中臣連不比等
不比等幼少時代
藤原不比等は鎌足と與志古娘の長子として生まれ、幼いころから田辺史大隈を養父として育った。藤原不比等が7歳のときに16歳違いの兄・定恵が曲者に切り殺され喪に服していた時に、中臣家一同を前に豊富を語ったという。 それ以来神童と呼ばれるようになった。 兄・定恵は11歳で唐に渡り、母とは死に別れ、父とも離れて暮らしている。11歳のときに父・鎌足がなくなり、その2年後の671年に天智天皇が亡くなった後は山科で暮らす。 丁度その頃に壬申の乱が起こった。 不比等の伯父・中臣連金は近江朝の右大臣をしており、もちろん大友皇子派である。 不比等とは仲のよい従兄弟の中臣連大嶋は大海人皇子派であった。 大海人皇子は吉野の宮滝に出家し籠もっていたが、期が熟すのを待っていたのである。人望の厚い大海人皇子は多くの間者を近江に送り込み、挙兵の用意をし、形勢は吉野へとなびいていた。
壬申の乱では大海人皇子が大勝し大友皇子は自害した。不比等の伯父で右大臣の中臣連金を斬った大海人皇子側大将村国連男依は、不比等の養父・田辺史大隈を取り調べるが無実と判明する。その後大海人皇子は飛鳥に移動し、浄御原宮で即位し、天武天皇となった。 天武朝において不比等が官位を与えられた記載が記紀にはない。 鎌足の教え通り中立の立場を押し通した結果、大舎人になるのがやっとであった。(大舎人というのは任官されるための登竜門のようなもの)天武天皇は極めて器の大きい男である。 また天武朝の官人は東国だけでは不足しており、天智朝の頃の優秀な官人達を数多く登用するだけではなく、かなり高い官位まで授けている。 ところが不比等は官位につけなかった。鎌足に嫌悪感を抱いていた天武天皇は不比等にも同様の気持ちを抱いていたといえる。 壬申の乱以降、右大臣金のせいで中臣氏の登用は遅れていたが、大嶋のみが任官していた。
蘇我娼子との結婚
不比等は正妻を娶り飛鳥の豊浦に屋形を構えた。 蘇我倉山田石川麻呂の弟・連子娘娼子である。蘇我日向の密告により謀反の罪に問われた蘇我倉山田石川麻呂は中大兄皇子に攻め殺されたが、無罪と判明したときに弟の連子を大臣に命じ罪滅ぼしをしている。大舎人の許可が出たのは20歳のときであった。不比等は義母・鏡女王の力を借りた効果があったようである。不比等はその効果がどこからのものかを探らせることを白猪史大津に頼むと、大原の屋形から浄御原宮へ通った。不比等が22歳のとき、長子武智麻呂がうまれ、翌年房前が生まれた。後に藤原南家、北家を背負うふたりである。
しばらくして白猪史大津から報告が届いた。不比等の大舎人について鏡皇女は鸕野讃良皇后に申し出ていたのである。不比等が予想した額田王は既に力をなくしていた。 この頃天武は天智の娘・新田部皇女をはじめ、多くの女人に子供を産ませている。 そういう天武に対して皇后は憎しみを抱いており、また草壁皇子を皇太子としたかったが、亡き姉の子・大津皇子が草壁皇子よりも文武に長け、人望も厚かった。天武が推したのも当然である。 こうして二人には亀裂が生じていた。679年天武は吉野の宮滝離宮に皇后、皇子達を集め亀裂の修復を図ると共に皇子達の団結をさせる。吉野の盟会では草壁皇子が誓ったことで筆頭皇子が誰であるかを諸皇子に示したが、皇后の力が増したことを意味している。 681年、飛鳥浄御原宮で律令の詔を発し、草壁皇子が皇太子となった。 そして天武は川嶋皇子、忍壁皇子を長とする「帝紀及び上古の諸事」の編纂を詔した。 中臣連大嶋もその末席に任命されていたのである。
鸕野讃良皇后との関係
684年天武天皇は大事業にとりかかった。臣、連などの姓を廃する八色の姓。冠位制から階位制とする。宮殿を造営するの三点である。 この頃から皇后・鸕野讃良が不比等に対して興味を持ち始めたのは確かである。 不比等は鏡女王の後押しもあって大舎人になり、鸕野讃良皇后に会っている。 このとき皇后は不比等に中大兄皇子の面影を感じていた。不比等は鎌足と與志古娘との子ということになっているが、與志古娘は中大兄皇子から譲り受けた采女であった。 譲り受けた時には既に身篭っていたという噂があり、もしも噂が本当であれば・・・不比等の父は中大兄皇子ということになり、鸕野讃良皇后とは異母ではあるが兄妹ということになるのである。真実は中大兄皇子と與志古娘しか知らないが、鸕野讃良皇后はそう信じていたようである。また、不比等の幼少の頃からの全てを調査している。そして、不比等は飛鳥の嶋宮に出入りするようになり官人達の見る目は違ってきた。 もちろん嶋宮とは草壁皇子の宮殿で、もともとは蘇我馬子の邸宅であった。
