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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

高野山42 日向飫肥城主伊東家墓所

2014年04月27日 | 高野山

 宇佐は神武天皇が東征するときに最初に立ち寄った場所で、宇佐彦・宇佐姫の歓待を受けている。その宇佐八幡宮とゆかりのある飫肥城が日南にあり、去年2013年秋に九州の小京都と呼ばれる城下町・飫肥、そして武家屋敷、飫肥城を訪れた。日向・武士団として勢力を伸ばした土持氏が南北朝時代に築城したのが始まりである。室町時代末期に九州制覇を狙う薩摩島津氏は、日向で勢力を蓄えてきた伊東氏の南下に備えて、一族の新納忠続を飫肥城に入城させたことに始まる。日向中北部を支配する伊東氏が土持氏を裏切り飫肥に侵攻、この侵攻は断続的に続けられ、1567年念願は叶う。しかし、1572年に伊東氏が木崎原の戦いで没落すると、日向国全土を島津氏が治めるところとなり、飫肥も再び島津氏の支配下となる。飫肥を失った伊東祐兵が羽柴秀吉に仕えて飫肥の地を取り返すと大名として復活した。以後、飫肥藩廃止になるまで伊東氏の領するところとなる。実は高野山へ行ってこの墓所を写真に収めた2013年5月のときには日向伊東氏のことは知らなかった。その半年後に日向の南から20kmほど西側へ入り込んだところにある飫肥城を訪れたときに高野山との接点を見出すこととなる。歴史の散策をしていて面白いのはこういうところにある。

飫肥城追手門を内側から見た 

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