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大名が将軍を暗殺・嘉吉の乱

2019年06月10日 | 鎌倉・室町時代

 暗殺されたのは室町幕府6代将軍足利義教、暗殺の首謀者はに播磨・備前・美作の守護大名・赤松満祐である。暗殺された足利義教は、悪政の限りを尽くしたことで有名な室町幕府の六代将軍である。

室町幕府ができて70年余りが過ぎ、三代将軍義満が亡くなったころから幕府政治は揺らぎ始めていた。畿内では一揆が多発、九州では地侍同志の争いが続いて幕府の制御が不能となっていた。そもそも室町幕府は辺境分治といって地方は地方の有力者・有力守護大名に任せ、中央は距離を置いて口出しはしないというものであった。そうした状況の中で足利義教は1394年に義満の第二子として生まれた。義満は次の将軍には嫡男義持と決め、残る4人の男子は仏門にはいらせた。足利義教は天台宗比叡山の一門・青蓮院へ入り、後に天台座主にまで上り詰めた。しかし35歳の時、兄4代将軍義持の息子が5代将軍に就任してまもなく急死。また義持もが後継者を指名せずに死亡した。

 困ったのは残された有力大名、というのも後継ぎ候補の義満の子は皆僧侶であり、後継ぎとしての資質に欠けていたからである。かくして6代将軍は籤引きで決められることとなった。くじは石清水八幡宮で行われ、青蓮院殿が選ばれたのである。足利義教は将軍直属の軍隊・奉公衆を独自に整備し、延暦寺の焼き討ちを行っている。当時の延暦寺は金融業を営み、僧兵という軍事力を持ち、室町幕府に楯突いていたのである。また幕府における将軍の役割も変えていった。裁判における判決や合議制における人選を将軍が行えるようにした。つまり将軍の権力はこの時代に最強になったのである。かくして日明貿易を復活させ、南北朝問題も決着。副将軍とも言うべき鎌倉公方・足利持氏が暴走しようとしたときには管領・斯波義淳などの重臣が足利義教を強く諫めた。ところが1433年管領の斯波義淳が病死し、他の重臣たちも次々と亡くなっていった。足利義教は有力大名の家督問題に介入すると、その大名は内紛が起こって弱体化を招いた。畠山、大内、山名、一色、土岐氏も同様である。結果将軍の権力は益々強大になった。1438年、反抗していた関東の鎌倉公方を攻撃し自害に追い込んだ。さらに持氏の血を継ぐ3人の息子までも殺害した。また鎌倉公方を匿ったということで一色義貫を殺害し領地を取り上げたのである。

 恐怖に包まれた都を一掃するために立ち上がったともいえるのが重臣大名・赤松満祐。斯波や一色に続いて次は赤松家が取り潰されることを恐れたのである。ある日、赤松満祐は有力大名とともに足利義教を屋敷に招き、暗殺を実行したのである。足利義教を助けるものはほとんどいなかったという。それ以降、権力は将軍の手から次第に離れ室町幕府は衰退していくのである。

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