平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

京都の大仏殿

2009年01月31日 | 戦国時代

 晩年の豊臣秀吉は京都に大仏殿を建立することを思い立った。 それまでの大仏といえば言うまでもなく奈良の東大寺の大仏である。 発願者・聖武天皇の陵は東大寺のすぐ北西の佐保山にある。 秀吉も京都の大仏殿建立に際して死後自分が葬られる墓について考えた。 天正13年、秀吉は東福寺に寺領を寄進し、翌年には大仏建立の地を東福寺の近傍に選定した。 大仏殿の普請は天正16年に東福寺の北方にあたる大和大路に面した地で行われ、この地は三十三間堂で知られる蓮華王院をも取り込んだ。 工事は小田原の役などで遅れ、大仏の材料も銅から漆膠へと変更されるなどして一応の完成はみた。 しかし伏見地震で大仏は大破し開眼供養は延期される。 この頃信濃の善光寺如来を京都へ運んでくることが計画されたが、秀吉は病気になり、稲荷の巫女が仏罰だから東国へ戻せということとなり結局善光寺に戻された。 秀吉の死後、晩年の子である秀頼が意思を受け継いで大仏の建立を開始した。 この工事は本来の計画に戻って銅の大仏の鋳造を行った。 完成したのは豊臣家が没落を早めた大阪冬の陣の2年前のことである。 本来であれば大仏建立どころではない豊臣家であるが、これは徳川家康の陰謀とかかわり、近畿各地の寺社の修理を秀頼に行わせ豊臣家が蓄えた富を使わせる意図が徳川家康にあったのである。 銅製の大仏は各所に亀裂ができ、幕府は当時推し進めていた寛永通宝の材料にしたために、大仏は木造になったという。

 この大仏殿は現在の法広寺にあり、この寺の大仏は東福寺と同じ釈迦如来である。 秀頼は法広寺に用いる銅鐘銘文の作成を東福寺の文英清韓に依頼した。 清韓は東福寺の227代住持であり韓長老として親しまれていた人物である。 ところが、この鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が家と康を分断し豊臣を君主とするものだとして徳川家康の怒りにふれ、豊臣家滅亡のきっかけになったとされる。 この言い分は完全に言いがかりであり当時の儒者・林羅山などは御用学者の典型といえる。 困惑した豊臣家は大仏造営奉行を務めていた片桐旦元(浅井長政の臣従)とともに清韓を使者として家康の駿府城に送り、弁明させようとしたが聞き入れられなかったという。 清韓は豊臣家が滅亡したあとも捕縛されている。 豊臣家を断絶させるために東福寺はうまく利用されたが釣鐘そのものは何故か破却されることなく今日も方広寺の鐘楼に下がっていていつでも見ることができる。 

 

 秀吉の死後に東福寺が徳川家康から難問をふきかけられた原因はもうひとつある。 それは文英清韓より数代前に住持を務めたのが瑤甫恵瓊だったことである。 安芸出身のこの人物の通称は安国寺恵瓊といい、その能力が秀吉に認められ秀吉直属の家臣となった。関が原の合戦では毛利側として西軍につき、敗れた後石田光成とともに六条河原で斬首され、その首はひそかに建仁寺に葬られた。 東福寺が生み出した禅僧には似つかわしくない武将の側面を持つ恵瓊の人柄は極めて稀に見るものであったようである。 

