1790 ヨーゼフ2世1741-1790の弟・レオポルト2世1747-1792が神聖ローマ皇帝に即位すると死刑を廃止。
1792 フランツ2世1768-1835は神聖ローマ帝国最後の皇帝であり、オーストリアの初代皇帝である。1795年の第3次ポーランド分割時の皇帝、ポーランドは消滅することとなるが、120年後には独立する。
1806 フランツ2世1768-1835が1806年に退位したことで神聖ローマ帝国は滅亡する。これはナポレオンがフランス皇帝に即位(1804年)した直後である。そして1822年にハプスブルグ家からロスチャイルド家に男爵の称号とハプスブルグ家の紋章が贈られた。紋章の盾の中には5本の矢を持った手が描かれ、創始者の5人の息子が築いた5つの家系を象徴している。盾の下には、ロスチャイルド家の家訓であるConcordia, Integritas, Industria(調和、誠実、勤勉)という銘が刻まれている。ロスチャイルド家は元々ハプスブルグ家の家臣で、神聖ローマ帝国の崩壊とともに他の家臣の貴族、金融家たちと今の中央銀行制度をつくった。それがイングランド銀行の設立、アメリカFRB・連邦準備理事会(Federal Reserve Board)の頭文字を取ったもので、アメリカ中央銀行制度の最高意思決定機関の設立へと移る。ところで、このハプスブルグ家は今でも続いており、現在もヨーロッパ貴族の爵位を与えている。当主はカール・ハプスブルク・ロートリンゲン1961-で、娘はモデル・エレオノーレ1994-である。
1835 フェルディナント1世1793-1875がオーストリア皇帝に即位。近親婚が原因で病弱。1848年のウイーン3月革命で退位する。
1848 フランツ・ヨーゼフ1世1830-1916がオーストリア皇帝に即位。在位は68年の長きにわたり、オーストリア/ハンガリー二重帝国を築いた。妃はシシィの愛称で知られるエリザベート1837-1898である。宝塚歌劇・エリザベートのミュージカルでも知られる。エリザベートが住んでいたのはオーストリア・ウイーンにあるホーツブルグ宮殿。またヨーゼフ1世が建てた別荘・ヘルメス・ヴィラ(天井画はクリムトによる)はエリザベートの居場所となった。
1873 ウイーンで万博開催。岩倉使節団約100人がアメリカ経由でトリエステからウイーンに行く。随員久米邦武(歴史学者1839-1931)は「欧米回覧実記」を残している。主席全権大使は岩倉具視、大久保利通、伊藤博文、木戸孝允、檀琢磨(当時16歳 : 作曲家・檀伊玖磨は檀琢磨の孫にあたり、日墺和親通商条約の記念コンサートなど、何度もウイーンを訪問している。)。岩倉具視は晩餐会でエリザベートと臨席。しかし一言もしゃべらなかったという。万博では、日本が異常なほどの人気であったという。日本の準備は遅れ、庭園でははっぴ姿の職人の姿が珍しく、かえって人気を博して日本ブームが起きた。(金のしゃちほこ、大仏の張り子、芸者姿の女)皇帝ヨーゼフ1世と皇后エリザベートが真っ先に訪問したのが日本庭園、職人の仕事をほめたたえたこともあって一層人気を博した。万博が終わってからも通信手段である絵葉書には日本女性が描かれ、オーストリアの生活に日本の姿が浸透していった。オーストリアの画家・グスタフ・クリムトの絵には多くのジャポニズムが見られる。
ウイーンとかかわる偉人を挙げておこう。建築家オットー・ワーグナー1841-1918、憲法学者ロレンツ・フォン・シュタイン1818-1890(伊藤博文は日本国憲法制定の時にシュタインから学ぶ)、精神科医シグムント・フロイト1885-1934、歌人・精神科医斎藤茂吉1882-1953、音楽家ヨハン・シュトラウス1825-1899,モーツアルト1756-1791、シューベルト1797-1828、フランツ・リスト1811-1886、ヨハネス・ブラームス1833-1897(ウイーンで没 日本の民謡を調べ考えた)。
ラ・ジャポネーゼ モネは、日本に魅了されて愛妻カミーユに着物を着せる
