毛利季光1201-1247は鎌倉幕府の御家人で、大江広元の四男である。 平城天皇(桓武天皇の嫡男で、子には阿保親王、孫には在原業平がいる) の流れを汲む学者家系である。 父の大江広元は源頼朝に招かれて鎌倉幕府創業に尽力した。 毛利季光は父・広元の所領・相模国毛利庄を相続して毛利氏の祖となり、公家の父親と違って、武士として東国に土着した。 三代将軍・源実朝に仕えたが、実朝の死後は出家し、1221年の承久の乱では北条泰時に従って後鳥羽上皇と戦い武名をあげている。 1233年に時の執権・北条泰時(5代執権・北条時頼の祖父で、初代執権で北条政子の夫・北条時政の孫) から評定衆に任命されると1246年には、藤原頼経・頼嗣父子(鎌倉第4代、第5代将軍)に仕えた。
鶴岡八幡宮と源頼朝公の墓所
妻は三浦義村の娘である。 三浦氏といえば、河内源氏・源頼義-源義家の時代から源氏に仕えて相模国の三浦の領地を与えられた豪族であり、鎌倉幕府を開いた源頼朝の有力御家人であった。 有力御家人であっただけに執権・北条氏と対立を繰り返し、1247年には妻の実家・三浦氏方に付いて敗北する。 (宝治合戦) 最後は鎌倉法華堂で息子の広光・光正・泰光ら郎党500余名とともに自刃した。 宝治合戦の直前まで、季光は北条氏につくか、三浦氏につくか迷っていたようであるが、 「兄・泰村を見捨てる事は、武士のする事ではない」との妻の言葉で三浦陣営に付いたという。 三浦一族の滅亡とともに、毛利一族も大半が果てたが、 越後国にいた四男の毛利経光の家系だけが唯一残った。 この経光の子孫が安芸国吉田荘の国人領主から戦国時代の覇者となる毛利元就である。 季光の娘は宝治合戦の勝者、第5代執権・北条時頼の正室であったが、戦後に離別している。 従って北条時宗の母・葛西殿は継室・北条重時の娘であり、季光の娘ではない。 しかし大河・北条時宗では、季光の娘が執権・北条時頼の正室として、北条時宗を生んでいる。 宝治合戦での毛利季光の心情と、娘・葛西殿の夫・時頼に対する憎しみを描くには、時宗の母は毛利季光娘説のほうが、迫力がある。
鶴岡八幡宮近くにある第3代執権・北条泰時と大江広元の墓
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