goo blog サービス終了のお知らせ 

平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

【オーストリア-4】 WW1の原因・サラエボ事件とエリザベートの孫娘・エルジー  + チェコ

2020年12月02日 | 世界史-欧米・ロシア

1866  普墺戦争:
       ・プロイセン王国とオーストリア帝国との戦争をいう。
       ・オーストリアを盟主とするドイツ連邦が、脱退したプロイセンに宣戦。
       ・その後ドイツ連邦内にもプロイセン側につく領邦が相次ぎ、連邦を二分しての統一主導権争いとなる。
       ・オーストリアは大敗するがプロイセンは領土要求などはせずに休戦となる。

1867  戦後処理:
       ・プロイセンはドイツ東西のプロイセン領の統合を達成し、オーストリアを統一ドイツから排除。
       ・オーストリアはイタリア王国と講和条約(ウィーン条約)を結び、ヴェネト地方をイタリアに割譲した。
       ・プロイセンはこの後、北ドイツ連邦を結成。
       ・一方、オーストリアはオーストリア・ハンガリー帝国を成立させ、ドナウ河流域の統治に専念する。

1870  ドイツ諸邦の盟主となったプロイセン・ビスマルク1815-1898は、
       ・普仏戦争でフランスのナポレオン3世1808-1873を破ってドイツ統一を実現する。
         結果フランスの工業地帯であるアルザスロレーヌ地方を取得した。
         これによりフランスとドイツは一生涯の敵として相対することとなる。
       ・因みに、ナポレオン3世の愛人はカスティリオーネ伯爵夫人1837-1899。
         イタリア・トスカーナのオルドイーニ侯爵の娘として生まれ、1856年ナポレオン3世と知り合う。
         かくして社交界にデビューすると、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世やビスマルクなどとも交流した。
         サルデーニャ王国宰相(彼女の従兄弟)のスパイだったとも言われる彼女
         は、生活が派手でフランスプロヴァンス地方の公益質屋(アビニオン市にあるフランス最古の質屋)によく通い、
         1000万円単位の現金を手に入れては遊んでいたようだ。

1890  プロイセンでは宰相ビスマルクは辞任し、ヴィルヘルム2世1859-1941が第3代ドイツ帝国皇帝として即位していた。
       ・早速実施したのはロシアとの再保証条約を拒否したことだ。
       ・これによってロシアは孤立していたフランスと露仏同盟を結ぶ1894。
       ・イタリア北部はオーストリア-ハンガリーとの敵対関係は未回収であったが一旦棚上げとして両者は近づいた。


       ・その一方で、オーストリアヨーゼフ1世1830-1916とエリザベート1837-1898の子・ルドルフ1858-1889は
         病弱であったこともあり父・ヨーゼフと対立し1889年にピストル自殺をはかっていた(マイヤーリンク事件)。
         残された妻・ステファニー(ベルギー王女)やエリザベートは宮廷ではあまり居場所がなかったため
         度々旅行にでかけてはストレス発散をしていたという。
         こうした中でヨーゼフの娘・エリザベート・マリー1883-1963(愛称はエルジー)は一人孤独であったという。

【ベルギー王女といえばシャルロッテ1840-1927】  
       ・フランツ・ヨーゼフの弟マクシミリアン1832-1867がシャルロッテの夫である。
       ・シャルロッテの父はベルギー国王のレオポルト1世1790-1865で、
       ・妻ルイーズ・マリーの父がフランス国王ルイ・フィリップ、つまり1848年の2月革命で王政が倒れ、
       ・ナポレオン3世により第二共和制が敷かれたときに、退位した。
       ・一方1848年のオーストリアでは3月革命で宰相メッテルニヒ1773-1859は逃亡し、国王フェルディナント1793-1875は退位する。
       ・この時に新しくオーストリア国王となったのがフランツ・ヨーゼフなのである。この時弟のマクシミリアンは王位継承権を得る。

  1853 ナポレオン3世がウジェニーと結婚

  1854 フランツ・ヨーゼフがエリザベートと結婚 「映画:プリンセス・シシー」

  1857 マクシミリアンがシャルロッテと結婚  
       ・シャルロッテはベルギー王女であり家柄資産あり
       ・姑ゾフィーのシャルロッテに対する賞賛がエリザベートには自分に対する非難に聞こえ、シャルロッテに対する好感がなくなる。
       ・またハプスブルグ宮廷ではシャルロッテはエリザベートの下位にあたることが不満であった。

  1857 エリザベートが長女ゾフィーを亡くす

  1861 マクシミリアンにメキシコ皇帝の打診ありByナポレオン3世(仏によるメキシコの植民地化、マクシミリアンは傀儡)