第40代天武天皇・第41代持統天皇檜隈大内陵(撮影:クロウ)
685年には冠位26階制は廃止され、爵位は60階となった頃天武天皇の病状は悪化し、川原寺、飛鳥寺に僧侶を呼び快復の経を読ませたり、多紀皇女、山背姫王を伊勢へ遣わしたりしている。このとき不比等は鸕野讃良皇后に呼ばれて嶋宮を訪れ、この時以来草壁皇子と親交を深めている。そして不比等の従兄弟であり、大津皇子寄りであった中臣連意美麻呂を味方につけ、間者として大津皇子の動向を探らせることで、皇后の信頼を深めていった。
病状が悪化した天武天皇が亡くなったのは翌年の686年で大津皇子が斎王の大伯皇女を伊勢まで訪れ帰ってきた直後である。皇后は草壁皇子が即位するまでの間自分が政治を執る旨を告げた。兵政官の長となった大嶋は500人の兵を引き連れて宮の警護に当たっていた。皇后の警護体制はいかにも大津皇子が謀反を企てているかのようである。 そして天武天皇の葬儀の時に謀反を企てたとして大津皇子は憐れな最後を遂げたのである。草壁皇子は天武天皇の後を継いで王位につくこともできたが、なにしろ大津皇子に心を寄せていた人たちからの反感をかうのが皇后にとっては怖かったし、草壁皇子は政務につけるほどの体力がなかったため、しばらく鸕野讃良皇后が政務を執ることとなった。 この間不比等は草壁皇子の教育者として骨を折っている。
愛刀・黒作懸佩太刀
鸕野讃良皇后は将来、草壁皇子が早世したときのことも考えた。 はやり第一候補は草壁皇子と阿閉皇女の長子・軽皇子であるが、まだ4才であるし、とりわけ皇后に忠誠を誓う高市皇子も候補としているが、大勢の官人が問題である。 いずれにしても皇后は腹心として頼れる官人を持つ必要があったが、選ばれたのは不比等である。かくして不比等は皇后との仲をさらに深いものにしていくのである。 いよいよ草壁皇子の様態が最後を迎えたときに、不比等は阿閉皇女から皇太子愛用の刀・黒作懸佩太刀(くろつくりかけはきのたち)を手渡された。 その直後に皇太子がなくなると、皇后は壮絶にも政務を執り、後の大宝律令となる原案ともいえる浄御原令を発した。そして翌月に持統天皇として即位した。 不比等32歳、持統天皇46歳、691年の冬である。
天智天皇の別荘地・吉野の宮滝(撮影:クロウ)
不比等に大嶋以上の階位が与えられると意美麻呂にも階位が与えられた。春になって女帝は吉野の宮滝の行幸した。健康祈願もあるが、軽皇子を後に王位につけるための祈願でもあっただろう。 供には不比等、大嶋、県犬養宿禰東人がいる。県犬養宿禰東人は、後に不比等の妻となった三千代の父である。当時三千代には美努王との間にうまれた葛城王、佐為王がいたが、皇后は三千代をかっており、軽皇子の教育係りをさせようと思っていたようである。太政大臣には壬申の乱で功績のあった高市皇子を任命している。ところで高市皇子であるが、壬申の乱で敗れた大友皇子の妃であった十市皇女と熱烈な恋に落ちたことがある。 十市皇女の積極的な行動であったが天武天皇の反対により実っていない。のちに斎宮を命じられた皇女は病気を理由に辞退した直後に自害したのである。
側室・賀茂比売(鴨姫)
不比等には蘇我娼子との間に武智麻呂、房前がおり、10歳と9歳である。 また賀茂比売(鴨姫)との間に宮子を設けていたが、この頃不比等にとって気になる存在が五百重娘で、父・鎌足と鏡女王との間にできた子である。天武天皇が最後に寵愛した妃であり、当時22歳前後であったと思われる。 天武天皇との間に新田部皇子を産んだが、その美貌は抜きん出ており、不比等にとっては異母妹にあたるがお互いに心を惹かれていたこともあり、不比等は結婚を持統天皇に申し出ている。 ところが持統天皇は許さず実質上の保留になっている。
天武天皇の意を引き継いで、持統天皇は藤原宮の完成を急いでいた。そして吉野行きも頻繁に行い、693年に、持統天皇は太政大臣の高市皇子に浄大壱、長皇子、弓削皇子に浄大弐の高位を与えた。 これは持統天皇が軽皇子の将来を高市皇子に預けたといっていい。この時初めて不比等は不安に苛まれた。 娼子には第三子・宇合、鴨姫には長我子が誕生した。 武智麻呂が14歳の頃、皇后は不比等と五百重娘との婚姻を許可している。王族、鏡女王の血をひく五百重娘を側室としたのは不比等にとっては大きく、今後の人生に影響を与えるのである。