伊佐爾波神社
伊佐爾波(いさにわ)神社は道後温泉駅をまっすぐに東へ参道を進み、200mほど行ったところにあります。 大鳥居をくぐるとかなりの石段が続き、その上には境内、正面に楼門があり、四囲を廻廊で囲んだ社殿が立っています。 裏側にはかなり大きな駐車場があり、参拝目的の場合は駐車場は無料でした。
神功皇后、仲哀天皇、応神天皇、三柱姫大神を御祭神とし、神功皇后・仲哀天皇御来湯の際の行宮跡に建てられたといわれ、道後八幡とも呼ばれています。 伊佐爾波は、沙庭(さにわ)の意味で、 清浄な儀式の庭という意味を持ち、万葉集にも歌われた地名です。
伊豫の高嶺の射狭庭の岡に立たして歌思ひ辞思はししみ湯の上の樹群を見れば
山部赤人
本殿に向って左右に境内社があり、左が高良玉垂社(武内宿禰命)、右が新田霊社(新田義宗 脇屋義治 松平定長)となります。 また、参道の階段中腹には素鵞社(素盞之男命 稻田姫命)もあります。 武内宿禰といえば、 84年 - 367年まで生きたという伝説上の人物。 『古事記』『日本書紀』では大和朝廷初期に景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・応神天皇・仁徳天皇の5代の天皇に棟梁之臣・大臣として仕え、紀・巨勢・平群・葛城・蘇我などの中央諸豪族の祖とされる人物です。 日本書紀では武内宿禰の祖父は彦太忍信命といい、第八代孝元天皇と物部系の女人伊香色謎命・影媛の子とし、古事記では武内宿禰の父が彦太忍信命としている。 子に葛城襲津彦がおり、葛城の発展をもたらしたと云います。 仲哀天皇が神託を無視して亡くなったとき、神功皇后とともに殯の儀を執り行った。 仲哀天皇の死の際には神功皇后と二人しか傍にいなかったことから神功皇后と武内宿禰が仲哀天皇を殺害したのではないか、とか、仲哀天皇の死から約10ヵ月後に応神は誕生しているため、応神の父は武内宿禰ではないかとの疑いもある人物なのです。
ところで、この伊佐爾波神社は当初は道後公園山麓に御鎮座していたと推定され、14紀前半頃、河野氏が湯月城築城に際して今の地に遷し、道後七郡総守護と称えられました。 その後、加藤嘉明が松山城の固めとして八社八幡の一番社として武運長久の祈願所と定めた。 現在の御社殿は江戸時代に入り江戸城で弓の競射を命じられた松山藩主松平定長公が八幡様に必中を祈願し、それが成就したお礼に建て替えられたものである。 京都の石清水八幡宮を模したと言われ、大分の宇佐神宮と並び全国に三例しかない整った八幡造りの社殿である。
境内から石段・参道を見下ろす
高良玉垂社(武内宿禰命)