     メキシコの危険に周りは反対するも、本人は乗り気

  1864 メキシコ渡航 メキシコシティーのチャップルテペック城(アステカ皇帝の離宮)入り。

  1865 南北戦争終結し米はナポレオン3世にメキシコ撤退要求

  1866 ナポレオン3世は撤退決意 普墺戦争でオーストリア敗退し矛先が仏へ向いた

     フランス兵撤退+マクシミリアン孤立 シャルロッテはナポレオン3世に談判するも拒否 狂人として幽閉

  1867 マクシミリアンはメキシコ革命軍に捕らえられて銃殺刑

  1927 シャルロッテは精神を病んだまま死亡

 

1898  世界的な美女として注目を集め、オーストリアー・ハンガリーから愛されたエリザベート(バイエルン王家出身)は旅の途中@ジュネーブ・レマン湖のほとりでイタリアの無政府主義者・ルケーニに心臓を刺されて死亡した。ルケーニは獄中で首つり自殺をはかっている。

1900  エリザベートの孫娘・エルジーが社交界デビュー。この社交界というのはハプスブルグ家のマリア・テレジアを中心とした16人の子供筋で行われる舞踏会を意味する。1884年当時、ハプスブルグ家を代表する社交メンバーは66人。エルジーはそういったメンバの一人であった。この舞踏会でエルジーは、オーストリア軍人の・オットー1873-1952と出会い、1902年に貴賤結婚をする。

1902  この頃平和的に孤立していたイギリスは日本は日英同盟を結び、フランスとは英仏協商1904、ロシアとは英露協商1907を結んで独-伊--オーストリアとの三国同盟に対抗した。

1914  6月28日にオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント夫妻が、サラエボに於いて(当時はオーストリア領、現在のボスニア領)を訪問中に、ボスニア系サラエボ人青年に暗殺された。暗殺者らは反オーストリア的革命運動家で、この事件をきっかけとしてヨーゼフ1世はセルビア王国に最後通牒を突きつけたことで、第一次世界大戦が勃発することとなる。セルビアのパンスラブ主義は、元々オーストリアのパンゲルマン主義と相対しており、ヨーゼフ1世によるボスニア・ヘルツェゴビナ併合がセルビアの怒りをかった。

1915  英が誇る当時最大の旅客船ルシタニア号が、ドイツ海軍の潜水艦によって雷撃をうけて@南部アイルランド、沈没した。犠牲者は1198名、なかには128名のアメリカ人が乗船しており、それまでのウイルソン大統領のアメリカ孤立主義政策は一変して、1917年第一次世界大戦に参戦する。翌年の1916年にオーストリアのヨーゼフ1世が86歳で亡くなっている。

1917  ドイツは無制限潜水艦作戦を実施。敵国に関係すると思われる船艇、船舶にたいしては無警告で攻撃するというもの。一方ロシアは戦線を離脱、日露戦争、ロシア革命といった内紛が影響している。

1919  ロシアに続いてオスマン帝国やブルガリアの脱落、そしてプロイセン、ヴィルヘルム2世の追放@キールにより第一次世界大戦が終結する。調印はフランス・ベルサイユ宮殿の鏡の間である。これによってフランスはフランスの工業地帯であるアルザスロレーヌ地方をドイツに奪われたお返しに鏡の間を選んだところは、一矢報いたといえる。

この頃、エリザベートの孫娘・エルジーと卑賤結婚をした夫との仲は冷え切り(夫はハプスブルグ家エルジーの財産を勝手に使うなど・・・)、離婚調停が始まり、1924年には別居している。これがきっかけで社会民主党との関係が深まり入党。元々社会民主党とハプスブルグ家は犬猿の仲であっただけに世間は驚き、エルジーは「赤い皇女」とささやかれるようになった。1929年の世界恐慌をきっかけに、ファシズムが国民から大きな期待を持たれるようになり、1933年にヒトラー内閣が誕生(@ワイマール共和国)し、1938年アドルフヒトラーによってオーストリアがドイツに併合された。それは第一次世界大戦後のベルサイユ条約で禁止されていたことであったが、オーストリアのドルフス首相1892-1934は、ナチスにより暗殺され、新首相も半ば脅迫される形で併合されたのである。ドイツ軍が1938/3/15オーストリアに侵入してきた時、何も知らされていない国民は歓迎したという。なぜならドイツと組めば豊かになると思ったからである。因みにこの時にヒトラーが演説した場所は、オーストリア・ハプスブルグ王宮のバルコニーで、エルジー、エリザベート、フランツ皇帝が市民を眺めた場所であったという。ヒトラーが最初に逮捕したのは、サラエボ事件で暗殺されたフランツ・フィルディナント大公1863-1914の遺児、ハプスブルグ家の血は許せなかったようであるが、エルジーには逮捕の手は回ってこなかった。