 秀吉は阿弥陀ヶ峰に墓を作ることを遺言した。 阿弥陀ヶ峰は東山三十六峰の一つで東福寺の北北東にあたり、広大な墓地である鳥辺山の一画でもある。阿弥陀ヶ峰のすぐ南西には総山があり、もともと葬山であったとみられ、鳥辺山に含まれていた。 総山に接して天皇家の陵墓の多い泉湧寺があるのも鳥辺山である。 泉湧寺は東福寺とも至近の地にあり、泉湧寺の境内や周辺には四条天皇の月の輪陵に始まり、明治天皇の父である孝明天皇の後月輪東山陵にいたるまでの25の天皇陵がある。 阿弥陀ヶ峰は天皇陵の集中する土地に近く九条家の代々の墓のある東福寺にも近いことが秀吉の遺言である阿弥陀ヶ峰の理由と考えられる。 秀吉の死後に造られた墓を含む廟は、今日智積院や妙法院がある地とその背後の広大な土地にあった。 廟は後陽成天皇から「豊国乃大明神」の神号と正一位の神階を与えられ、廟の境内には56基の燈篭があって毎夜油を献じて火をともしていたという。 豊臣家の滅亡後、幕府は豊国大明神の破却を決め豊国社として方広寺の隣接地に移し鎮守にした。 秀吉の墓もなくされ人々が登れないように登山口に廃絶していた新日吉神社を再建した。 今日では阿弥陀ヶ峰には五百段の石段を登ると五輪の石塔があって秀吉の墓としているがこれは本来の墓ではなく全国の有志の寄附によって作られたものである。  

 

 

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F3F-2

2009年01月29日 | 太平洋戦争

スミソニアン博物館仕様

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F3F-2

2009年01月25日 | 太平洋戦争

ネタ切れにつき気分転換

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宗像社

2009年01月22日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 北野天満宮には、本殿を取り囲んで摂社が六社、末社が十四社あります。御祭神・菅原道真公の母君が大伴氏の出身であることから設置された伴氏社はそのひとつ。石造りの五輪塔は明治維新の神仏分離政策により、南隣の東向観音寺に移されているが、神前の石鳥居は鎌倉時代の作で名高い。また、末社・宗像社の御祭神は田心媛神・湍津姫神・市杵島姫神は福岡県の北西部、玄界灘に臨む宗像郡玄海町と、その沖合いにある二つの島にご鎮座になられた「宗像の三女神」とよばれる神々である。太古よりこの海域は、大陸との交流において重要な道筋にあたり、海上交通の要所に鎮まる宗像の三女神は、 道を掌る最高神として手篤く祭られてきた。当社は、昔この社殿の西に池があり、水底にご鎮座になっていたご神体をこの場所に遷したものと伝えられている。

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北野天満宮

2009年01月20日 | 陵 古墳 墓 遺跡

 大宰府で死んでからの道真は、その怨霊が恐れられた。雷をあやつり怨敵の命を奪う火雷天神と考えられた。 一条天皇の頃、987年には北野にいます社を天満宮天神と呼んでいたことは菅原御伝記でわかる。 つまり北野天満宮のことである。 836年、続日本書紀には遣唐使のために天神を北野で祀るとあり、これは第15回の遣唐使が無事に使命を果たすようにと天神に祈ったものである。このとき長官の藤原朝臣常嗣以下メンバーは決まっていたが準備不足で出発は遅れた。 メンバーには菅原道真の叔父である菅原朝臣善主が判官として参加し、山城の豪族・山城宿禰氏益、僧・円仁がいた。 因みに第14回の遣唐使には藤原葛野麻呂(藤原朝臣常嗣の父)を長官として、城菅原道真の祖父・菅原朝臣清公、僧・最澄、空海が随行していた。 第15回目の遣唐使は困難を極め、これが後に道真が遣唐使を廃止する提言をおこなった理由となる。 こういうこともあって遣唐使の無事を祈願する祭事が北野で行われるようになった。 平安中期に北野の土地柄を源高明は西宮記に残している。 つまり太政大臣・藤原基経は五穀豊穣を祈って雷公を北野に祭ることをしている。 北野は雷が発生しやすく北野の南にある大内裏に落雷することもあった。義満の北山殿の七重の塔が焼け落ちたし、930年には清涼殿の柱に落雷し大納言・藤原清貫が胸を裂かれて死に、右中弁平希世も倒れた。 この事件に衝撃を受けた醍醐天皇は道真の怨霊を恐れて病に倒れやがて崩御した。

