1866 普墺戦争:
・プロイセン王国とオーストリア帝国との戦争をいう。
・オーストリアを盟主とするドイツ連邦が、脱退したプロイセンに宣戦。
・その後ドイツ連邦内にもプロイセン側につく領邦が相次ぎ、連邦を二分しての統一主導権争いとなる。
・オーストリアは大敗するがプロイセンは領土要求などはせずに休戦となる。
1867 戦後処理:
・プロイセンはドイツ東西のプロイセン領の統合を達成し、オーストリアを統一ドイツから排除。
・オーストリアはイタリア王国と講和条約(ウィーン条約)を結び、ヴェネト地方をイタリアに割譲した。
・プロイセンはこの後、北ドイツ連邦を結成。
・一方、オーストリアはオーストリア・ハンガリー帝国を成立させ、ドナウ河流域の統治に専念する。
1870 ドイツ諸邦の盟主となったプロイセン・ビスマルク1815-1898は、
・普仏戦争でフランスのナポレオン3世1808-1873を破ってドイツ統一を実現する。
結果フランスの工業地帯であるアルザスロレーヌ地方を取得した。
これによりフランスとドイツは一生涯の敵として相対することとなる。
・因みに、ナポレオン3世の愛人はカスティリオーネ伯爵夫人1837-1899。
イタリア・トスカーナのオルドイーニ侯爵の娘として生まれ、1856年ナポレオン3世と知り合う。
かくして社交界にデビューすると、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世やビスマルクなどとも交流した。
サルデーニャ王国宰相(彼女の従兄弟)のスパイだったとも言われる彼女
は、生活が派手でフランスプロヴァンス地方の公益質屋(アビニオン市にあるフランス最古の質屋)によく通い、
1000万円単位の現金を手に入れては遊んでいたようだ。
1890 プロイセンでは宰相ビスマルクは辞任し、ヴィルヘルム2世1859-1941が第3代ドイツ帝国皇帝として即位していた。
・早速実施したのはロシアとの再保証条約を拒否したことだ。
・これによってロシアは孤立していたフランスと露仏同盟を結ぶ1894。
・イタリア北部はオーストリア-ハンガリーとの敵対関係は未回収であったが一旦棚上げとして両者は近づいた。
・その一方で、オーストリアヨーゼフ1世1830-1916とエリザベート1837-1898の子・ルドルフ1858-1889は
病弱であったこともあり父・ヨーゼフと対立し1889年にピストル自殺をはかっていた(マイヤーリンク事件)。
残された妻・ステファニー(ベルギー王女)やエリザベートは宮廷ではあまり居場所がなかったため
度々旅行にでかけてはストレス発散をしていたという。
こうした中でヨーゼフの娘・エリザベート・マリー1883-1963(愛称はエルジー)は一人孤独であったという。
【ベルギー王女といえばシャルロッテ1840-1927】
・フランツ・ヨーゼフの弟マクシミリアン1832-1867がシャルロッテの夫である。
・シャルロッテの父はベルギー国王のレオポルト1世1790-1865で、
・妻ルイーズ・マリーの父がフランス国王ルイ・フィリップ、つまり1848年の2月革命で王政が倒れ、
・ナポレオン3世により第二共和制が敷かれたときに、退位した。
・一方1848年のオーストリアでは3月革命で宰相メッテルニヒ1773-1859は逃亡し、国王フェルディナント1793-1875は退位する。
・この時に新しくオーストリア国王となったのがフランツ・ヨーゼフなのである。この時弟のマクシミリアンは王位継承権を得る。
1853 ナポレオン3世がウジェニーと結婚
1854 フランツ・ヨーゼフがエリザベートと結婚 「映画:プリンセス・シシー」
1857 マクシミリアンがシャルロッテと結婚
・シャルロッテはベルギー王女であり家柄資産あり
