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安徳天皇御霊跡地

2008年01月04日 | 天皇・皇后陵

安徳天皇御霊跡地

 安徳天皇陵へ行きたいと思いつつ、山口県までなかなかいけないままに現在に至ります。 四国の剣山にある安徳天皇縁の地も訪れたい場所のひとつではありますが、今回は豊能郡能勢町の安徳天皇御霊跡地へと行った次第です。 本日は生憎の雨で足元も悪く、どこまでいけるかわかりませんでしたが、行けるところまで挑戦です。 中国縦貫道路の池田ICを降りて妙見山方面からまず到着したのは”野間の大けやき” です。 この一帯には「蟻無宮」という神社があり、この大けやきは神木であったようで全国でも4番目の巨木です。 巨木に関する伝承では 「又経房遺書(安徳天皇ご潜幸の伝承)の一節に『・・・河合いにいとおほきなる沢ありて水よどめり、さハの中しまに市女が笠てふものに似たるいとうるはしき木の紅葉せしあり・・・」(原文)、奥書きは「建保五丑年」とあり、なにか大けやきを連想させるものがある。当社の創祀は、承久二庚辰3月15日とあり、遠く鎌倉時代にさか上るが、明治45年当社祭神は野間神社に合祀された。以後、神木の安全・境内の清浄化に蟻無会(前身は蟻無講中)をはじめ、郷民こぞって奉仕してきたところである。特に最近樹勢回復のため治療を施し、ようやく往時の姿によみがえろうとしている。』―現地説明文より―

 

 大けやきから西へ1kmほどいくと右手農道の奥に岩崎神社若宮八幡宮が見えてきます。 看板に書かれているのを要約すると、【 1185年3月24日壇の浦の敗戦に、平氏に擁護された安徳天皇は、二位の尼のはからいにより御潜幸になった。供奉する従者・左少弁藤原経房一行は、但馬の国等を経て、その年の6月15日、ここ摂津国能勢の野間郷に来られた。 長い苦難の旅路をこの地において快気され、安穏の月日を送られたのである。 二位の尼恋しさのあまり 『冬ちかき木々のこの葉も色よきに恋しききみのいかできません』と詠まれ、経房は涙せきあえず『色ふかくそむる紅葉のなかにもぞまつは時雨のかひなかりけり』 ご潜幸の年も明けた1186年5月17日朝まだき、供奉者らの手厚いご介護もむなしく、この地で崩御されたのである。 嘆き悲しみのうちにご遺体は、主上が日ごろ御幸のあった来見山に、御衣、ご調度は岩崎社にあわせ鎮めて「若宮八幡宮」とよび、経房、里人らによって長らく奉斎されてきたのである。 また主上の詠まれた来見山の歌 『初雪をめでつつここにくる見れば峯にきのふににずもありけり』 を御霊代として種長、景家らは野間大原の里に「来見権現」を勧請したという。  以上1817年、「経房遺書」によってこの事実が明らかになり、以来全国的にも知られて陸墓の話題に上った。 (撮影:クロウ)

 

安徳天皇の調度があわせ鎮められた「若宮八幡宮」

 

安徳天皇御陵墓までの途中にある侍従・藤原経房 『1166(仁安元)~1198年(建久9)-推定-/朝廷の儀式・礼法などに詳しく、また源平争乱の記事にも詳しい。経房は権大納言まで昇った人物で、源氏勢力の確立後は政治交渉を担当した。題名は経房の別邸が京吉田にあったことから、後に付けられたもの。江戸以降に記された新写本と抄出本が多い。』 の墓

  

目指すは安徳天皇御陵墓ですが、藤原経房の墓からなお5分ほど登ったところにあるという御陵墓まで行ける状態ではありません。雨のために足元も悪く・・・・ここで断念です。

 

途中で見つけた栗です。12月28日なのに何故か綺麗な状態で残っていました。

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