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北野天満宮

2009年01月20日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 大宰府で死んでからの道真は、その怨霊が恐れられた。雷をあやつり怨敵の命を奪う火雷天神と考えられた。 一条天皇の頃、987年には北野にいます社を天満宮天神と呼んでいたことは菅原御伝記でわかる。 つまり北野天満宮のことである。 836年、続日本書紀には遣唐使のために天神を北野で祀るとあり、これは第15回の遣唐使が無事に使命を果たすようにと天神に祈ったものである。このとき長官の藤原朝臣常嗣以下メンバーは決まっていたが準備不足で出発は遅れた。 メンバーには菅原道真の叔父である菅原朝臣善主が判官として参加し、山城の豪族・山城宿禰氏益、僧・円仁がいた。 因みに第14回の遣唐使には藤原葛野麻呂(藤原朝臣常嗣の父)を長官として、城菅原道真の祖父・菅原朝臣清公、僧・最澄、空海が随行していた。 第15回目の遣唐使は困難を極め、これが後に道真が遣唐使を廃止する提言をおこなった理由となる。 こういうこともあって遣唐使の無事を祈願する祭事が北野で行われるようになった。 平安中期に北野の土地柄を源高明は西宮記に残している。 つまり太政大臣・藤原基経は五穀豊穣を祈って雷公を北野に祭ることをしている。 北野は雷が発生しやすく北野の南にある大内裏に落雷することもあった。義満の北山殿の七重の塔が焼け落ちたし、930年には清涼殿の柱に落雷し大納言・藤原清貫が胸を裂かれて死に、右中弁平希世も倒れた。 この事件に衝撃を受けた醍醐天皇は道真の怨霊を恐れて病に倒れやがて崩御した。

 菅原道真の曾祖父・古人は土師宿禰であり同族の土師宿禰道長とともに遠祖の野見宿禰の功績を申しでて菅原氏を名乗った。 これは781年のことで、桓武天皇即位の前で申し出が土地名菅原は承認された。 翌年、秋篠にいた道真の弟も同様の申し出を行い、秋篠氏を名乗った。 これ以外にも土師氏からは河内の志紀、和泉の百舌鳥がある。 百舌鳥に関しては孝徳天皇の死に際して、百舌鳥土師連土徳が殯宮を担当した。 桓武天皇の母であり光仁天皇の夫人・高野新笠の母は土師真妹で、和泉の土師氏つまり 百舌鳥に属していた。 因みに桓武天皇の外祖父は百済の武寧王の末裔・和乙継である。 桓武の母・高野新笠の陵は 大枝陵であるが、この大枝は土師真妹の死後正一位を追贈されたとき大枝朝臣真妹と名を変えてさらに大枝氏が生まれたことに由来する。

 菅原氏の家系は代々学者系である。これは初代の菅原氏である古人に既に伺える。古人の子・清公は803年に遣唐使となったが、古人のことを生活を切り詰めて勉学に励み儒学者としての行いや、当時の最高任官試験に合格したことを伝えている。 清公の子・是善は文章博士・参議を務め、文徳天皇と清和天皇の二代に渡って学問を教授し、文徳天皇実録の選者になっている。 平安京での是善の家は菅原院と伝え菅原院天満宮がある。 菅原道真は是善の子で、道真の母は伴氏。 北野天満宮には母を祭った伴氏社がある。 また京都駅の南西に吉祥院天満宮があるが、これは古人が長岡京造営に際して宅地として賜り、菅家の守護神として吉祥院と称したのが起こりである。

 菅原道真が政治家として全盛期であったのは宇多天皇の在位期間中である。 宇多天皇は光孝天皇の第七皇子であったが源朝臣として臣籍に下り、光孝の崩御に際して突如親王に戻され即位した。 宇多は右大臣・藤原基経を排し道真を右大臣とした。 ところが宇多31歳のとき座を長子の醍醐天皇に譲り、結果道真は醍醐によって大宰府に左遷されてしまう。 宇多は法王となり自ら造営した御室の仁和寺に籠もって仏法に励み政治的な発言力は低下させていた。 一方醍醐天皇は左大臣の藤原時平を重用し、道真の左遷は藤原時平の進言によるものである。  以降道真の怨念は醍醐天皇を苦しめ、時平にも子孫を断絶させるという形で及んだ。 道真の死の6年後に時平は思い病に倒れ、道真の怨念の仕業と考えられた。 続いて醍醐天皇の三女・慶子内親王、参議の藤原兼茂が死に、皇太子の保明親王までが21歳の若さで死んだ。 保明は醍醐の第二皇子であり皇太子であることから人々への衝撃は大きく、道真の死から20年も経っていたが、祟りは猛威を振るいだした。 保明の死後すぐに醍醐は道真の官位をもとの右大臣に戻し正二位を追贈し左遷の詔を破棄する。 しかし清涼殿への落雷が公卿の命を奪い、醍醐は病の床について死に至るのである。  醍醐天皇の崩御から62年たった992年に筑前安楽寺の禰宣が廟君の託宣を告げる。 時の天皇である一条天皇は祟りを恐れて、道真に正一位を追贈、太政大臣の称号をも贈った。 道真は最高の官位を得ただけではなく北野天満宮という官位に見合った神社も造営された。

 北野天満宮の前身は多治比文子という巫女のような能力をもつ者により立てられた。後に新たな託宣により現在の場所に移されたがそれが947年の北野天満宮鎮座の年となっている。 多治比氏は本拠地を河内におき、7,8世紀にはかなりの豪族と推測され、遣唐使となるものもいた。 河内の丹比郡は土師郷や和泉の土師郷ともちかく、地縁的な関係であったと推測される。 現在、北野天満宮の本殿東には文子社が祭られ桔穀亭の北西には文子天満宮もある。 

 ところで、菅原道真を学問の神として崇めるようになったのは10世紀末である。 室町時代になって足利将軍家の帰依もあって北野信仰は全盛を迎える。1441年の10月には後花園天皇によって、大原野神社にかわって北野神社が朝廷からの奉幣の対象となった。 このときに北野神社への奉幣使は文章博士・菅原朝臣在綱がつとめた。 足利将軍もしばしば北野社参りを行い天神を慰めるために連歌会を行ったという。 そして連歌会や猿楽・能などは北野社法楽として伝えられるようになった。 もっと後の1587年には秀吉主催の大茶会が北野神社で行われている。 茶を好むものは身分を問わず参集することができたことで有名である。 この日は秀吉、千利休、今井宗久がそれぞれの茶席をもうけ803人にも及ぶ人々に茶が振舞われた。 この茶会から20年後に秀吉の子の秀頼が北野神社の社殿を立替えた。 本殿は入母屋造で、本殿を取り囲む回廊、楼門などは檜皮葺、拝殿の擬宝珠には「右大臣秀頼公再興・・」とある。  この本殿が建ってから10年後に徳川家康の廟として日光東照宮が建つが、権現造の建物の装飾などは北野天満宮の影響を大きく受けている。 

 

 

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