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真田幸村が築いた出城「真田丸」の跡地・三光神社

2012年02月20日 | 戦国時代

 昨日は撮影のための大阪ではなく、真田幸村ゆかりの地を求めて大阪城の南部をめぐってみた。最初に行ったのはは真田幸村が築いた出城「真田丸」の跡地で、現在三光神社として地元の人々が訪れている。このあたりは玉造といわれるところで、大阪城の南、真田山町のすぐ北にあたる。 神社境内には立派な真田幸村の雄姿がみられる。

 真田氏は信濃国佐久郡の豪族・海野氏の一族で武田信玄の父・信虎とは敵対していた。 武田信虎は諏訪頼重に娘を娶らせて姻戚関係をつくり佐久へ侵入し、海野氏、真田氏を没落させた。 真田幸隆は城を失って上野国の上杉憲政の下に亡命していたが、武田家が信玄の時代となると、山本勘助の進言により調略に長けた真田幸隆は武田陣営に引き入れられた。 信玄は幸隆に佐久郡の領地を与え村上義清攻略を狙っていた。 信玄が義清と戦った上田原の合戦で板垣、甘利を失い、その後砥石城攻めにも失敗し重臣横田高松を失い 大敗を喫したことで幸隆に出番が廻ってきたのである。 若かりし信玄の二度に渡る汚名を返上したのが真田幸隆なのである。  幸隆は砥石崩れの翌年に砥石城を奪取した。 武田本軍が一ヶ月包囲しても落ちなかった城が幸隆の手によってあっさりと落ちたのである。  幸隆は砥石城を義清から預かっていた大須賀久兵衛を篭絡して自ら開城させ、調略に成功した。 まさに信玄が軍旗に掲げた孫氏の軍略により、 村上義清の本城・葛尾城に次ぐ一大拠点を落としたのである。 武田家には金山採掘による裕福な資金力があったのに対して、村上家には何ら資金面での援助はなかったようで、真田幸隆はそこをついた。 これ以降村上義清は徐々に追い詰められていくが、信玄は家臣から謀略を学び、名将への道を進むこととなる。

 また、幸隆の息子も信玄の側近として仕えることになる。 真田信綱、昌輝、昌幸である。長男の信綱は第4回川中島合戦にて妻女山奇襲隊に加わり、1569年北条氏康と戦った三増峠の戦いでは殿軍をつとめている。 奇襲隊にしても殿軍にしても並みの武将ではつとまらない大役である。 次男の昌輝は若手エリート集団の百足衆に抜擢された。 百足衆とは矢弾が飛び交う中を大将の重要な指令を味方の陣営に伝える伝令集団 で、昌輝は信玄の両眼として評価されている。 このふたりの死は長篠の戦でやってきたために、真田家は三男昌幸により継がれる。 昌幸は武田家の有力家臣・武藤家の養子となり武藤喜兵衛とよばれていたが、長篠の戦で兄を失ったために真田の姓に戻り、武田勝頼に仕えた。 勝頼が天目山にて滅ぶと、昌幸は織田家関東総督である滝川一益とよしみを通じる。 信長が本能寺の変で死に、滝川一益が北条氏政の大軍に敗北すると上杉景勝についた。 徳川家康は昌幸と北条家を和合させようとしたが北条家に有利な条件であったために、昌幸は上杉についたのである。 面目を失った家康は北条家と同盟を結び、真田昌幸の本城・信州上田城に攻めてきたとき、昌幸はわずかな手勢で徳川軍を撃退したから、一気に昌幸の武勇は上がった。 後に、秀吉の命により昌幸と家康は和合し、 昌幸の長男・信幸は、家康の重臣本多忠勝の娘を娶っている。 また、次男信繁は秀吉の腹心大谷吉継の娘を妻とした。  関が原の戦いでは家康嫌いの昌幸、信幸は石田三成の西軍に味方し、信繁は家康の東軍に味方した。 昌幸は関が原の合戦に出陣する家康の息子・徳川秀忠の大軍を信州上田城で釘付けにして合戦に参加させなかった男であり、信繁は 名将真田幸村のことである。

 

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