夕花の姫は平大納言時忠の娘である。 時忠との契りによって犠牲者を最小限にとどめることができたあの壇ノ浦の戦いのあと、義経は夕花の姫を側室に向かいいれていた。父・時忠としても源氏の総大将の今後を考えての嫁入りであった。しかし 頼朝からの厳しい追補のため、やむなく都落ちをする際に、夕花を能登の配所へと向かわせていた。能登の配所は 時忠、妻の師の局らが流された場所である。能登の最北端の珠洲岬の近くに配所はある。もと讃岐の国の平家方・桜間の介能遠を護衛につけて大浦の浜で、義経一向と夕花は分かれたが、義経一向は嵐に見舞われ、頼朝の追補をのがれ、あれから2年後の今、安宅の関を越えて能登の麓まできたところを桜間の介と再会したのである。もちろん 能登へも義経一向が山伏姿に身を潜めて奥州へ向かっているという噂は届いていたので、時忠は桜間の介に義経一向を待つようにと命じていたのである。かくして能登の配所で、義経、時忠、夕花が再会を果たし、歓喜に浸ったのはいうまでもない。おそらく10日近くは滞在したに違いない。配所の近郷には地頭の長谷部兵衛尉信連という者がいた。昔三条以仁王に仕えていた宮侍で、鎌倉に取り立てられた。義経一向が配所を訪れたときに、小事件すら起こっていないところをみると、そ知らぬ風をしていたようである。それから約2年後に平時忠は配所で病死している。かくして義経一向は配所を後にして平泉へ向かい、藤原秀衡に手厚く歓迎され奥州の総大将としての座を秀衡に託されたのである。そして間もなく衣川の舘にて僅かな随臣とともにつつましい生活を送っていた。その少しのちに河越小太郎を伴って百合野が平泉に来ている。そのときには百合野の父河越重頼やその一族はことごとく幕府に取り潰されていた。百合野はもとより、一生を義経とともにと願っていたので、ここ平泉の地でほんとうの妻の座を得たといえよう。
ところが、間もなく秀衡が忽然と病死するのである。藤原家三代は大きく揺れ動き始める。その間に義経と百合野に子供が授かりしばらくは平和があったが、そのうちに鎌倉から秀衡の嫡子・泰衡に対して 義経逮捕の勅命をくだし賜りたいといってきた。そのときの様相はちょうど平清盛が死んだあとの平家のようである。泰衡の動揺は隠しきれなかった。頼朝の度重なる要求にもはや拒むことはできない状況にある。長男国衡は、母が蝦夷の娘であった為に跡継ぎにはならなかったが、父の遺命に従って忠衡とともに義経を保護する。しかし後継者の泰衡は頼朝の要求に屈し、弟の頼衡を殺したあと義経に夜襲をかけた。義経はこのとき、泰衡の動きを見抜いていた。選ばれた道は落ち延びるか 頼朝追討にでるか、自決するかである。 恐らくこれ以上の血を流したくないと切望していた義経は頼朝追討は念頭あらず、また落ち延びることももはやできない。すると事あらば自害・・・と覚悟はできていたのかもしれない。そして義経一行の精鋭20名程度が1000騎に及ぶ泰衡の夜襲に打ち勝てるはずもなく、百合野と姫君を自分の手で殺し、自害を図ったのである。家臣一同は無事に最期を遂げられるようにとの思いだけで、主を守ったことであろう。その後、泰衡は弟・忠衡をも殺害し頼朝に義経の首を献上したが、主を売る犬め との罵倒を受けて斬られている。そして平泉は頼朝軍に攻め入られ、すべての所領を失い、藤原4代に続いた奥州平泉の繁栄は途絶えたのである。後に義経に対する色々な伝説は伝えられているが、平泉の衣川の館で31歳の見事な、そして頼朝でさえうらやむ家臣に恵まれて幸せに過ごした生涯を終えたという事が史実であろうと思われる。
能登半島国定公園 「雨晴海岸」は、万葉の歌人・大伴家持もこよなく愛し多くの歌を残したとされる景勝の地で、富山湾越しに見る立山連峰の雄大な眺めは、四季それぞれに変化し、息を呑む美しさです。 「雨晴」という名前の由来は源義経が奥州に落ちのびる時、岩かげに宿り、にわか雨を晴らしたという伝説によります。