 菅原道真の曾祖父・古人は土師宿禰であり同族の土師宿禰道長とともに遠祖の野見宿禰の功績を申しでて菅原氏を名乗った。 これは781年のことで、桓武天皇即位の前で申し出が土地名菅原は承認された。 翌年、秋篠にいた道真の弟も同様の申し出を行い、秋篠氏を名乗った。 これ以外にも土師氏からは河内の志紀、和泉の百舌鳥がある。 百舌鳥に関しては孝徳天皇の死に際して、百舌鳥土師連土徳が殯宮を担当した。 桓武天皇の母であり光仁天皇の夫人・高野新笠の母は土師真妹で、和泉の土師氏つまり 百舌鳥に属していた。 因みに桓武天皇の外祖父は百済の武寧王の末裔・和乙継である。 桓武の母・高野新笠の陵は 大枝陵であるが、この大枝は土師真妹の死後正一位を追贈されたとき大枝朝臣真妹と名を変えてさらに大枝氏が生まれたことに由来する。

 菅原氏の家系は代々学者系である。これは初代の菅原氏である古人に既に伺える。古人の子・清公は803年に遣唐使となったが、古人のことを生活を切り詰めて勉学に励み儒学者としての行いや、当時の最高任官試験に合格したことを伝えている。 清公の子・是善は文章博士・参議を務め、文徳天皇と清和天皇の二代に渡って学問を教授し、文徳天皇実録の選者になっている。 平安京での是善の家は菅原院と伝え菅原院天満宮がある。 菅原道真は是善の子で、道真の母は伴氏。 北野天満宮には母を祭った伴氏社がある。 また京都駅の南西に吉祥院天満宮があるが、これは古人が長岡京造営に際して宅地として賜り、菅家の守護神として吉祥院と称したのが起こりである。

 菅原道真が政治家として全盛期であったのは宇多天皇の在位期間中である。 宇多天皇は光孝天皇の第七皇子であったが源朝臣として臣籍に下り、光孝の崩御に際して突如親王に戻され即位した。 宇多は右大臣・藤原基経を排し道真を右大臣とした。 ところが宇多31歳のとき座を長子の醍醐天皇に譲り、結果道真は醍醐によって大宰府に左遷されてしまう。 宇多は法王となり自ら造営した御室の仁和寺に籠もって仏法に励み政治的な発言力は低下させていた。 一方醍醐天皇は左大臣の藤原時平を重用し、道真の左遷は藤原時平の進言によるものである。  以降道真の怨念は醍醐天皇を苦しめ、時平にも子孫を断絶させるという形で及んだ。 道真の死の6年後に時平は思い病に倒れ、道真の怨念の仕業と考えられた。 続いて醍醐天皇の三女・慶子内親王、参議の藤原兼茂が死に、皇太子の保明親王までが21歳の若さで死んだ。 保明は醍醐の第二皇子であり皇太子であることから人々への衝撃は大きく、道真の死から20年も経っていたが、祟りは猛威を振るいだした。 保明の死後すぐに醍醐は道真の官位をもとの右大臣に戻し正二位を追贈し左遷の詔を破棄する。 しかし清涼殿への落雷が公卿の命を奪い、醍醐は病の床について死に至るのである。  醍醐天皇の崩御から62年たった992年に筑前安楽寺の禰宣が廟君の託宣を告げる。 時の天皇である一条天皇は祟りを恐れて、道真に正一位を追贈、太政大臣の称号をも贈った。 道真は最高の官位を得ただけではなく北野天満宮という官位に見合った神社も造営された。

 北野天満宮の前身は多治比文子という巫女のような能力をもつ者により立てられた。後に新たな託宣により現在の場所に移されたがそれが947年の北野天満宮鎮座の年となっている。 多治比氏は本拠地を河内におき、7,8世紀にはかなりの豪族と推測され、遣唐使となるものもいた。 河内の丹比郡は土師郷や和泉の土師郷ともちかく、地縁的な関係であったと推測される。 現在、北野天満宮の本殿東には文子社が祭られ桔穀亭の北西には文子天満宮もある。 

