九条兼実と親鸞上人にゆかりのある西岸寺というお寺が京都南ICの南西にあります。 ここはもともと関白藤原忠通が法性寺小御堂を建立し、子の兼実も愛して花園御殿と呼ばれた地だそうです。 親鸞聖人は兼実の娘・玉日姫を娶りますが、後に越後に流されたために玉日姫は小堂を守ってここで亡くなります。
藤原氏の中でも特に選りすぐりの五摂家の一部の公家しか関白にはなれない。 藤原北家の出である藤原忠通は保元の乱で死亡した藤原頼長の兄にあたり、法性寺関白と当時云われていた。 忠通には基実、基房、兼実という息子がいたが基実は近衛家の祖となり、兼実は九条家の祖となった。 また近衛基実の系統から近衛兼平が鷹司家の祖となり、九条兼実の系統から良実が二条家を、実経が一条家の祖となり、これらの近衛、鷹司、九条、二条、一条の五家を特に五摂家とよんでいる。 1000年以上もの長きに渡って政界を支配し続けた藤原北家から近衛、九条家が分家し、各々から鷹司、一条、二条家がさらに分家し鎌倉4代将軍・頼経の時代には五家による摂関が行われた。その後、京都の大路や寺の名前をとって多くの名家が誕生することとなる。
藤原忠通のあと嫡男の基実が摂関となるが24歳で亡くなった為、基実の実弟・基房が摂関となり、やがて基通に引き継がれた。 基房は平清盛と対立していて後白河上皇寄りであったのに対して近衛家の祖・基実、基通親子は平清盛の娘を妻にしていて、基通は平家の都落ちの際に行動を共にしている。 またその一方で基通は後白河法皇の男色の相手として寵愛を受け、後鳥羽天皇の摂関になった所以として知られている。 弟の九条兼実は基通の男色を恥ずべきこととして「玉葉」に記した。 しかし源頼朝は義経に追討の院宣に賛同した基通を嫌って、1186年に兼実に摂関を与えている。 10年後に基実が失脚すると基通は摂関として返り咲いたことがあるが、その後、後鳥羽上皇の意向により兼実の後継者である九条良経が摂関となるが5年後に死亡し、基通の嫡男・近衛家実がかわった。家実は1221年承久の乱の頃まで22年の長きに渡って摂関の地位にあったが、この頃は武家政治の最中であり、公家の復活を願った後鳥羽上皇が討幕計画を起こしたが失敗におわり、公家は完全に武家の監視下におかれたのである。
ところで、親鸞上人の師である法然は法然房源空ともいい、美作の出身で父は漆間時国という押領使(平安時代、兵を率いて反乱などの鎮定にあたった令外の官)で母は秦氏の出自である。 法然が幼いころに館が夜討ちをかけられ父が殺された。その後法然は延暦寺にはいって修行を重ね専修念仏を唱えることとなる。やがて身分の上下に関係なく帰依を受けるようになり、関白・九条兼実(東福寺開基の九条道家の祖父にあたり慈円の兄)も信者のひとりとなった。 法然の代表作・選択本願念仏集は兼実が政界で失脚していたときに書いたものである。 法然の人望が高まるにつれて延暦寺・興福寺などの旧勢力から敵視されるようになり、法然の弟子は死罪、自身も土佐へ流される事件もおきている。 因みにこのとき弟子である親鸞も越後に流された。 罷免された法然はやがて帰洛し東山大谷の禅房に篭ったが、5年後の80歳に亡くなった。法然の死後16年たって再び法然教団への弾圧が始まり、延暦寺の宗徒が法然の墓を破却しようとした。(嘉禄の法難)
平安後期から新たな仏教が発展して一世を風靡する。 それは宇治平等院鳳凰堂で代表される阿弥陀を信仰して極楽浄土へ往生することを目的とした浄土教であった。 日本の浄土教の先駆者は名僧・空也であるが、当時の要求に応えたのは源信であった。 しかし、最も効果のある念仏方法が観想念仏はだれにでもできることではなく、一部の貴族に限られたことであり、これに問題提起をしたのが法然上人である。 法然は浄土宗の開祖であり、阿弥陀信仰以外の方法は一切排除した。 源信は往生要集のなかで浄土にうまれかわるのは日ごろ善根を積み、その上で念仏を唱えよといっているが、法然は善根を積めとはいっておらず、専ら念仏することを説いた。 阿弥陀如来の絶対的な力を信じて往生を遂げようという他力本願なものである。法然は比叡山で仏教学を極めた学者であるが、その教えはわかりやすく、当時の関白九条兼実が帰依したこともあって流行した。 しかし仏教界からの反発はおおきく、理論的に法然を批判したのが華厳宗の明恵であった。 つまり浄土宗は仏教なのか? ということであるが、 この疑問は法然の弟子の親鸞によってますます拡大されていった。 法然の弟子で悪行をしても念仏を唱えれば許されるとした者がでてきたことにより、その責任をとらされて念仏停止を言い渡され、僧籍も剥奪され俗人の身分で土佐に流される。 また主だった弟子も各地へ配流された。 親鸞も藤井善信と改名させられたうえで、越後に流された。
