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京都・八坂寺

2009年02月04日 | 奈良・飛鳥時代

 京都・清水寺の北側に広がる八坂郷に八坂寺はある。 法名を法観寺といい、その寺の五重塔は八坂の塔として親しまれている。 考古学的には飛鳥時代後期の瓦が出土していて、奈良時代前期からあった数少ない寺である。 瓦の年代から天武朝創建の可能性が高い。 八坂は坂が多いという地形から生まれた言葉であって、八坂には八坂寺のほかに八坂神社がある。祇園さんとして親しまれるこの社は明治維新までは祇園社と呼ばれ、神仏分離の方針によって八坂神社として誕生した。 室町、江戸時代には八坂神社の名はなかったのである。 一方八坂寺は平安時代前期にも遡れ、法燈は連綿と続いているのである。 10世紀の延喜式にも八坂寺は登場し15の寺の中に法観寺は東寺、西寺とともにある。 創建時の五重塔がいつまで存続していたかは不明であるが、948年塔が西に傾いたとき雲居寺の僧・浄蔵が加持によって元に戻したという。 浄蔵は天台宗の僧で平安時代前期の学者として知られる三善清行の子で修行の末に注目をあびた。 尚三善家は百済からの渡来系氏族で愛宕群にも関係の深い錦織氏の同族である。 仁徳天皇の頃から南河内に本拠地があって飛鳥時代に氏寺を建立したことでもしられ、坂上田村麻呂の妻は三善高子という渡来系同士から妻を娶っている。 浄蔵のいた雲居寺は八坂寺に隣接した現在の高台寺近辺にあったと推定されており、 浄蔵は雲居寺で晩年を暮らし亡くなった。 

  815年の八坂郷の名前をつけた八坂造という高句麗系渡来氏族が八坂寺の造営の推進を行って以来、法観寺の五重塔は1436年に炎上したが将軍足利義教によって再建され現在に至っている。  八坂造の前身は八坂馬養造で馬の飼育に携わった集団で、継体天皇の頃の河内馬養首荒籠に代表される河内、倭に分布した。 山背は高句麗系の渡来集団の多くいた土地である。 続日本書紀によると越後目の高麗使主馬養、内侍の高麗使主浄日らには多可連を、狛広足、狛浄成らには長背連とした。 長背連は平安京の右京にいて欽明天皇の時世には衆を率いていたという。 八坂氏も狛、高麗と同様故郷の国名を氏としていたのである。 八坂寺は7世紀末には瓦葺の伽藍として建立されたが、よほど財力のある豪族が関与していたことは明らかである。 

    八坂の塔から東山を登ると東山三十六峰の霊山がある。 その歴史も平安時代に遡り、清少納言が「釈迦仏の御住処」と書いているように近畿の代表的な霊山寺があった。 霊山寺がすたれたあと時宗の僧・国阿が寺を復興し正法寺とし今も伝わっている。 時宗は伊予の河野氏の出である一遍がはじめ発展した。 一遍に率いられた男女の集団はよく旅をし、それを遊行といった。 国阿は伊勢神宮を信仰したびたび伊勢参詣にでかけたという。 正法寺のお堂にある木像は国阿のものらしく、伊勢参詣の前には必ず国阿堂に参り、行路の無事を祈願したという。 

  

 

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先斗町の舞妓さん解説

2009年02月04日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 京都には 「祇園甲部」「先斗町」「上七軒」「宮川町」「祇園東」の五つの花街があります。 それぞれの花街の舞妓・芸妓さんが、日頃の芸を披露する「をどり」は、京都の春を代表するイベントで、先斗町の「鴨川をどり」はその代表的なをどりです。 舞妓さんは二十歳までの娘さんに限られ、お座敷に出るには「仕込みさん」として、花街のしきたりや行儀作法、京言葉などを少なくても一年は修行が必要です。仕込みさんとしての修行が終わり、舞妓さんになる前の一カ月ほど「見習いさん」としてお茶屋さんの仕事を手伝いながら、お座敷にでるための勉強をします。  置屋さんに表札を出してもらうと、いよいよ舞妓さんとしての仕事が始まります。 紋付きの黒い着物にだらりの帯の姿で、お茶屋さんに挨拶廻りをし、お披露目をします。 舞妓さんの姿は非常に華やかで艶やかです。この舞妓さん独特の姿は、江戸時代の室町通にあった呉服問屋の娘さん達の姿だといわれています。 頭の花かんざしは一月から十二月まで毎月変わります。 月々の花(三月は菜の花、五月は藤など)をあしらった非常に繊細なものです。 舞妓さんの特徴のひとつである日本髪は、すべて彼女達の自毛です。その髪型にも何種類かあり、最初は「割れしのぶ」を。二年程経つと髷かえして「おふく」になります。また祇園祭の時などは「勝山」に結います。一方、芸妓さんになると自毛ではなくカツラの方が大半となります。  お化粧は自分でし、最初の一年ほどは下唇にしか紅をさしません。 また顔を白く塗るのは、ろうそくの時代、薄暗い中でもはっきりと顔が見えるようにとの工夫の名残りです。 着物は、舞妓さん達の持ち物ではなく全て置屋の女将さんのものです。 振り袖にだらりの帯。この振り袖は、よく見ると丈が少しつめて短くしてあります。これは、舞妓さん達が幼く見えるようにそうされているのです。

 

 

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