山背大兄皇子は厩戸皇子の第一皇子で皇太子候補でもあった飛鳥時代の皇族筆頭である。母は蘇我馬子の娘・刀自古朗女-623、平和主義に徹したことから一族滅亡の道を自ら選んだ悲劇の皇太子でもある。蘇我入鹿がなくなる二年前の643年に一族の上宮家は滅亡し、その埋葬地は斑鳩・富郷陵墓参考地とされていますが定かではないようです。
背景に見える丘中腹まで行ったのですが、山背大兄皇子の墓は見つからず断念
厩戸皇子の嫡男・山背大兄王一族が滅んだ理由をきわめて要約すると以下となる
推古9年から太子の革新政治が始まり、小墾田宮建都は舞台づくりで、仏教が発生し弾圧された聖地、理想主義的政治をしようとする厩戸皇子の都としてふさわしい場所といえる。 またこの地は厩戸皇子の祖父欽明帝の宮から西へ2km、厩戸皇子の叔父・敏達帝の宮の南1km、推古の同母兄用明帝の宮にも近く、稲目の家があった地であり、蘇我馬子から少し距離をとって太子独自の政治を始めるにふさわしい。 持統天皇、元明天皇や藤原不比等によって完成された律令官僚制の基礎をつくったのは厩戸皇子であり、天皇記や国記は古事記や日本書紀の先駆をなしたといわれる。 ところが律令制は都城制とは切り離せないものである。 推古11年の小墾田宮遷都はそういう律令制にふさわしい都城をいとなむことができるものでなければならない。
推古29年厩戸皇子は死に、推古34年に馬子が、推古36年に推古帝がなくなった。 推古末期には馬子の子・蝦夷が権力を握り、推古の次の天皇には厩戸皇子の嫡男・山背大兄王ではなく、敏達の孫であり、彦人大兄皇子の子である田村皇子を推挙した。 山背大兄王が血統と才能において優れているにもかかわらず、蘇我の血をひいていない田村皇子を推した。 山背大兄王と蝦夷の時代になって、馬子の現実、厩戸皇子の理想のギャップはどうしようもないほど広がっていた。 山背大兄王の理想主義は蝦夷にとっては耐えられないものになっていた。 蝦夷には、次は馬子の娘・法提郎女の生んだ古人大兄皇子を即位させれば蘇我氏は安泰であるとの考えがあった。 しかし舒明帝は蝦夷の思うようにはさせてくれなかった。 舒明には蘇我の血がはいっていない宝皇女との間に中大兄皇子がいて、当然彼が皇太子にいて皇位継承を主張すべき地位にいた。 蝦夷にとってはこの中大兄皇子が恐るべき存在であったのだ。 舒明2年、都を飛鳥の岡に移したのは厩戸皇子の政治との決別であり、小墾田宮に色濃く残る厩戸皇子の影からのがれようとした。 斑鳩の山背大兄王の政治的圧力からのがれようとした。
舒明の治世においてたびたび都が移動している。 飛鳥岡本、田中、そして百済へと遷都したのは明らかに蘇我氏からの離反を示している。 舒明の即位は蝦夷の強引な推挙によるものであるが、血統はどうしようもなく、蘇我の血をひかない舒明と蝦夷の間に溝が生じ、舒明はたびたび有馬や伊予の湯治にでかけて、蘇我氏からの脱却を図った。 中大兄皇子が皇太子になったのも、宮を飛鳥から遠くに離して飛鳥や豊浦に住んでいた蘇我氏の圧力から自由になったためである。 百済宮はかなり大きな都城の建造を意図したものであり、舒明は祖父の宮のあったこの地に、蘇我氏、厩戸皇子の本拠とも離れた巨大な都城をめざした。 蝦夷は、舒明の死後、皇后の宝皇女を皇極帝として即位させた。 山背大兄王でもなく、古人大兄皇子でもなかったのは、蝦夷の子・入鹿が皇極帝の寵愛を受けていたからである。 寵幸の近臣というから、男女関係を想定した寵愛であった可能性がある。 そして皇極の治世には入鹿による専横がより激しさを増していく。 皇極帝は元年、642年に百済大寺を建てようと夫の意思をついだが、あきらめて小墾田宮に遷ったのである。 ここは東宮・中大兄皇子の宮があったところで、この南に仮宮を建てた。 そして皇極2年の4月に飛鳥板葺宮に新宮を建てる。 ここは馬子の墓も近く、蘇我氏の本拠であり、皇極帝が完全に蘇我入鹿の意志のもとにあったことを意味する。