英仏が、これらのことに気づいたことによって、第二次世界大戦は勃発するのである。この頃日本は満州事変を起こし他の国々から睨まれた存在であった。一方、日独伊三国防共協定によってソ連を挟み込むことによって社会主義を倒す意味を持っていたことから、英仏もこれに期待したとも言える。これに気づいたヒトラーは勢い付き、さらにドイツ人地域以外の進出も行った。それがチェコスロバキア。しかしチェコは英仏が後ろ盾になってくれることを期待して拒否した。かくして開かれたのがミュンヘン会議1938で、独、伊、英、仏が参加(ソ連とチェコスロバキアは外された)。英仏の弱腰の結果、チェコスロバキアのズデーデン地方は独に割譲。かくして英仏は、ソ連を警戒するという日独伊三国同盟を盾に、ヒトラーの要求を次々と飲んだのである。さらに独ソ不可侵条約1939(ソ連は英仏に不信感を抱いていた)を結んで、1939/9/1にポーランドに侵攻したのである。ポーランドと同盟を結んでいた英仏は、不可侵条約の陰謀にやっと気づいて、1939/9/3に独に宣戦布告したのである。ヒトラーはベルギー、デンマーク、ノルウエー、オランダ(アンネ・フランクはこの時蘭に居た)に次々と侵攻、1960/6には仏迄をも降伏させた。

不可侵条約を結んでいたはずの独ソではあるが、ゲルマン民族主義のヒトラーがスラブ主義のソ連を受け入れられるはずもなく、ナチス独は1941/6に不可侵条約を破棄、かくして独ソ戦争がはじまりバルカン半島の奪い合いが始まった。この時からドイツの衰退は始まっていた。

第二次世界大戦中のエルジー1883-1963はウイーンで亡命者の援助をしていたが、61才の頃、夫で社会民主党の責任者であったレオポルト・ベツネック63才は、突如ゲシュタポ(ナチスドイツの秘密警察)に捕えられ南ドイツのダッハウの強制収容所(1/3はユダヤ人)に送られた。

1948年正式に夫オットーとは離婚した。1963年3月、ハプスブルグ家最後の皇女・エルジーは財産全てを国に寄贈して79歳で亡くなった。 

 

【チェコ】プラハ城 

9-10c頃 モラヴィア王国建国 :スラブ初の国 @今のチェコ、ハンガリー一帯 
0906   マジャール人・騎馬民族モラヴィア王国侵攻
 
0921   聖ビート大聖堂 
      ・
ゴシック様式 
      ・
大司教によるミサ 
      ・
バーズラフ王907-935@ボヘミア王国の骸骨をもって聖バーズラフのミサを行う@聖バーズラフ礼拝像 
1000   南はハンガリー王国に分裂
1198   北はベーメン(ボヘミア)王国成立
      ・ベーメン王国は独立が困難となり神聖ローマ帝国の属国として生きていた
      ・神聖ローマ皇帝:オットー1世912-973 ⇒前任はハインリッヒ1世876-936
      ・神聖ローマ皇帝がベーメン王を兼任
      ・ベーメンの資源・ズデーデン地方は神聖ローマ皇帝が支配
        ベーメン国民は貧困のまま
      ・1356 選帝侯位獲得    ~1806
      ・1526 ハプスブルク朝支配下~1804
      ・1848 ベーメン民族運動@プラハ (1848革命)⇒チェコ語承認される
           ⇒オーストリア軍が鎮圧
           ⇒ベーメンのスラブ民族会議解散

      ・1849 ハンガリー独立
      ・1918 チェコスロバキア独立
           ⇒チェコ在住のドイツ系住民が騒ぐ
      ・1939 チェコがナチスドイツの支配下
           ⇒チェコ人迫害される
      ・1945 ヒトラー自殺
           ⇒チェコ国内のドイツ人は全員追放

      ・1989 ビロード革命
      ・1993 チェコ独立
           

     ハインリヒ7世_(神聖ローマ皇帝)1275-1313     
      ┗ヨハン・フォン・ルクセンブルク1296-1346
1346      ┗カレル4世1316-1378(ボヘミア王 神聖ローマ皇帝 ローマ王 イタリア王)の時代 
      ・
プラハ城大聖堂を設計 完成までに600年
        
→ 大統領府として使われている(現大統領:バーツラフ・クラウス ハヴェルの後任)
      ・
現在のプラハを建設(大規模都市計画)
        
バーツラフ広場
        
カレル橋By独建築家
        
カレル大学:中央ヨーロッパ初 医学 哲学 神学 法学)

