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貞慶と笠置寺

2012年06月11日 | 鎌倉・室町時代

 南山城の当尾というと、木津川、笠置山、柳生の盆地、弥勒の大磨崖仏、岩船寺や浄瑠璃寺などで知られる。奈良公園から当尾に向うと県道のそこかしこに石仏が見られ、山の切り出しには大磨崖仏を見つけることができる。 岩船寺は行基の開基となっており、空海の姉の子・智泉が報恩院を建立したころから平安中期の浄土教が盛んになる。 本尊の阿弥陀如来は欅の一本造りの坐像で、当時の象徴といえる。 阿弥陀如来坐像で有名な平等院鳳凰堂の坐像と同じで、946年作である。 946年は平将門や藤原純友の乱がようやく鎮圧されたころであり、平安を願う人々が多かった頃なのである。 笠置寺、岩船寺を取り上げていながら、実は参詣したことはなく、残念ながら通り過ぎただけなので、見合った写真がない。 仏像の最高峰はもちろん奈良の大仏で象徴される毘盧遮那仏であるが、弥勒菩薩は、毘盧遮那仏、大日如来の次にブッダになることが約束された修行者である。 釈迦の入滅後56億7千万年後の未来に姿を現わして多くの人々を救済するとされる。 つまり弥勒菩薩というのは仏教の世界では未来仏なのである。 弥勒菩薩のなかでも半跏思惟像はよく知られているが、平安・鎌倉時代からは立像、坐像が作られるようになる。 

  笠置山といえば後醍醐天皇による二回目の討幕計画・元弘の変1331年が起こった場所である。 またもや側近の吉田定房によって鎌倉にしらされ計画は失敗し、後醍醐天皇は隠岐に流された。 しかし後醍醐天皇は笠置山に脱出すると、ここで挙兵し、楠木正成は本拠地で呼応した。 このとき幕府は本格的に笠置山を攻めて落城させている。 この時の幕府側の大将が足利尊氏である。 後醍醐天皇は捕獲され京に連行されると、二条為子との間にできた尊良親王は京で捉えられ、護良親王は吉野にはいった。 護良親王はもともと延暦寺の僧・尊雲法親王として押し込められていたが、還俗して護良親王と改名していた。 このとき楠木正成は河内の赤坂で孤立状態で奮闘していたが、とうとう夜陰に乗じて逃げてしまった。 百倍もの敵を相手にまんまと逃げおおせたというのは勝利に等しい。 後醍醐天皇は隠岐へ流罪、宗良親王は讃岐、尊良親王は土佐に流され、持明寺統の量仁親王(後伏見天皇と西園寺寧子との間の親王)が即位して光厳天皇となった。 

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