「日本のいちばん長い日」が8月8日から上映されている。私はチケット予約をし、今日見に行った。案の定盆休みということもあってすごい人である。この映画の原作は半藤一利氏で夏目漱石が義祖父にあたる人物である。文芸春秋に入社した半藤はやがて司馬遼太郎の付き人となる。締め切り迫る原稿の催促をすることも仕事の一つであっただろう。やがて司馬遼太郎と半藤は、太平洋戦争をテーマにノンフィクションを作り上げる活動を行う。そして約15年にも及ぶ調査を経て、出版の仕上げを断念した。それは何故か、太平洋戦争における英雄を誰一人として見出すことができなかったからである。その詳細については既に当ブログで紹介したのでここでは省略する。 「日本のいちばん長い日」を是非とも見てみたいという方にとってはネタバレになるかもしれないが、1945年7月27日から8月15日の玉音放送までのことについて詳しくない方にとっては予習の意味で読んで頂いても差しさわりのない程度に記載する。「日本のいちばん長い日」は一言で言うと終戦に向けて努力をした人々のことを表している。映画のタイトルは「日本のいちばん長い日」なので、昭和天皇や閣僚たちが御前会議において降伏を決定した1945年8月14日の正午から発生した宮城事件から、国民に対してラジオの玉音放送を通じてポツダム宣言の受諾を知らせる8月15日正午までの24時間を描いているともいえる。
アジア太平洋戦争勃発年表
1937-07-07 盧溝橋事件 : 簡単に北京陥落
1937-12- 南京虐殺 : 南京陥落 東京ドームほどの記念館では反日教育
1938- - 蒋介石@重慶(長江の中州にある高台) 英仏米蘭が物資供給:援蔣ルート
1939- - ノモンハン事件で満州(日本)惨敗Byソ連
1940-09- 石油を求めて南下@仏領北印 : 仏はドイツヒトラーの傀儡ビシー政権
仏領南印には進めない
1941-04-13 日ソ中立条約@松岡洋祐外務大臣 : ソ連はドイツに侵攻したい、日本はさらに南下したい
1941-06- 独ソ戦勃発
1941-07- 南部仏印に進駐して米を怒らせた:ABCD包囲網(America briten dutch china)
日米が宣戦布告してもおかしくはないが・・・1941-12-8までの5か月間
近衛文麿は何をしていたのか?
大東亜共栄圏 : 西欧諸国の植民地化された東南アジアに日本が入り込んで独立させることを目的とする
しかし対米参戦は不利、勝ち目無し → 対米仲直り政策 Fromソ連 By近衛文麿
かくして近衛内閣は崩壊して東条英機内閣発足
1941-11- ハルノート : 1939ノモンハン事件迄さかのぼれば仲直り合意するよ
太平洋戦争は米に仕掛けられた・・・とも言うが・・・途中でやめることもできた
1941-12-08 真珠湾攻撃
1942-06- ミッドウエー海戦 :日本の空母壊滅
1943-02- ガダルカナル島撤兵
1944-10- レイテ沖海戦 :神風特攻+多くの武器投入で惨敗
1945-06- 沖縄戦
1945-08-15 敗戦
さて、主役の一人・鈴木貫太郎(1868年1月18日-1948年4月17日)は、元々海軍大将で、予備役編入後には侍従長に就任し、昭和天皇とともに生きた人物である。二・二六事件において襲撃されるが一命を取り留め、小磯國昭の後任として内閣総理大臣に就任した。もちろん推したのは昭和天皇であるが、当時77歳の高齢であったことから硬く辞したのであるが、押し切られたのである。昭和天皇の真意・戦争を早期に終息させるためには、陸軍の暴走を止めることができる鈴木貫太郎しかいないと天皇は考えたのである。一方1億総玉砕を旗印にポツダム宣言受諾に反対したのは陸軍であり、当時の陸軍大臣は阿南惟幾(1887年2月21日-1945年8月15日)で、鈴木貫太郎の推薦により陸軍大臣に就任した。阿南惟幾は陸軍のトップではあるが、本土決戦にはどうやら同意していなかったようである。では何故陸軍大臣に鈴木が推したかというと、陸軍の暴走・決起を食い止めるのには適任者であったからである。1945年4月、鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任し、太平洋戦争継続を主張したが、それは陸軍の決起を抑えるためのものであったようだ。決戦を主張する陸軍とポツダム宣言受諾を主張する海軍による閣議が続くが決着がつかないままに時は流れ、いよいよ聖断を仰ぐこととなった。かくして昭和天皇によりポツダム宣言受諾の聖断が下されて、玉音放送録音が開始されたのである。
この時にあくまで本土決戦を主張した陸軍の若き少佐が畑中健二である。陸軍士官学校予科を経て、1940年6月陸軍大学校を卒業している。陸士教官を経て太平洋戦争に第3軍参謀として出征、1942年3月にはフィリピンに出張し、同年陸軍少佐に進級。この畑中が宮城事件(玉音事件ともいう)の首謀者の一人となり、玉音放送を阻止すべく決起し森赳近衛師団長を殺害したのである。しかしこの決起は未遂におわり、1945年8月15日午前11時頃に二重橋と坂下門の間の芝生上で自決し、辞世の句 「今はただ思ひ殘すことなかりけり 暗雲去りし御世となりなば」を残した。彼は陽明学を学び、吉田松陰に心酔した。それは、遺書からもはっきりと見ることができる。時代が違っていたら間違いなく彼はヒーローであったように思えてならない。しかし結果的には、玉音放送阻止は失敗して敗戦を迎えることとなる。もしも敗戦を受け入れていなければ、3発目の原爆は京都に投下されていた。ご存知のように京都は周りを山で囲まれた盆地であるがゆえに、その被害は甚大で計り知れなかっただろうと思う。私はこの映画での主役は畑中謙二と捉えている。幕末の吉田松陰・久坂玄瑞と重なって見えてしまうのは私だけだろうか。