14世紀末 教会腐敗 司祭腐敗 --- 悪魔が神父の衣をまとう風刺画が流行

     免罪符で金儲け(宗教改革は16世紀)---戦争の為の金集め

     ベツレへム礼拝堂 For貧しいチェコ人 説教師がヤン・フス1369-1415 : 火刑 叫んだ言葉が「真実は勝つ」 

16世紀  プラハ城はハプスブルク家の支配下(約400年)

     スペインの間は圧巻 : チェコは支配下@1968 露共産党 

1620   ピーラー・ホラの戦い:フス派やプロテスタントの貴族の蜂起

     ハプスブルグ家の勝利 広場では27名が処刑(石畳に十字架) 首はカレル橋に吊るされた

     祖国を追われたプロテスタント市民は15万人

18世紀  マリア・テレジア1717-1780の間 

     聖バーツラフの王冠をかぶるテレジア

1880   スメタナ1824-1884演奏@ウルベ川 「我が祖国」

     バロック建築の大聖堂建設開始

     ステンドガラス : 聖キリルと聖メトディウス アルフォンス・ムハ作1860-1939 アールヌーボー時代

1914   第一次世界大戦 : チェコはオーストリアとして参戦

     マサリクの独立活動 with 英仏露 (チェコスロバキア義勇軍)

     マサリクは反逆罪 娘は投獄

1917   ロシア革命     

1918   トマーシュ・マサリク1850-1937 WW1後米の支援によりチェコスロバキア独立 ハプスブルグ帝国滅亡

        1850年頃のチェコ:独が支配 父は農奴 母はマサリクに独語学校に通わす

        ヤン・フス派の教会

        カレル大学の教授

        チェコスロバキア共和国の初代大統領:チェコに初めて民主主義をもたらす

        城を市民に開放

        大統領旗 : 真実は勝つ

        チェコ独立運動の指導者としてプラハ城に立つ

1938   ナチス独はチェコ・ズデーデン地方併合 : 英仏承認

1939   プラハ占領

1948   ヤン・マサリク謎の転落死 

1968   露によるプラハの春への弾圧 

     チェコ人によるチェコ人への弾圧

1989   ベルリンの壁崩壊 --- 民主化

     ハベルの闘争

     12-29 ハベル大統領就任式

2004   EU加盟

 

 

       

----------------------------------------------------------------------------------------

     ドイツ、ポーランド、オーストリア、スロバキアに囲まれ、プラハを首都とする国。オーストリアとの国境近くのチェスキー・クルムロフは中世の街並みが残る世界遺産の街。12世紀のゴシック様式、16世紀のルネサンス様式などの建物は、ドイツやオーストリアの貴族など権力者が変わるたびに街が変貌した。平原を東に進むとインジフーフ・ハラディツ・・・テルチ(縁:ポウタ)。ここも世界遺産の街で14世紀に築かれた真珠の街。中心には世界で最も美しいと称えられたザハリアーシュ広場がある。社会主義時代とは違って今は自分の店を持つことができる。

     プラハは14世紀に神聖ローマ帝国の都となり栄華を極めた。市庁舎にある天体時計は1410年には存在したという高度な技術がうかがえる。1402年、神聖ローマ帝国時代に築かれたカレル橋、歴代の貴族たちが居を構えたプラハ城、第二次世界大戦ではナチスドイツに侵略され、ヒトラーがこの城に入り、戦後はソビエトの指導者たちが入ったという。1968年プラハの春ではソビエトが侵攻、街は7000台の戦車で埋まったという。1989年のビロード革命では自由を求める市民30万人がバーツラフ広場に結集。今チェコはEUに加盟して自由な国に変貌している。

     カルロヴィはチェコ北西部にある温泉地帯、なぜか温泉にないるのに医者が診察。効能にあわせた入り方を教えてくれるそうな。またこの地方はズデーデンといって有数の工業地帯でもある。多くのドイツ人250万人が移り住んだ。チェコの都市ヘプは独との国境にある街、そこにあるドイツ人墓地は第二次世界大戦後に破壊された。ナチスドイツの侵略によりヘプ(かつてはドイツ系住民が90%で、今もドイツの家屋が残る)を拠点にチェコ全土が侵略された歴史があるからである。1945年になると逆にチェコはドイツ系住民を強制追放、その過程で20万人ものドイツ人が亡くなった。近年チェコとドイツは和解して墓地も修復されたという。

 

コメント    この記事についてブログを書く
« 【オーストリア-3】 19世紀 ... | トップ | 【オーストリア-5】 オース... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

世界史-欧米・ロシア」カテゴリの最新記事