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安土城

2008年04月07日 | 戦国時代

安土城

 織田信長が天下統一を目標に1576年重臣である羽柴長秀を総普請奉行に据え標高199mの安土山に築城させた平山城で、岐阜城に比べて京都に近い利便性があり、北陸・東海の要所であった。 現在は四方が干拓により陸地になっているが、当時は琵琶湖の内湖に囲まれ南方のみが開けた地形であった。 本能寺の変の混乱の中、1582年6月15日天主などを焼失し一夜のうちに落城した。(パンフ解説より)

大手通 (天主跡まで約400段の石段はここから始まります 2008/4/6)

 

羽柴秀吉邸跡

 

150段あたりでしょうか。満開の桜を眺めながらひたすら登ります。

 

石段には多くの石仏が利用されています   前田利家邸跡の奥に徳川家康邸跡がある

 

武井夕庵邸跡                 織田信忠邸跡

 

織田信澄・森蘭丸邸跡

 

天主跡の手前にあるのは織田信長公本廟

 

 

天主閣址

 

天主閣址からの眺望

 

織田信雄公四代供養塔

 

信雄流織田家初代 織田信雄公(信長次男) 1558-1630

宇陀松山藩2代藩主 織田高長公(信雄五男) 1590-1674

宇陀松山藩3代藩主 織田長頼公(高長次男) 1620-1689

宇陀松山藩4代藩主 織田信武公(長頼嫡男) 1655-1694

 宇陀松山藩主は福島高晴1575-1633で、福島正信を父に、福島正則を兄に持つ大名である。 兄・正則と共に豊臣秀吉に仕えて1594年、伊勢長島に1万石を与えられた。 1600年の関ヶ原の戦いでは兄と共に東軍に与し、氏家行広の桑名城を攻め、功績により大和宇陀松山3万石に加増移封される。 しかし1615年、大坂夏の陣で豊臣氏に内通していたとして改易される。

黒金門(安土城中枢部への入り口)跡に使われた石垣

 1575年、織田信長は天下布武を宣言した後、家督を信忠に譲って岐阜城を出、安土城の築城に着手した。 1575年は織田信長の対朝廷・寺社本所の統一的な施策が相次いだ年であった。 洛中洛外の寺社本所領の保護をうたい、3月には諸門跡・諸公家衆のための徳政令を実施し、11月には公家衆に所領を宛がった。 これには足利義昭追放による彼等の不安を取り除く目的があり、足利氏の幕府にかわって自らが独立した政権を樹立したことを宣言する狙いがあった。 そして11月、信長から信忠への家督譲渡が行われた。 信長は茶の湯の道具のみを持って佐久間信盛の私邸へと移ったという。 信長の本国ともいえる尾張・美濃と家督とが譲られ、信忠を尾張・美濃の大名としたことは、柴田勝家らを越前の大名としたことと同じで、自らを大名の上に立つ統一政権とし、官位についたのである。 1年後には正三位・内大臣、翌年には従二位・右大臣、そして1578年には正二位となったが、すぐに右大臣を辞任し以降官職に就くことは無かった。

 戦国大名から脱皮するために岐阜城をでた信長は統一政権の象徴ともいえる城郭の建設に着手する。 安土山の頂に天主を置き、その周りには本丸御殿、二の丸御殿を配置した大規模な城郭である。 1576年に普請が丹羽長秀に命じられ二月には信長は安土に居所を移し、四月には石垣を築くために六角氏の城があった観音寺山や長命寺山から大石をひき、安土山へ引き上げさせた。 そのために畿内の諸侍が召し寄せられた。 築城のために京都・奈良から大工、諸職人が召し集められ、国役としての安土城の工事に従事するように朱印状がだされた。 また、京都にも上洛時の居所を造るべく摂関家の二条氏の屋敷を接取して二条城の築城を村井貞勝に命じた。  この二条城は後に誠仁親王の御所として献上している。 安土城は朝廷の官職から自由な居城であり、信長の政権構想の核となる城であった。 安土は京都や本願寺に遠すぎず近すぎず、防衛面からも安全性が高く、政治的、軍事的な条件が配慮されている。 また、琵琶湖の水運を使った物流ルートとしての重要性を持ち、伊勢や近江を結ぶ交通路もおおい。 信長はこれらの立地条件に重点を置いて安土築城を行ったのである。

 着工から3年後の1579年に安土城の天主が竣工し五月に信長が移っている。 自らを超越した存在であることを狙い、天皇を迎える御幸の間のある本丸御殿は下段に造っている。 高さ13mの石垣の内には地下一階を設け、地上6階からなる計7階建ての高層建築である。 5階は8角形で内柱を金に、外柱を朱に塗り釈迦説法図と六道絵が描かれていた。 最上階の6階は内外ともに全て金箔が貼られ柱は黒漆塗りである。 5階とあわせて儒道仏の三教一致の思想が表現されており、そこから導き出される天道思想の具現として天主が築かれたとされる。天主の造形には足利義満が建てた金閣寺や中国禅林を範とした造形なども採用されている。

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