 ところで、菅原道真を学問の神として崇めるようになったのは10世紀末である。 室町時代になって足利将軍家の帰依もあって北野信仰は全盛を迎える。1441年の10月には後花園天皇によって、大原野神社にかわって北野神社が朝廷からの奉幣の対象となった。 このときに北野神社への奉幣使は文章博士・菅原朝臣在綱がつとめた。 足利将軍もしばしば北野社参りを行い天神を慰めるために連歌会を行ったという。 そして連歌会や猿楽・能などは北野社法楽として伝えられるようになった。 もっと後の1587年には秀吉主催の大茶会が北野神社で行われている。 茶を好むものは身分を問わず参集することができたことで有名である。 この日は秀吉、千利休、今井宗久がそれぞれの茶席をもうけ803人にも及ぶ人々に茶が振舞われた。 この茶会から20年後に秀吉の子の秀頼が北野神社の社殿を立替えた。 本殿は入母屋造で、本殿を取り囲む回廊、楼門などは檜皮葺、拝殿の擬宝珠には「右大臣秀頼公再興・・」とある。  この本殿が建ってから10年後に徳川家康の廟として日光東照宮が建つが、権現造の建物の装飾などは北野天満宮の影響を大きく受けている。 

 

 

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恵比寿神社

2009年01月19日 | 平安時代

 「えびす様」で知られる海の幸をもたらす「寄り神」は、右肩に釣竿、左小脇に鯛を抱えて座した姿で描かれ、商売繁盛、交易、漁業の神様として知られています。 また、恵比寿様は伊弉諾尊(イザナギノミコト)の第3子・蛭子尊(ヒルコノミコト)が「えびす様」になったと言われています。 (蛭子尊はエビスと訓じる) 日本の三大恵比寿神社は、京都恵比寿神社・大阪今宮恵比寿神社・西宮恵比寿神社の事で恵比寿、または戎の文字を使用しています。 京都・恵比須神社の前に走る道は大和大路といって、奈良に通じる道であり、北に行くと建仁寺西門を通り、祇園町に通じます。 南は太閤秀吉の大仏殿、後白河天皇の法住寺(蓮華王院等)、藤原氏九条家の東福寺、秦氏の稲荷大社等と在り、伏見を経由して巨椋池・宇治にも通じました。

 

 

 

 栄西が宋からの帰帆で暴風雨に遭った時に波間に恵比須神を得て、此れに祈った事で助かり建仁寺を創建する時に守護神として境内に祀った事に始まる。 建仁寺建立に際して恵比須神社を最初に建てた事で栄西がいかに厚い信仰をしていたかがうかがわれます。遺言にて自分の墓は恵比須神社正面に建てる様にとの事で、建仁寺境内恵比須神社の正面に開山堂を建立しました。応仁の乱で破壊された建仁寺を再建する際に、寺の西に当たる現在地に移転したが、現在の場所は位置としても開山堂の真正面に在ります。

 アシナツチ(出雲の斐井川)
  ┣稲田姫神(イナダヒメノカミ)  八岐大蛇の生贄になる寸前にスサノオノミコトに助けられる
 テナツチ ┃(来訪神に仕える巫女)草薙剣をアマテラスに献上 倭姫→ヤマトタケル→尾張熱田神宮
    ┗━┓-        後に須賀に宮殿を造営 出雲の支配者となる。
      ┃┣建御名方タケミナカタ(出雲国譲に反対 諏訪湖に追放)⇔タケミカヅチ
      ┃┃事代主神(天武の守護神)
伊邪那岐命 ┃┃武神フツヌシ 高倉下献上の霊剣が神格化
    ┣ヒルコ  ┣大国主神(オオナムヂ→アシハラノシコオ→ウツシクニタマ→オオクニヌシノミコト大穴牟遅神)

