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一条天皇皇后・定子の死

2010年06月20日 | 平安時代

  詮子の体調がよくなると今度は道長の体調が悪くなり、追い討ちをかけるように道長にとって悪い知らせが舞い込んだ。例の顕光の娘で一条帝に入内していた元子が身篭った。承香殿の女御といわれるその人に入内を薦めたのは道長であるから文句は言えない。道長と同じく心穏やかではない人がもう一人いる。 弘徽殿に住む公季の娘・義子である。 顕光の薦めで霊剣新たかな薬師如来像があるというので人気の太秦の広隆寺に元子は参籠することとなった。 顕光はここで24時間切れ目なしで読経を行うという「不断経」を行っている。ところが驚いたことに陣痛の後、広隆寺で産まれたのは嬰児ではなく多量の水であったという。顕光はこの事件によって散々な目にあい、しかも北の方・盛子内親王まで亡くしている。そして998年の夏は新たな疫病のせいか、倫子の異母兄で参議の源扶義や書道家の藤原佐理が亡くなっている。

 999年2月9日、倫子の長女・彰子も11歳となり着裳の儀が行われ、従三位に叙せられた。昨年の秋に嵐に見舞われ、土御門邸から一条邸に移っていた詮子は、母以上の黒々とした髪を蓄えている彰子に惚れ惚れしている。そして詮子はこの姫の里邸として土御門邸を建て直すようにと提案した。 今詮子がいる一条邸はもともと為光が三の君に残した邸であったが、広すぎて手入れが出来ないということと、三の君は四の君と一緒に住みたいという意向から詮子が譲り受けていたのである。暮れに彰子の入内が決まったことから、娘の幸福を願って道長夫婦は、2月27日に藤原の氏神である春日大社に詣でている。さてこれからは倫子は母として多忙となるのであるが6月14日の深夜に内裏が焼失してしまった。 これでは入内できないと倫子は嘆くのであるが、倫子にとってもっとショックな出来事が知らされた。 定子の懐妊である。彰子の入内を目の前にして定子が懐妊するとは・・・・。8月になって定子は出産準備のために平生昌の三条邸に移った。9日のことである。定子の輿と3歳になる脩子内親王を乗せた車は無事に生昌宅の東門をくぐったが、清少納言たちがくぐるべき北門は狭くて車が入らず、殿舎まで歩くことを余儀なくされた。 一方入内を控えた彰子は40人の女房を従えて西の京にはいった。道長もつきっきりであるが、とりわけ鮮やかな働き振りを見せているのは大納言の君と呼ばれる倫子の姪である。 倫子にそっくりな君がかいがいしく彰子の世話をしているのを見ているうちに絶対に手放したくはないと思った後の事は覚えていない。 惜しげもなくさらされた挑発的な肢体は貪欲に唸りをあげていた。彰子が入内を果たしたのは定子が第二子を産む一週間前であった。 そして女御の宣旨を受けた彰子に一条帝のお渡りがあったことを倫子は聞くと安堵したのも束の間、定子が出産したのは皇子であった。 姉の脩子内親王に准じて親王宣下が下され、いつか一条が譲位し現東宮の居貞が即位したときには次期東宮の最有力候補になるに違いないとされていた。 そうすると中宮定子は今の詮子のような発言力を持ち、今は政界から追放されている伊周、隆家も俄かに力を得てくるだろうと目されたが、後に不遇の人生を送る敦康親王である。

冷泉天皇皇后・昌子内親王 岩倉陵

 

 やがて病臥にあった冷泉上皇の后・太皇太后宮・昌子内親王が12月1日亡くなった。 1000年は年頭から慌しく、2月21日に倫子が女児・威子を出産した。そして蔵人頭・行成が奔走する甲斐あって彰子の立后が叶ったのは2月25日である。 彰子が立后の宣旨を受けるために一条院から退出したのは21日、彰子の退出とひきかえに中宮定子は脩子内親王、皇子・敦康とともに一条院の北の対へ赴く。一条帝との対面が終わると次は上東門第ともいわれる彰子の里邸・土御門邸に移る。 彰子の到着と前後して、倫子の異母兄で大納言・源時中、為光の息子で誠信の弟にあたる参議・藤原斉信、同じく参議・源俊賢が顔をそろえた。 道長は彼等を従えて参内すると一条帝の内意が示される。新皇后彰子の中宮太夫には源時中が、権太夫には藤原斉信が任命された。 そして立后後最初の入内のときに、関係者の加階が行われる。倫子は従二位、彰子の乳母・源信子と源芳子は従五位下に叙せられた。また倫子の甥で道長の腹心権中納言・源成信も加階される。 こうした平安絵巻が繰り広げられた後、定子が再び身篭ったのである。 皇子・敦康を出産して100日も経たない時期であっただけに定子本人も驚いたに違いないが、一番唸ったのは道長である。 彰子の立后を強行したことに対する仕打ちか・・・。定子に比べれば彰子はまだほんの子供であるから、もはや彰子の将来は定子に阻まれたも同然。 とたんに道長は体調を崩したが、時に彰子立后の立役者である姉・詮子の体調も思わしくなく、霊に恨まれていると信じた道長は左大臣辞職しかないと思い込むが、一条は辞意を認めようとしない。いよいよ道長が伊周を復帰させ、もとの官位に戻そうと考えている矢先に訃報が飛び込んできた。 なんと12月16日定子が3人目の皇女を産んだ後息絶えてしまったのである。 本来であれば、彰子の最大の敵・定子が向うから脱落してくれたわけだから、幸運ではあるが、道長は伊周の霊に加えて定子の霊までが脅かすことになると恐れたのである。全く同じ気持ちを抱いていたのは詮子である。ある意味で源高明の祟りを恐れたために彼の娘・明子を引き取って育てたが、今回も定子の忘れ形見・び子内親王を含め3人の遺児を引き取ろうとしていた。

一条天皇皇后・定子 鳥戸野陵

 

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