軍を破り鎌倉に入り居座った。 そんな尊氏に対して後醍醐天皇は新田義貞を討伐軍として鎌倉に向かわせた。 足利軍と新田軍は三河の矢作川で激突し新田軍は勝利を得たが、再び結集した足利軍の逆襲を受け敗北する。  1336年1月、西進する足利軍を止めるため、名和長年らは近江の勢多に陣を構えて迎え撃ったが脇屋義助の守る山崎が敗れたため、足利軍は京都に入り、後醍醐天皇は比叡山に逃れた。 長年は足利軍を破らずに天皇のもとに帰る訳にはいかないとして京都に入ったが、名和軍の旗印を見た西国の兵士達は一斉に襲い掛かってきた。しかしこれを17度まで破り100騎あまりになりながら内裏に行き、伏し拝んでから天皇のもとに向かったという。  その頃、奥州の北畠顕家が尊氏を討つため大軍を率いて西進しており、1月27日に京都を取り返すために名和長年や楠木正成らとともに攻撃をしかけた。 尊氏の援護がなかった足利軍は大敗し九州へと落ち延びた。 いったん九州に落ちた足利尊氏は兵を集め、またたく間に九州を平定して再び上洛を開始した。 1336年5月25日には上陸を阻止しようとした新田義貞・楠木正成と足利軍が湊川で激突したが、官軍は敗北してしまう。 後醍醐天皇は再び比叡山に移動し、1336年6月14日足利尊氏は光厳天皇を擁して上洛を果たした。 劣勢となった後醍醐天皇方は名和長年と新田義貞で京都に攻め込み奪回する計画を立てる。 楠木正成は湊川の戦いで、千種忠顕は雲母坂で討ち死し、結城親光は降伏を装って大友定載に斬り付けた後に戦死するなかで、生き残った名和長年は6月30日、出陣するが、敵に取り囲まれて孤立し得意の弓で奮戦し数百騎の敵を撃ち落とすも最後は三条猪熊のあたりで九州の松浦党の草野将監秀永に討ち取られた。

大山町名和・長網寺にある名和長年の墓所

長年が父・行高の還暦を祝って建てた隠居所を寺にしたのが長網寺

 

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