保元の乱の結果は源義朝の奇襲により後白河側が勝利したというが、その詳細はよくわからない。源氏の攻撃の特徴は奇襲であり、それは源為義、為朝も十分に承知している。そもそも奇襲攻撃は為朝によって計画・提案されたようであるが、藤原頼長により退けられたという。「夜討は卑怯、興福寺の僧兵の到着を待って決戦するべし」との記載が保元物語にあるらしいが、納得できる筋ではない。逆に後白河側の源義朝が白河北殿に夜討をかけ、平清盛の軍勢も為朝の守る西門を攻めた。これにより上皇方は総崩れとなり、崇徳上皇や頼長は御所を脱出、天皇方は残敵捜索をするとともに、為義の円覚寺の住居を焼き払った。頼長の敗北を知った忠実は、宇治から南都に逃亡したのである。 頼長は重症を負って興福寺へ闘争中に舌を噛み切って死亡、崇徳は末弟の覚性法親王が門跡を務めていた仁和寺に助けを求めたが、密告されて捕まった。そしてその沙汰は流罪という厳しいものであった。 また勝利した平清盛・源義朝に待っていた沙汰は、賊軍となった身内 平忠正およびその子、源為義およびその子の斬首であった。
藤原頼長が重症を負った宇治