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本居宣長と万葉集

2011年03月27日 | 池波正太郎 江戸時代

 本居宣長といえば、国学。 国学とは日本独自の思想を古典の中に見出そうという学問をいう。 徳川幕府が推奨した儒教、つまり中国思想を排除して純粋な和の思想を探ろうとしたことが国学の始まりである。 したがって国学は儒教がほぼ広まった後の江戸時代中ごろから始まる。 そして万葉集、古事記、源氏物語などの研究が本居宣長により始められたのである。 江戸時代になると万葉集はほとんどのひとが読めなくなっていたという。 漢文でかかれた日本書紀とは違って万葉仮名、つまり漢字の音だけを使った文字で万葉集は書かれていたからである。  「はるやなぎ,かづらきやまに,たつくもの,たちてもゐても, いもをしぞおもふ」 これは万葉の大歌・柿本人麻呂の歌であるが、原文は「春楊 葛山 發雲 立座 妹念」 となる。 このように日本語特有の「てにをは」が省略されているので万葉集は極めてよみにくいのである。 そして本居宣長は後に万葉集の解釈本をほぼ完成させることとなる。 国学は中国思想・儒学を排除することによって日本独自の思想を見つけることにあり、国学者・本居宣長と伊藤仁斎などの儒学者とは相反する立場にある。 しかし万葉集の分析の方法論については儒学関係者の功績が大いに役立った。 江戸時代初期に徳川光圀は万葉集の注釈を歌人・下河辺長流に依頼した。 本来儒学の徒であった光圀がそれを依頼したのは大日本史編纂の目的があったからである。 しかし長流は病気のためにそれを果たすことができず、仲間の契沖という摂津出身の僧侶で独自に万葉集の研究を行っていた人物に引き継いだ。 そして完成したのが万葉代匠記であり、以降万葉集の解釈の基本となった。

 伊藤仁斎1627-1705は、江戸時代の前期に活躍した儒学者で、熊沢蕃山より8歳年下にあたる。 仁斎は 支配的だった朱子学は観念的で実証に乏しいとして廃し、儒教の古典を研究するべきであると提案した。 朱子学は学問体系としては整ってはいたが、その過程で禅学や老荘思想といった非儒教的な思想の影響を受けており、そのような要素を不純とみなした。 つまり、林羅山、蕃山などの朱子学・陽明学を不純とした。 実は仁斎の墓は京都・嵯峨野の二尊院の境内にあります。 隣には仁斎の長男で同じく儒学者の伊藤東涯の墓があります。(東涯は私塾・古義堂を2代目として継ぐ)。 母は尾形光琳の従妹にあたり、赤穂事件の不忠臣として知られる伊藤五右衛門は伊藤家出身である。

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