木曾義仲は幼い頃父・義賢を殺された。 殺したのは頼朝、義経の兄にあたる義平であるから父を従兄弟に殺されたことになる。 理由は領地争いであり源氏の本家の後継騒動である。 義賢とともに木曾義仲も殺されるところであったが父の家臣・斉藤実盛が幼い義仲を武蔵国の館から救い木曾の中原兼遠に預けた。 父・義賢を葬った義朝、義平親子は保元の乱で勢力を拡大したが平治の乱では清盛に敗れ源氏は没落したから、仇をとってくれたのは平家ということになる。 それから十数年たって源氏として中央で唯一生き残った源頼政と以仁王が平家打倒の狼煙を挙げたことにより木曾義仲も挙兵し、倶利伽羅峠の合戦をはじめとして信濃国の平家側の豪族を破り連戦連勝し、五カ国を手中に収めた。 一方頼朝は石橋山の戦いで完敗したあとは東国武士を集め10カ国を治める復活を遂げていた。 両者がぶつかったのはこの頃で、木曾義仲は嫡男・義高を人質に差し出すことで和睦し、お互いの損害を回避する。 勢いに乗る木曾義仲が都に迫ると平家は安徳天皇と三種の神器とともに都落ちしたが、後白河には比叡山に逃げられた。 この頃の寺院は武装集団であるから逃げ込まれると取り戻すのは難しい。 木曾義仲は無血入京を果たすと、後白河を比叡山から迎え入れ 院政を復活させると、木曾義仲は左馬頭に任じられた。 左馬頭は源氏棟梁が与えられていた官職であり源氏の第一人者になった証でもある。 ところが後白河は既に頼朝に使者を出して鎌倉に牽制をさせている。
木曾義仲と後白河が対立する事件が起こる。 平家が安徳天皇を連れて都落ちしたので京には天皇不在である。 そこで後白河は自分の孫の中から天皇を指名することにしたが、木曾義仲は北陸宮という以仁王の遺児で義仲が保護していた若者を推した。 とおろが後白河はこれを認めず、皇位継承問題に口出しする木曾義仲との対立が深まっていった。木曾義仲の力が強大になることを怖れた後白河は頼朝を流罪人から元の官位・右兵衛佐に戻したことで木曾義仲は激怒し頼朝追討の院宣を求めたがこれには応じず、 その頃平家は西国で勢いを吹き返すと 義仲はこれを征圧すべく備中国の水島で一戦を交えた。しかし義仲は生涯初めてともいえる大惨敗を喫した。 あせった木曾義仲は御所を襲って後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉して、頼朝追討の院宣を出させて征夷大将軍に任じさせた。 このとき木曾義仲は旭将軍といわれたようである。政権は掌握したものの極めて評判は悪く、関東で基礎固めをしてきた頼朝はこのとき初めて動き出す。 源範頼を総大将とした義経との連合軍である。 義経は宇治川を押し切り京へ兵を進めた。 1184年、義仲は六条河原でこれを迎え撃ったが、経済基盤のない義仲軍の多くは逃げ帰り、義仲も近江国瀬田から粟津まで逃れたときにはわずかに数騎にかおらずとうとう息尽きることとなる。 木曾義仲は強引に征夷大将軍になってからわずか9日後のことである。 木曾義仲の馬は深田に脚をとられて身動きがとれなくなると、敵の矢に額を射抜かれ、今井兼平は口に刀をくわえて馬上から飛び降りて自害した。
義仲寺は戦死の地のほとりにあり義仲の墓がある。後にこのあたりを領地にした源氏の一族・佐々木氏は寺を建立した。 松尾芭蕉はこの景勝の地を愛してここに葬るように遺言したから、今でも 義仲と芭蕉の墓は隣り合わせに立っており、木曾義仲の妻・巴御前や愛妾・山吹の石碑もあります。 平家物語に、木曾義仲の最後を記した箇所があります。惨めではあったが木曾義仲という名将を表した部分は私は大好きなのでここに追記したいと思います。
