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沖縄-13 ペリー上陸の地@那覇

2020年11月27日 | 太平洋戦争

 日本人が黒船と呼んだペリーの一行が浦賀現れたのは1853年7月8日。艦隊は旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピ」、「サラトガ」、「プリマス」の4隻である。浦賀の前に訪れたのは琉球の那覇。ペリー艦隊は5月17日に上海を出航し、5月26日に琉球王国の那覇沖に停泊した。ペリーのは武装した兵員を率いて上陸し、市内を行進しながら首里城まで進軍した。ペリー一行は北殿で茶と菓子程度でもてなされ、返礼に王国高官を「サスケハナ」に招待し、シェフの料理を振る舞ったという。

 泊港北岸近くに位置する外国人墓地には、中国人、アメリカ人をはじめ、6ヶ国の計22名が葬られている。この墓地で最も古いのは1718年に埋葬された中国人で、長い航海で病死したイギリス人水兵や、ペリー提督の船に同乗していた水兵、カトリック宣教師マシュー・アドネ神父も埋葬されている。外国人墓地は18世紀以後の琉球と諸外国との交流を知る史跡として重要なスポットである。

実は琉球には数多くの船寄港記録がある。恐らく大航海時代から西インド、東インド会社(航路)からの寄港があったものと思われる。徳川が鎖国をしている間に琉球は国際的な王国になっていたのかもしれない。

 1797年 イギリスのプロヴィデンス号が宮古島で座礁、那覇寄港。
 1816年 イギリスのアルセスト号とライラ号が那覇港に40日停泊。調査・測量目的。
 1818年 イギリス商船ブラザース号が那覇入港。貿易を求める。
 1821年 オランダ船が2度漂来。食料給付。
 1822年 オランダ船漂来。乗船者約40人。船修理。食料や水を給付。
 1827年 イギリス船ブロッサム号、那覇入港。太平洋やベーリング海調査の途中。
 1831年 イギリス船、那覇港に渡来。食料など給付。
 1832年 イギリス船、ロード・アマースト号が那覇港に寄港。商業航路の調査が目的。
 1837年 アメリカ商船モリソン号が那覇洋面に投錨。音吉ら日本人漂流民7人が同乗。

 

因みに小笠原諸島・父島に1830年ペリーは来航し1853年までの23年間の寄港地周辺の土地を購入している。大きさは東京ドーム4個分、目的は石炭の貯蔵地。当時の父島に日本人は居ないし日本でもない。ハワイから入植した様々な人たちが住んでいたという。島の人々はピジン語によって土地の売買契約を結んでいる。小笠原が日本の領土になったのは1861年の江戸幕府の働きかけが発端で、1876年に正式に日本の領土になった。

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