【エリザベートはスイーツが大好物】 彼女は欧州のスイーツ文化(オーストリアの伝統文化)に磨きをかけて花開かせた王妃としても知られる。いつも宮殿を抜け出しては、ウイーンの街を散歩していたという。1880年創業の「CAFE SPERL」シュペールは地元の人々に今も愛されているCafeである。ウイーンの伝統的なスイーツはアップフェルシュツルーデルだそうです。シナモン風味のアップルの周りにはこんがりとバターで焦がしたパン粉をパイ生地で包んだアップルパイである。ウイーンで最も古いカフェは1788年創業のフラウエンフーバー。モーツアルト(ドップラーと同じく、モーツアルトの家はザルツブルグにある)やベートーベンがここで演奏をしていたという。そしてハプスブルグ家と深い関りがある店が1847年創業のゲルストナー。宮廷御用達のスイーツ店でエリザベートもよく来店していたという。彼女が好んで食べていたのが「すみれの花の砂糖漬け」「ドボシュトルテ」ウイーン市民にはお馴染みだという。宮廷から快く思われていなかったエリザベートは毎年のようにポルトガル、ギリシャ、ドイツ、フランスなど旅行に出かけてはスイーツを探し、レシピを記録しては宮廷内の菓子職人に作らせていた。その菓子がウイーンに根付き文化として発展したのである。
【ウイーンはハプスブルグ家の都】 ウイーンの旧市街(18世紀の街並み)はハプスブルグ家(戦わずして政略結婚で領土を広げた)が600年に渡って輩出した皇帝が住んだというホーフブルク王宮やモーツアルトの葬儀が行われた聖ミヒャエル教会がある。この教会には堕落した天使を闇に突き落とすというミヒャエル天使の像が正面にあり、光り輝く剣を右手に持っている。ホーフブルク王宮にもゲニウスなどの色々な天使像がある。ハプスブルグ家の墓所であり、モーツアルトの結婚式が行われたシュテファン大聖堂や、ウイーンの南西3kmの処にはマリーアントアネット、マリアテレジアが過ごした世界遺産シェーンブルン宮殿(マリアテレジアが建設)、1752年開園・世界最古のシェーンブルン動物園が知られている。
【ウイーンは音楽の都】 また、ベートーヴェンゆかりの地でもある。ベートーヴェン1770-1827は25歳の時に故郷ドイツ(ボンで誕生 父・ヨハンは歌手、母は料理人 生家の前にはベートーベン記念碑がある)からウイーンに来た。英雄、運命などを発表して聖楽と称えられた。1827年に57歳で死んだのは黒い館。3万人が棺を見送ったという。独身を貫き病と闘った不屈の精神の人である。
死の前に残した不滅の恋人に対する手紙(1812/7/6@チェコで書かれた)の意味は何なんだ?ピアノソナタ・月光の送り主で貴族のジュリエッタ・グイッチャルディなのか?チェコのボヘミアへ向かった旅にて出会った人なのか?ウイーンからチェコの首都・プラハまで240kmを馬車に乗って4日かけている。当時のボヘミアはハプスブルグ帝国の支配下、ドボルザークが活躍する音楽の都でもあった。また、ベートーヴェンに年金を支払うパトロン3人の内2人はプラハ(チェコフィルハーモニーの本拠地)に住む貴族(ハプスブルグから独立を目指した)であった。
ベートーヴェン(フランス革命から自由と平等を求めた)は9曲の交響曲の内5曲 英雄、運命、田園などをボヘミア貴族に捧げている。3番英雄は最初ボヘミアで21人アンサンブルを少し大きくした規模で演奏されていた。1812/7/1プラハでパトロンから年金を受け取った。この時の旅が最後、友人と会う約束を破って不滅の恋人と7/3に会っていたらしい。その三日後に切実な思いを手紙に書いている。7/4ボヘミアからテプリツェ(プラハから北西に約100km、古い随一の温泉町 ここで毎年ベートーベンを偲ぶ音楽祭が開催されるという)に急いで向かう。7/5早朝黄金の太陽というホテルに泊まり手紙を書いたという。ここに3日滞在し3回に分けて恋文を書いていたという・・・・。テプリツェから次に向かったのはカルロヴィ・ヴァリという有名な温泉町。8/6にはここでベートーヴェンは慈善コンサートを開いている。
一方、エステルファージ家(フランス国王重臣貴族)・アルメリア嬢23歳はフランス革命でパリからウイーンへ来た一家で、23歳の娘はベートーヴェンの生徒であった。一行もこの時にカルロヴィ・ヴァリに泊まっている(1812-6-29)。 ベートーヴェンはカルロヴィ・ヴァリを8/7に出発し、西へ20kmの保養地ラーズニエ、(フランツ1世の別荘地)へ行っている。ここで1か月滞在してボヘミア旅行の最後をかざった。同じ時期に、アントニア・ブレンターノ1780-1869(夫フランツは金融業で成功した大富豪) 当時32歳も ここに泊まったという。病んだアントニア・ブレンターノも保養に来ていたのだろう。彼女に心惹かれたのだろうか。ベートーヴェンは、ここラーズニエで交響曲8番(優雅なメヌエット形式の曲)の構想を練っている。
