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赤穂坂越-1 渡来人・秦河勝と坂越生島

2020年06月09日 | 奈良・飛鳥時代

 秦河勝は、元々新疆ウイグル地区を本拠地としていた渡来人で、用明天皇(聖徳太子の父)、崇峻天皇(蘇我氏に暗殺された)、推古天皇(初の女帝)、聖徳太子に仕えた。やがて聖徳太子が蘇我氏の手によって暗殺される(旧坂越浦会所の館長さんも仰っていた)と、秦河勝は難を逃れるために摂津国難波浦を出航し、ここ播磨国赤穂郡坂越浦へ漂着したとされる。そして坂越で没したあとは坂越・大避神社に祀られたという。神社の神域である生島には秦河勝のものと伝えられる墓があり、この墓に行けるのか?と尋ねたところ、大避神社の関係者でも行く事は禁じられているとの事だった。因みに河勝は秦氏の長で、京都太秦や嵐山界隈は秦河勝の本拠地である。

 聖徳太子は622年4月8日に謎の死をとげている。その前日には寵愛した妃・膳部菩岐々美郎女が亡くなり、二か月前には母親・穴穂部間人皇女が亡くなっている。因みに間人皇女の同母弟の穴穂部皇子は587年に謀反の罪で、崇峻天皇は592年に、いずれも蘇我氏の手によって暗殺されている。そして聖徳太子の死後、643年には山背大兄王(聖徳太子の子) 一族25名が自刃に追い込まれた。このように聖徳太子の周辺では不可解な死が数多く、特に太子の死の前後については病死という説もあるが、殯(一定期間 、棺に遺体を納めて祀る儀式で、暗殺の場合は行われない)が行われていないことから病死は極めて信じがたい。

旧坂越浦会所の展示物

坂越茶臼山城跡から眺めた生島

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