----------------平家物語より 木曾義仲の最期----------------
巴御前はいわずと知れた木曾義仲の正妻である。 今となっては今生の別れを覚悟し、化粧を整え出陣の用意をしていた。 義仲は万一の為に平家に対して西方を固めるべく巴の兄・樋口兼光を淀の南に差し向けていたが、 ここで弁慶・三郎軍に打ち破られたという一報に驚いた。 宇治の本陣とは別の隠し勢が疾風のようにあらわれ、野営の眠りを襲っていたのである。 そして兄・兼光を援護すべく巴御前を加勢に急がせた。 このとき義仲も巴も木曾軍の行く末を覚悟していた。 また、病に臥せっていた義仲の妾・葵御前も援軍のため戦場に駆けつけようと、支持を仰いでいた。 宇治川が危ないという知らせが入ってきたときである。しかし義仲は葵に故郷へ落ち延びろ、と言い渡した。 しかしもはや葵御前には義仲とともに討たれはてることこそ本望であると考えていた。 数知れぬ東国勢は七条河原・大和大路にまで迫っていた。 義仲は先頭をきって、わずかに60騎で七条河原へ挑んだのである。 さすがに東国武者も馬も疲れぬいていたせいか、義仲は木曾の手並の程を思い知らせた後、40騎ほどで五条の院の門へ急いだ。 すると、そこには小柄な女雑兵が身を潜めていた。「殿!」 と叫んだ後駆け寄って、「今日こそお供を果たす日!殿、共に死にましょう」 といったのは山吹である。 義仲はまだ自害する気など毛頭なかったのはゆうまでもない。 しかし山吹の義仲に対する歪んだ愛情・執念は並大抵ではなかった。 死とは全く別の恐怖と山吹への憐れみを感じながら、義仲は片足の鐙をはずして山吹を蹴りはなした。 するとどこからともなく、一本の矢が山吹を突き刺し「っぎゃ」という悲鳴とともにもがいていた。 道のいばらが取り除かれると義仲は馬をはしらせた。 五条のから梅小路へ急いだ義仲は、もはやいるはずもない冬姫の方向へむいている。 ふとみると老婆がたちすくみ、義仲を待っていたかのように「姫君の殿!」と叫んだ。 姫は中にいて義仲を待ち焦がれていたのである。 義仲は耳を疑った。 後白河の院はもとより、木曾を恐れて冬姫を助けにこない父・基房に憤りを感じながら、 冬姫に駆け寄った。 考えてみれば、関白の家に生まれ、父と仲良く過ごすことも少なく、華やかな邸では孤児同然であった。 義仲も木曾の孤児である。 「義仲は武者の末路を辿るが、おん身は元の園生にもどられよ。 そして鬼のごとき者とであった日は忘れてくれい」 というと、「どうして、わすられましょうか。ましてあなたを鬼などと思えましょう」 二人は今生の別れの抱擁をすると、「・・・・姫!さらば」 といい残すとわずか30騎の義仲軍は駆け抜けた。
鎌倉勢は徐々にその数を増し、義仲勢は減っていくなかで、思いがけない味方が現れた。 風にも耐えない細い体に物の具を華やかに着、かんばせは化粧を施し、薙刀を振るって精悍な東国武者の間を駆け抜け、必死な戦いをしている者がいたのである。 葵御前であった。 殿軍を勤めて殿を落ち延びさせようと・・・・。