・姑ゾフィーのシャルロッテに対する賞賛がエリザベートには自分に対する非難に聞こえ、シャルロッテに対する好感がなくなる。
・またハプスブルグ宮廷ではシャルロッテはエリザベートの下位にあたることが不満であった。
1857 エリザベートが長女ゾフィーを亡くす
1861 マクシミリアンにメキシコ皇帝の打診ありByナポレオン3世(仏によるメキシコの植民地化、マクシミリアンは傀儡)
メキシコの危険に周りは反対するも、本人は乗り気
1864 メキシコ渡航 メキシコシティーのチャップルテペック城(アステカ皇帝の離宮)入り。
1865 南北戦争終結し米はナポレオン3世にメキシコ撤退要求
1866 ナポレオン3世は撤退決意 普墺戦争でオーストリア敗退し矛先が仏へ向いた
フランス兵撤退+マクシミリアン孤立 シャルロッテはナポレオン3世に談判するも拒否 狂人として幽閉
1867 マクシミリアンはメキシコ革命軍に捕らえられて銃殺刑
1927 シャルロッテは精神を病んだまま死亡
1898 世界的な美女として注目を集め、オーストリアー・ハンガリーから愛されたエリザベート(バイエルン王家出身)は旅の途中@ジュネーブ・レマン湖のほとりでイタリアの無政府主義者・ルケーニに心臓を刺されて死亡した。ルケーニは獄中で首つり自殺をはかっている。
1900 エリザベートの孫娘・エルジーが社交界デビュー。この社交界というのはハプスブルグ家のマリア・テレジアを中心とした16人の子供筋で行われる舞踏会を意味する。1884年当時、ハプスブルグ家を代表する社交メンバーは66人。エルジーはそういったメンバの一人であった。この舞踏会でエルジーは、オーストリア軍人の・オットー1873-1952と出会い、1902年に貴賤結婚をする。
1902 この頃平和的に孤立していたイギリスは日本は日英同盟を結び、フランスとは英仏協商1904、ロシアとは英露協商1907を結んで独-伊--オーストリアとの三国同盟に対抗した。
1915 英が誇る当時最大の旅客船ルシタニア号が、ドイツ海軍の潜水艦によって雷撃をうけて@南部アイルランド、沈没した。犠牲者は1198名、なかには128名のアメリカ人が乗船しており、それまでのウイルソン大統領のアメリカ孤立主義政策は一変して、1917年第一次世界大戦に参戦する。翌年の1916年にオーストリアのヨーゼフ1世が86歳で亡くなっている。
1917 ドイツは無制限潜水艦作戦を実施。敵国に関係すると思われる船艇、船舶にたいしては無警告で攻撃するというもの。一方ロシアは戦線を離脱、日露戦争、ロシア革命といった内紛が影響している。
1919 ロシアに続いてオスマン帝国やブルガリアの脱落、そしてプロイセン、ヴィルヘルム2世の追放@キールにより第一次世界大戦が終結する。調印はフランス・ベルサイユ宮殿の鏡の間である。これによってフランスはフランスの工業地帯であるアルザスロレーヌ地方をドイツに奪われたお返しに鏡の間を選んだところは、一矢報いたといえる。
この頃、エリザベートの孫娘・エルジーと卑賤結婚をした夫との仲は冷え切り(夫はハプスブルグ家エルジーの財産を勝手に使うなど・・・)、離婚調停が始まり、1924年には別居している。これがきっかけで社会民主党との関係が深まり入党。元々社会民主党とハプスブルグ家は犬猿の仲であっただけに世間は驚き、エルジーは「赤い皇女」とささやかれるようになった。1929年の世界恐慌をきっかけに、ファシズムが国民から大きな期待を持たれるようになり、1933年にヒトラー内閣が誕生(@ワイマール共和国)し、1938年アドルフヒトラーによってオーストリアがドイツに併合された。それは第一次世界大戦後のベルサイユ条約で禁止されていたことであったが、オーストリアのドルフス首相1892-1934は、ナチスにより暗殺され、新首相も半ば脅迫される形で併合されたのである。