シシィの愛称で知られるエリザベート@1865
肖像画家:宮廷画家フランツ・ヴィンターハルター1805-1873
1914 ヨーゼフの弟・カール・ルートヴィッヒ1833-1896の息子・フランツ・フェルディナントは皇太子時代に妻ゾフィーとともにセルビア訪問時に暗殺(サラエボ事件)されたことで、フランツ・ヨーゼフはセルビアに対して宣戦布告。これが第一次世界大戦に発展することとなる。
【ザルツブルグとサウンド・オブ・ミュージック】 オーストリアのザルツブルグと言えば「サウンド・オブ・ミュージック」1965の舞台となったところ。ミラベル庭園やレジデンツ広場をはじめ、ノンベルク尼僧院や祝祭劇場のフェルゼンライトシューレ、サンクト・ペーター墓地、レオポルズクローン宮殿など、映画の名シーンを思い起こさせてくれる場所が、たくさん残っている。主演のマリア役のジュリーアンドリュース1935-が、修道院見習い中に、ゲオルク(クリストファー・プラマー1929-2021)の子供たち7人の家庭教師をすることなって物語が広がるというもの。暗い家庭がマリア先生の音楽教育によって明るくなり、やがてマリアとゲオルクは惹かれ合って結婚する。しかし時は、ハプスブルグ家が君臨していたオーストリア=ハンガリー帝国が第一次世界大戦後に崩壊し、ドイツはオーストリアを併合(アンシュルスという)したあとである。ゲオルクはオーストリアを併合したナチスドイツに反抗するも、ドイツ海軍から出頭命令が下されたため、一家9人は中立国のスイスに亡命する。途中ヒトラーの別荘を通り過ぎるはずであるが、映画では描かれていなかった。
ついでにもう一つのミュージカルを紹介しておくと「紳士は金髪がお好き」1949。ローレライ役はマリリン・モンロー1926-1962、ドロシー役はジェーン・ラッセル1921-2011。
【チロルとチロル伯爵】 そしてここからドイツの南部・バイエルンの南へ向かって伸びる地方が「チロル」。ここはドイツのチロル伯爵1334-1363が治めており、ハプスブルグ家のマルガレーテと結婚後、上バイエルンとチロルを相続した。この広大な土地は14世紀以降はハプスブルグ家の領地となる。そして各地にハプスブルグ家のオーストリア皇帝の名の料理が残る。
インスブルック(チロルで一番大きな町)の近くのエルメンという小さな村(ドイツのノイシュヴァンシュタイン城の南に30kmくらい)が代表的なチロル村らしい。レヒヴェク(レヒ川沿いの道)を通って、ドイツのノイシュヴァンシュタイン城に向かってアルプス・チロルの自然が広がる。人とすれ違ったら「モルゲン」と言おう。この近辺の村の人口は400人とか・・。チロルの山並みの旅人のほうが多いみたいな。チロルの飲み物といえばシュナップス(蒸留酒に果実をいれたもの)、これが人々の絆をつくるという。そして山では皆平等、敬語は使わないという習慣がある。
じつはこの辺りの南北を結ぶ道は商人や巡礼者が行き交う重要な役割を担っていた。17世紀に建てられたシュテルヌ要塞の跡があり、カトリックとプロテスタントの間で宗教戦争が繰り広げられていた。穏やかで美しいチロルにもこのような歴史がある。そしてここはオーストリアとドイツ・バイエルンの国境近く、すると近くにアルプ湖があり、ホーエンシュヴァンガウ城、ナイシュヴァンシュタイン城が見える。ホーエンシュヴァンガウ城は、1832年にマクシミリアン2世が、12世紀以降廃墟になっていたシュヴァンシュタイン城を購入し、古城を改築したものである。彼の息子・ルートヴィヒ2世1845-1886は幼年時代にここで過ごした。しかもエリザベートも度々訪れているはずである。シュヴァンガウとは「白鳥の里」という意味で、ワグナーの白鳥伝説ゆかりの地である。かくしてルートヴィヒ2世は後にワーグナーに傾倒していくこととなる。そしてルートヴィヒ2世は後に、このホーエンシュヴァンガウ城の近隣にノイシュバンシュタイン城を建築した。これがディズニーに登場する城のモデルである。そしてフュッセンにあるカルバリアンベルグという神聖な丘には古くから多くの巡礼者が訪れ、眼下に広がるレヒ川とフュッセルの街を見ることができる。