蘇我氏による王族の殺害は山背大兄王のときが初めてではなく、崇峻天皇殺害も実行している。 しかしなんら朝廷に動揺はなく、馬子への非難もない。 山背大兄王一族殺害でも蘇我氏に対する非難はそんなにおきていない。 事件の背後には皇位継承問題があり、蘇我氏だけによるものではない意図が働いていそうではある。 山背大兄王一族が滅亡した時点で、蘇我氏が推す舒明天皇の皇子・古人大兄皇子が有利であった。 中大兄皇子は若く、時期尚早であった。 皇極としてはしばらく皇位に居座り、わが子・中大兄皇子が成人した段階で譲位するつもりであった。 しかし蘇我氏からの圧力は高まる。 蝦夷・入鹿は甘樫岡に邸宅を作り、皇極への威嚇の意図もあって東漢氏の兵力を動員して軍備を増強した。 皇極は追い詰められており、先手を打ってクーデターを起こしたというのが真相なのかもしれない。 日本書紀には入鹿が皇位を狙ったという所伝がみられるというが、これは藤原氏による捏造、蘇我氏を逆賊にしようとするためのものと考えてよい。 蝦夷・入鹿がもくろんでいたことは古人大兄皇子の即位である。
大化新政権は律令国家建設をめざした改革であり、それらを草案したのは唐からの国博士・僧旻と高向玄理である。 僧旻は飛鳥寺の寺主を務めていたから蘇我氏とも近い人物である。 僧旻は自らの僧坊で周易を青年貴族層に講じており、そこには若き日の鎌足や入鹿がいた。 そして師から高い評価をえていたのは入鹿である。 僧旻は祖国・唐との交渉を望んでいたが朝廷はそれを許さなかった。 こうした状況を周易にとりいれた講義に入鹿は興味を抱き、国政改革を目指していたものと思われる。 皇極天皇から絶対の信頼を得た入鹿は、結局だまし討ちによって殺された。 当時の政権の主導権は天皇よりも入鹿にあったから、謀反の罪で征伐するのは不可能だったのである。 つまり何ら正当性のないものであり、この凶行が成功したとしても諸豪族の支持を得られるかどうかはわからなかったから、中大兄皇子らは飛鳥寺に篭って次の戦いに備えた。 しかし諸豪族は蝦夷側にはつかなかった。 蘇我氏の支流ではあるが、蘇我倉山田石川麻呂を味方につけていたのは大きかった。
阿部倉梯麻呂?-649
不明 ┣橘娘 ?-681
仏教賛成派 ┣吉備姫王 ┗小足媛624-?
蘇我稲目-579 ┃ ┣軽大郎女 ┣有間皇子639-658┓
┣蘇我堅塩媛 ┃ ┣36孝徳天皇(軽皇子)594-654 ┓┛
┃ ┃ ┏━━━━━━━━━┛ ┃ 飛鳥宮 ┏漢(建)皇子 ┃
┃ ┣桜井皇子560-587 ┣35皇極天皇(宝皇女)594-661 ┃
┃ ┣炊屋姫(33推古天皇)554-628┃ ┃板葺宮 (37斉明) ┃
┃ ┃ ┃ 大俣女王┃ ┣間人皇女628-665 ┛ ━┓
┃ ┃ ┣田眼皇女 ┣茅渟王 ┣40天武(大海人皇子)630-686 ┃
┃ ┃ ┣竹田皇子 ┃ ┃ ┃┣十市皇女648-678 ┃┓
┃ ┃ ┣尾張皇子 ┃ ┃ ┃額田王631-689 ┃┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣舎人皇子676-735 ┃┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃┣三原王-752 ┃┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃┃┗小倉王-□□-清少納言 ┃┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃┣大炊王733-765(淳仁) ┃┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃┃┣- ┃┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃┃粟田諸姉(仲麻呂義理娘)┃┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃橘娘┃当麻山背(当麻老娘) ┃┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃┣新田部皇女-699 ┃┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃┣明日香皇女-700(忍壁妻) ┃┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┣38天智(中大兄皇子)626-671 ┛┃