一方巴御前は義仲を慕って急いでいたとき、内田三郎に呼び止められた。 「そこなるは、巴御前とかいう世に聞こえたる女武将にてはあらざるか。返し給え。」 駒を向け直した巴は、「身は木曾殿が室の巴御前ぞ。作法ある武者とは見ゆ。相手になって進ぜよう。」 と薙刀を持ちかえた。 長やかな黒髪を束ね、額には星と輝く白銀の鉢巻をし、葦毛の駿馬・春風を走らせると、首のない三郎の体が振り捨てられた。 巴はさきの優しい三郎の名乗りを想い、岩の上に首をすえ手向けると、 近くに一人の武者の死骸を見つけた。 その鎧、袴、そして自分と同じく額には天冠を締めた姿はまぎれもなく葵の前のいでたちであった。 病床にありながら何故・・・体はまだ生暖かく、こと切れてはいなかった。 良人の愛を横取りして我が物顔をした女などとうらんだこともあったが、今はそう思おうとしても浮かんで来なかった。 「憐れや、女心・・・」 と身につまされると、近くのみ社に葵を預けた。 葵はうっすらと眼を開いて何かをいいたげに涙ぐんだ。 涙はどんな言葉よりも多くの、そして過去の一切を語っていたのである。
そのころ、義仲はわずかな手勢で頼朝軍のまっただなかにいた。 薄金の鎧すら身に重さを感じながら竹馬の友・兼平と涙し、木曾6万の大軍もいずこへ・・・ と無量な感に打たれずにはいられなかった。 甲斐の一条忠頼、土肥実平、などが木曾の大将軍・義仲を見つけると、続々と呼ばわりかかってくる。 その怒号のなかで一人の味方の姿をはっきりとみた。東国の武者に取り囲まれながら、ほのかな命を燃やす巴御前の姿である。 「巴・・・」という心からの真実の声は巴には届いていない。 この刹那、三浦の住人・石田次郎為久は 「木曾殿の御首級を、われ揚げたるぞ!」 と体中から怒鳴っていた。 まだ事実をしらない巴は、一人30騎に囲まれていた。 たかが木曾の知れた女武者、と無造作に組み付いた者はことごとく死骸にされていた。 そのとき巴は敵の中に、和田義盛の手の者との名乗りを耳にした。 そのとき、鎌倉方の犬として捕らえられ、首斬られるところを自分が救って放してやった西浦七郎という男が脳裏をよぎった。 巴は鎌倉殿へ、木曾の人質子として嫡男・義高を預けていたが、その番士と聞いて、わが子恋しさ、後の便り得たさで放してやったことがあった。 そして幾たびか七郎の才覚により義高のいじらしい文が届いていたのである。 「西浦と呼ぶ武者やある!巴が求める敵よ。見参あれ!」 というと 「おうっ」 という声がした。確かに見覚えのある眉目である。 巴は和田・・と聞いたときに、何故か人目、義高に会いたい・・・と変わっていた。 巴は七郎と組み合うと、下にねじ伏せられ、望みとおりに生け捕られたのである。 後に、良人の首と兄の首をひとところに見たときには、何故死ななかったのか・・・と悔いた。
範頼、義経その他の鎌倉武者の華々しい行列が、亡き将義仲、兼平、根井、盾などの首級を掲げて六条東獄の門へ向かっていた。 首は宿命の木にかけられる。ところが数日後、義仲の首だけが盗まれていた。 ある夜、鳥辺野に身を横たえた女雑兵は一個の首を火葬していた。 泣いて泣いてそれを灰にしていた。義仲が最後の戦に出る朝に葵の矢に射抜かれた山吹であった。 射抜かれたところは倶梨伽羅峠で山吹が葵を射抜いたと同じ深腿である。 山吹は後に義仲の遺骨を抱いて北陸のにて生涯供養を余生の生活として長寿したそうである。 また、明神で正気をとしもどした葵の前も越前に帰り、義仲の縁につながる人々に義仲の最後告げ歩き、晩年おそらく清雅なものであったと思われる。 義仲の死後もっともいじらしい犠牲が残されていた。 冬姫である。 父・基房が娘もある梅小路にかけつけたときには、眠るがごとく死んでいた。毒を飲んでいたのである。 いつの日か、父から授かった手紙が机に置かれ、それは語らずとも父、院への激しい抗議であった。