九条兼実が残した日記・玉葉では平家物語の一場面についての記載を伺うことができます。 平家調整役の重盛を悩ます事件といえば、「殿下乗合の事」がある。 摂政殿下である藤原基房の車と重盛の次男・資盛の車争いである。 基房の従者が資盛の従者に対して恥辱を与えたのに対して怒った清盛が部下を差し向けて基房の従者を袋叩きにしたというものである。 平家物語では驚いた重盛は父・清盛を諌めたとなっているが、九条兼実の玉葉や慈円の愚管抄では異論を唱えている。
また、二尊院の復興の歴史を見てみると法然と九条兼実との深いつながりの一端がわかる。二尊院の創建は9世紀初めで嵯峨上皇の勅願により慈覚大師円仁が開いた。当初は二尊院と華台寺の二つの寺が存在していたが、荒廃後、法然(摂政・関白に登り詰めた九条兼実が失脚すると、讃岐に配流となる)が鎌倉初期に九条兼実の助力を得て再興した。九条兼実をはじめ、多くの貴族が帰依し、法然の高弟である湛空が堂宇を増築するなどして中興の祖となった。
昇子内親王(春華門院)といえば後鳥羽天皇第一皇女で、母は九条兼実の女・中宮任子である。 土御門天皇とは4ヶ月違いの異母姉弟で、 昇子内親王の誕生の翌年、政変により外祖父・兼実が失脚。母任子は内裏を退出する。 14才で東宮守成親王(後の順徳天皇)の准母となり、皇后宮に冊立。翌年、15才で女院号を宣下される。 幼時より八条院・璋子内親王の養育受け、その死後、八条院の莫大な所領を相続するが、同じ年の11月、崩御。八条院に仕えた女房の健寿御前(建春門院中納言)が、後に日記に追悼を述べ比類無き美しさであったと九条兼実の弟・慈円の『愚管抄』に記されています。
源顕信娘
┣道経
┣基教(鷹司家)
┣家実1179-1243(良経後猪隈関白)
具平親王 ┃ ┣家通
┗源師房 ┃ ┣兼経
┣源俊房1035-1121(堀河左大臣)┃ ┗兼平(鷹司家の祖 摂政関白)
道長┣源顕房1037-1094(六条右大臣)┃ ┣兼忠
┣尊子 ┃┣源国信 藤原忠隆娘 ┃ ┗基忠
明子 ┃雅実 ┣信子 ┣基通(1160-1233後白河上皇から寵愛 後鳥羽摂政)
┃ ┃ ┣近衛基実(1143-1166近衛家の祖 二条関白 六条摂政)
┣賢子 ┃ ┃ ┣
隆子┣堀河┃ ┃ 盛子(平清盛娘)
白河 ┃ ┃ 三条公教娘 花山院忠雅娘忠子(安徳乳母)
┃ ┃ ┣藤原家房 ┣伊子(木曾義仲側室)
┗ ┃俊子 ┣藤原隆忠 ┣松殿師家
┃┣近衛基房(後白河側 松殿祖 六条高倉摂政)
┣┛
┃藤原仲光娘・加賀
┃┣九条兼実1149-1207(頼朝推薦 後鳥羽摂政 関白)
┃┣兼房┣良通 ┗玉日姫(母不明)
┃┣慈円┣良経1169-1206(土御門摂政 後鳥羽推薦)
┣┛ ┃ ┃藤原清季娘
┃ ┃ ┃ ┣忠成王1221-1279(四条皇太子)
┃ ┃ ┃順徳天皇(守成親王)1197-1242
┃ ┃ ┃ ┣諦子内親王1217-1243
┃ ┃ ┃ ┣85仲恭天皇1218-1234
┃ ┃ ┃ ┃ ┣義子内親王
忠実 ┃ ┃ ┃ ┃ 右京大夫局
┣泰子(高陽院1095-1155)┃ ┃ ┃ ┃
┗忠通(法性寺関白1097-1163) ┃ ┃ ┃ 徳子(建礼門院)
┗藤原呈子(伊通娘) ┃ ┃ ┃ ┣安徳天皇
┣- ┃ ┃ ┃ 高倉天皇
近衛天皇1139-1155 ┃ ┃ ┃ ┣82後鳥羽天皇1180-1239
頼長 ┣- ┃ ┃ ┃信隆 ┣守貞親王1179-1223(後高倉院)
┗藤原多子(公能娘) ┃ ┃ ┃┣坊門殖子 ┃
┃ ┃ ┃休子 ┃
┃ ┃ ┃ ┣利子内親王
┃ ┃ ┃持明院通基 ┣邦子内親王1206-1283
┃ ┃ ┃┣持明院基家 ┣86後堀河天皇1212-1234
┃ ┃ ┃源師隆娘┣藤原棟子 ┃
┃ ┃ ┃ ┗基宗 ┃
┃ ┃ ┃ ┃
┃ ┣立子1192-1247 ┣子内親王
┃ ┣道家1193-1252(仲恭摂政)┣87四条1231-1242
┃能保娘 ┣九条竴子(藻壁門院) ┃
┃ ┣教実(九条家を継ぐ) ┣-
┣任子-1238 ┣良実(二条家の祖)┗彦子(宣仁門院)
季行娘┃ ┣頼経(鎌倉4代将軍)
┣昇子 ┣実経(一条家の祖)
82後鳥羽天皇 綸子(西園寺公経娘)