    ┣アハシマ ┃┃オオムナヂ :異母兄弟神(八十神)に仕える少年神→ヤガミヒメ(因幡国)を得る     
    ┃   ┃┃アシハラノシコオ:八十神を逃れて冥府王・スセリヒメと結婚
    ┃   ┃┣島根美保神社の神 
    ┃   ┃高志(糸魚川付近)の巫女・沼河比売ヌナカワヒメと結婚
 
   ┣素戔鳴尊(スサノオノミコト)冥府,天照大神により高天原を追放後出雲国へ天降る
    ┃     ┣スセリヒメ(地下冥府の王)
    ┃     ┃   ┣  
    ┃     ┃アシハラノシコオ(ヤガミヒメ・キサガイヒメ・ウムガイヒメの霊力をもらう)→オオクニヌシ
   ┃     ┃ (カムムスヒの御子神・クスナビコナとともに出雲国を完成させる)
 
  ┃     ┗イソタケル(スサノヲと共に新羅へ渡る)   
  ┣天照大神 ━━┓(アマテラスオオミカミ) 太陽の神

  ┃(高天の原)   ┃八咫鏡を授ける ニニギノミコト(日向可愛山陵)
  ┃          ┃(垂仁期に倭姫伊勢へ祀)↓┣火闌降命ホスソリ(海幸彦)隼人始祖
  ┃ スサノヲノミコト   ┃ ↓      日向の襲┣彦火火出見命(山幸彦)高屋山上陵
  ┃ ┣大年神   ┃ ↓      (高千穂)┃ ┣鵜草葺不合命(吾平山上陵)
  ┃ ┣ウカノミタマ稲荷┃ ↓         ↓┃┏豊玉姫┣神武天皇
  ┃┏神大市比売神┃ ↓        空国┃┣玉 依 姫
 
 ┣大山祇神━━  ┃ ↓(オオヤマツミ) ━┓  ↓┃大綿津見神(日本神話で最初に登場)  
 
 ┃┃         ┃ ↓      ┃ 吾田┣火明命(尾張連始祖)
 
 ┃┣四対八神の神┃ ↓      ┣
神吾田津姫・コノハナサクヤ姫(端陵)
  ┃鹿屋野比売神  ┃ ↓      ┗姉・磐長姫・コノハナチル姫(醜い為送り返される)
  ┃        ┃ ↓          ┣
  ┃        ┃ ↓       八島士奴美神(スサノヲの子)
 
 ┃        ┃石凝姥に作らせる 西都原古墳群・メサホ塚古墳がコノハナサクヤ姫陵? 
  ┃          ┃ ┣紀伊の日前神(天香山の銅で鋳造)
 
 ┃          ┃ ┗伊勢大神
 
 ┣月弓尊       ┃(ツキユミノミコト)  月の神 五穀の起源

  ┣大宜都比売神 ┃(オオゲツヒメノカミ) 五穀の神 保食神  
    ┣迦具土神   ┃(カグツチノカミ)火神 母の陰部を焼焦がし誕生。十拳剣にて死す
 伊邪那美命    ┃
 (根堅洲国)    ┃甕襲ミカソの犬・足往が八坂瓊ヤサカニ勾玉を垂仁に献上→石上神社
          ┃  
┏━━━━━━━━━┛

┗┓ 
 ┣天穂日命(アメノホヒ)出雲の祖。アマテラスの右のみずらに巻いた勾玉から成った。
 ┃         出雲平定の為にアマテラスに派遣されるがオオクニヌシに寝返る
 ┣アマツヒコネ  萬幡豊秋津師比売命(高木神の娘) 