┃ ┃ ┃真手王 ┃ ┃乳母は蘇我,葛城で育つ ┃┃ ┃
┃ ┃ ┃ ┗広姫 ┃ ┃ ┣大友皇子648-- ┃┃ ━┛
┃ ┃ ┃ ┣押坂彦人皇子┃宅子娘┣葛野王669-705┃ ┃
┃ ┃ ┃┏━━┛ ┃ ┃ 十市皇女648-678 ┃ ┃
┃ ┃ ┃┃小熊子女┣34舒明天皇(田村皇子)593-641 ┃ ┃
┃ ┃伊比古郎女┃┃┃ ┣中津王 ┃┣古人大兄皇子-645 ┃ ┃
┃ ┃ ┣麻呂古┃┃┃ ┣多良王 ┃法提郎女馬子の娘┗倭姫王 ┃
┃ ┣31用明天皇┃┃┣糠手姫皇女-664 ┣蚊屋皇子 ┃
┃ ┃宣化 ┗┃┃┃━━┓ 蚊屋采女 ┃
┃ ┃ ┗┓ ┃┃┃ ┣来目皇子 ┃
┃ ┃石姫皇后 ┃┃┃ ┣殖栗皇子┏━━━━━━━━━━━━━┛
┃ ┃ ┣敏達天皇538-585 ┣茨田皇子┣大田皇女644-667 石川郎女
┃ ┃ ┃ ┃ ┃┣大伯皇女661-701┣-
┃29欽明天皇509-571 ┣厩戸皇子┃┣大津皇子 662-686
┃ ┣穴穂部間人皇女-621━┛ ┃┃┣- 長娥子(不比等娘)
┃ ┣穴穂部皇子-587 ┃┃山辺皇女663-686(天智娘) ┃
┃ ┣宅部皇子539-587 ┃┃ 御名部皇女(天智娘) ┃
┃ ┃ ┃┃ ┣長屋王-729
┃ ┃ ┃┃尼子娘(胸形君徳善娘)┣鈴鹿王-745橘諸兄と政権運営
┃ ┣泊瀬部皇子32代崇峻天皇553-592 ┃┃ ┣ 高市皇子654-696┓
┣小姉君 ┃天武天皇631-686 ┃
┣石寸名郎女 ┃┃┃┃┗刑部皇子665-705(忍壁)┃
┣境部臣摩理勢-628蝦夷が滅す ┃┃┃┣但馬皇女-708 ┛
┃ ┗蘇我倉麻呂 孝徳┃┃┃氷上娘-682(鎌足娘)
┃ ┣蘇我倉山田石川麻呂-649━┓ ┃┃┃┣長皇子-715
┃ ┃ ┃┃┃┃┃┣智努王693-770(文室氏に降下)
┃ ┃ ┃┃┃┃┃┗大市王704-780
┃ ┣蘇我日向 ┣乳姫┃┃ ┣弓削皇子-699
┃ ┣蘇我赤兄623- ┃ ┃┃大江皇女-699(天智皇女 川島妹)
┃ ┃┣常陸娘 ┃ ┃┃ 長屋王684-729
┃ ┃┃┣山辺皇女663-686 ┃ ┃┃ ┣膳夫王-729
┃ ┃┃天智天皇626-672 ┃ ┃┣草壁皇子662-689 ┣葛木王-729
┃ ┃┗大蕤娘669-724 ┃ ┃┃ ┣吉備皇女683-729
┃ ┃ ┣紀皇女 ┃ ┃┃ ┣軽皇子 683-707(42文武)
┃ ┃ ┣田形皇女674-728 ┃ ┃┃ ┣ 氷高皇女680-748(44元正)
┃ ┃ ┣穂積親王-715 ┃ ┃┃阿閉皇女 661-721(43元明)
┃ ┃ ┃ ┃┗但馬皇女┃ ┃┃ 聖武天皇701-756
┃ ┃ 天武天皇 ┣大嬢二嬢 ┃ ┣41持統天皇645-703 ┗井上内親王717-775
┃ ┗蘇我連子 大伴坂上郎女 ┃ ┣健皇子649-658 紀橡姫 ┣他部親王 761-775
┗蘇我馬子(嶋大臣)551-626 ┣蘇我遠智娘-649 ┣難波内親王┣酒下内親王754-829
┣ 蘇我蝦夷587-645 ┗姪娘 越君伊羅都売 ┣白壁王(光仁)709-781
┃ ┣蘇我入鹿605?-645豊浦宮 ┣阿閉皇女 ┣施基皇子-716
┃ ┗蘇我畝傍 ┣御名部皇女┃ ┣春日王703-745
┣河上娘(崇峻天皇妃) 天智天皇(中大兄皇子) 託基皇女665-751
┣法提郎女 ┣ ┣不比等659-720 ┓
┗刀自古朗女-623 鏡姫王 車持君與志古娘(安見児) ┃
┣山背大兄王595-643 ┗━━┓┣定恵641- ┣藤原麻呂695-737
┣財王608- ┃ 中臣鎌子614-669 ┃
┣日置王 ┣弓削王622 ┗藤原五百重娘669-695 ┛
┣片岡女王 ┃ ┣新田部皇子-735
厩戸皇子574-622 ┃ 天武天皇 ┣塩焼王-764(氷上真人)
┃ ┣舂米女王 ┃ ┃
┃ ┣馬屋古女王(第8子) ┣磯城皇子┗道祖王-757
┃ 菩岐岐美郎女-622 ┣忍壁皇子665-705 ┣陽候女王
┣手嶋女王 ┣泊瀬部皇女 ┗長野王
位奈部橘王 ┣託基皇女┣-
宍戸臣大麻呂娘 川島皇子657-691(天智皇子)