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千利休

2008年04月07日 | 戦国時代

千利休

 室町八代将軍足利義政は銀閣寺の東求堂同仁斎で代表される東山文化を追求したが、その頃珠光は茶道の基礎を固めることになる。 茶を書院造の空間から数奇屋造の狭い空間で楽しむ形に変え、数奇屋は後に茶室に発展し千利休が茶道を完成させた。  室町末期の戦国の世に武野 紹鴎(1502年-1555年)という茶道の名人が現れる。 それは堺の豪商(皮革商)に育った武田新四郎であるが、京へでると三条西実隆に歌道を学び、紹鴎と名乗り珠光の茶の道を進化させた。 華美な道具を排除して「わび・さび」 を強調したのである。 そして紹鷗のもとに入門してきたのが堺の魚屋で田中与四郎である。 後に千利休(1522年-1591年)と号し、無駄を省いて、緊張感を作り出すというわび茶(草庵の茶)の完成者である。  法名を宗易と号していたが、利休の名は、1585年の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないために正親町天皇から与えられた居士号であり、晩年の短い期間だけ呼ばれたものである。 戦国時代の茶人・宗及とともに織田信長に認められた宗易は次第に秀吉と結びつき、三茶頭に招かれ、大阪城を建てたときに行われた茶会にも招かれるようになった。 関白となった秀吉は御所で茶会を開き正親町天皇を招いたが、 このとき後見として宗易は控えていた。 宗易は茶の名人ではあったが無位無官であり御所の畳を踏むことは出来ない。 そこで利休という号が天皇より与えられたのである。 居士の考案者は、大林宗套、笑嶺宗訢、古渓宗陳など諸説があるが、いずれも大徳寺の住持となった名僧である。 号の由来は 「利心、休せよ」(才能におぼれずこの境地を目指せ)と考えられている。

大徳寺・聚光院

 聚光院は千利休が檀越になり茶道三千家の菩提樹になっています。 もともと1566年に三好義嗣が養父である三好長慶(重臣には三好三人衆といわれた三好長逸、三好政康、岩成友通がいる)を弔うために建立したもので、その名は三好長慶の法名に由来する。

 千利休は1591年秀吉の命令により切腹したのであるが、その理由に大徳寺の木像事件が考えられる。 利休は大徳寺に山門を寄進したのであるが、大徳寺はそのお礼として、利休の木像を造り山門上の金毛閣に置いた。 大徳寺を出入りするということが利休の足元を通るということにばり、これが秀吉の逆鱗に触れたのである。 秀吉は利休を堺に追放し謹慎処分とした。 利休には詫言を言う機会はいくらでもあったが、周りの忠告を無視したという。 黄金の茶室で象徴される華美を好みとした秀吉に対して、わびの利休のこだわりが妥協を許さなかったのかもしれない。

大徳寺山門(二階部が金毛閣)                勅使門

 

 また、一説では舟岡山仏台石不敬事件がある。 つまり、千利休は二条天皇陵の墓石を大徳寺の聚光院に持ち帰って自分の墓石と手水鉢にしたというのである。 また光孝天皇陵の石塔を持ち出して自分の庭の燈籠として使ったりもしている。 朝廷崇拝者である秀吉は、これを断固許さなかったために切腹を言い渡したということである。 この墓石不敬は織田信長が城の石垣のために石仏、墓石を利用したことでも知られており、利休が織田信長に認められて茶人の道に入ったことを考えれば、織田信長の意思を受け継いでの不敬と云える。 ちなみに織田信長の墓も大徳寺内にあり、 聚光院の隣の総見院にある。

安土城天主跡までの石段に多く使われている石仏

 

安土城・織田信長公廟手前にある仏足石

 単なる石材として城郭の一部に使われ、昭和登山道整備のときに石垣の中から発見された。仏足跡はお釈迦様の足跡を表現したもので古代インドでは仏像に先立ち崇拝の対象にされてきたもので、日本では奈良薬師寺のものが現存する最古の物として有名である。

 

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