ドイツ軍が1938/3/15オーストリアに侵入してきた時、何も知らされていない国民は歓迎したという。なぜならドイツと組めば豊かになると思ったからである。因みにこの時にヒトラーが演説した場所は、オーストリア・ハプスブルグ王宮のバルコニーで、エルジー、エリザベート、フランツ皇帝が市民を眺めた場所であったという。ヒトラーが最初に逮捕したのは、サラエボ事件で暗殺されたフランツ・フィルディナント大公1863-1914の遺児、ハプスブルグ家の血は許せなかったようであるが、エルジーには逮捕の手は回ってこなかった。
英仏が、これらのことに気づいたことによって、第二次世界大戦は勃発するのである。この頃日本は満州事変を起こし他の国々から睨まれた存在であった。一方、日独伊三国防共協定によってソ連を挟み込むことによって社会主義を倒す意味を持っていたことから、英仏もこれに期待したとも言える。これに気づいたヒトラーは勢い付き、さらにドイツ人地域以外の進出も行った。それがチェコスロバキア。しかしチェコは英仏が後ろ盾になってくれることを期待して拒否した。かくして開かれたのがミュンヘン会議1938で、独、伊、英、仏が参加(ソ連とチェコスロバキアは外された)。英仏の弱腰の結果、チェコスロバキアのズデーデン地方は独に割譲。かくして英仏は、ソ連を警戒するという日独伊三国同盟を盾に、ヒトラーの要求を次々と飲んだのである。さらに独ソ不可侵条約1939(ソ連は英仏に不信感を抱いていた)を結んで、1939/9/1にポーランドに侵攻したのである。ポーランドと同盟を結んでいた英仏は、不可侵条約の陰謀にやっと気づいて、1939/9/3に独に宣戦布告したのである。ヒトラーはベルギー、デンマーク、ノルウエー、オランダ(アンネ・フランクはこの時蘭に居た)に次々と侵攻、1960/6には仏迄をも降伏させた。
不可侵条約を結んでいたはずの独ソではあるが、ゲルマン民族主義のヒトラーがスラブ主義のソ連を受け入れられるはずもなく、ナチス独は1941/6に不可侵条約を破棄、かくして独ソ戦争がはじまりバルカン半島の奪い合いが始まった。この時からドイツの衰退は始まっていた。
第二次世界大戦中のエルジー1883-1963はウイーンで亡命者の援助をしていたが、61才の頃、夫で社会民主党の責任者であったレオポルト・ベツネック63才は、突如ゲシュタポ(ナチスドイツの秘密警察)に捕えられ南ドイツのダッハウの強制収容所(1/3はユダヤ人)に送られた。
1948年正式に夫オットーとは離婚した。1963年3月、ハプスブルグ家最後の皇女・エルジーは財産全てを国に寄贈して79歳で亡くなった。
【チェコ】プラハ城
9-10c頃 モラヴィア王国建国 :スラブ初の国 @今のチェコ、ハンガリー一帯
0906 マジャール人・騎馬民族がモラヴィア王国侵攻
0921 聖ビート大聖堂
・ゴシック様式
・大司教によるミサ
・バーズラフ王907-935@ボヘミア王国の骸骨をもって聖バーズラフのミサを行う@聖バーズラフ礼拝像
1000 南はハンガリー王国に分裂
1198 北はベーメン(ボヘミア)王国成立
・ベーメン王国は独立が困難となり神聖ローマ帝国の属国として生きていた
・神聖ローマ皇帝:オットー1世912-973 ⇒前任はハインリッヒ1世876-936
・神聖ローマ皇帝がベーメン王を兼任
・ベーメンの資源・ズデーデン地方は神聖ローマ皇帝が支配
ベーメン国民は貧困のまま
・1356 選帝侯位獲得 ~1806
・1526 ハプスブルク朝支配下~1804
・1848 ベーメン民族運動@プラハ (1848革命)⇒チェコ語承認される
⇒オーストリア軍が鎮圧
⇒ベーメンのスラブ民族会議解散
・1849 ハンガリー独立
・1918 チェコスロバキア独立
⇒チェコ在住のドイツ系住民が騒ぐ
・1939 チェコがナチスドイツの支配下