 ┣イクツヒコネ   ┣天火明命(アメノホアカリ)
 ┣クマノクスビ     ┣瓊瓊杵尊(ニニギノミコト) 
 ┣天忍穂耳命(アメノオシホミミ)スサノオガアマテラスの勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の長男
 ┣建甕槌命 (タケミカヅチノミコト)迦具土神が十拳剣にて父に刺されたときに血から誕生
 ┃           磐筒女(イワツツヒメ)の子
 ┃           出雲・稲佐浜でコトシロヌシと闘争
 ┣布都御魂神 (フツノミタマノカミ)迦具土神が十拳剣にて父に刺されたときに血から誕生

 ┣菊理姫神 (ククリヒメノカミ)伊邪那岐命・伊邪那美命が喧嘩をしたときに調停する白山の神、農耕神
 ┗天宇受売神(アメノウズメノカミ)巫女の元祖 岩戸では陰部もあらわに踊ります サルタヒコの妻伝承あり

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渡辺綱の石灯籠

2009年01月18日 | 平安時代

 渡辺綱(953~1025年)は武蔵国の住人で武蔵権介だった嵯峨源氏の源宛の子。摂 津源氏の源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺に居住し、渡辺綱、あるいは渡辺源次綱と称し渡辺氏の祖となる。 摂津源氏の源頼光に仕え、頼光四天王(  渡辺綱 卜部季武 碓井貞光 坂田公時 )の筆頭として剛勇で知られた。 大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻り橋の上で羅生門の鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話で有名である。 その子孫は渡辺党と呼ばれ、内裏警護に従事する滝口武者として、また摂津国の武士団として住吉の海(大阪湾)を本拠地として瀬戸内海の水軍を統轄し、源平の争乱から南北朝にかけて活躍した。 九州の水軍松浦党の祖の松浦久もまた渡辺氏の出である。先祖の源融は『源氏物語』の主人公の光源氏の実在モデルとされたが、綱も美男子として有名。

 宇治の橋姫伝説と言えば、平家物語の剣の巻に登場する物語です。 丑の刻参り・・・。 ある公家の娘が嫉妬のあまり貴船神社へ詣でて鬼になることを願った。そして七日目に貴船の神託があり、姿を変えて宇治川に二十一日間浸かれば鬼と化すという。 そこで女は髪を松脂で固めて五つの角を作り、顔には朱、身体に丹を塗り、頭に鉄輪をかぶってその三本の足に松明をつけ、さらに両端に火をつけた松明を口にくわえて京の南へと走り、宇治川に浸かって生きながら鬼となったという。 その後、橋姫は阿倍晴明によって封じ込められ、源頼光四天王の渡辺綱らによって退治された。そして祀ってくれるならば京を守護すると言って宇治川に身を投げて龍神となったという。

 羅城門で。源頼光が四天王の渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武と飲んでいた時、近頃羅城門に出没する鬼の話になった。そして、一人ずつ羅城門へ行って肝試しをすることになった。 渡辺綱の番になり羅城門に行って証拠の金札を立てて帰ろうとしたが、途中の一条戻り橋で突然兜を何者かにつかまれた。綱が刀(=源氏の名刀髭切りの太刀)を抜いて斬り掛かると相手は逃げていったが、兜をつかんだままの鬼 (=茨城童子という鬼)の腕だけが落ちていた。 茨城童子が逃げる際に「七日後に腕を取り返しに来る」と言ったので綱は箱に鬼の腕を封印した。 7日後、綱の乳母が現れ「鬼の腕を見せてほしい」と言ってきた。綱は鬼の腕を乳母に見せると、乳母の姿は茨城童子の姿に変り腕を持って綱の前を去ってしまった。

 『平家物語・剣巻』によると一条戻り橋で見知らぬ美しい女性に「暗夜が怖いから家まで送って欲しい」と頼まれたので、馬に乗せた。するとその女はたちまち鬼と化してしまった。渡辺綱はその鬼の右腕を切り落とした。 後日、綱は大神のおかげと神恩に感謝し寄進した石灯籠が天満宮にあります。

 

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永代常燈明

2009年01月18日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 常燈明は、無尽灯・常夜灯とも称される。これは『維摩経』菩薩品に、一人の者が、法をもって多数の衆生を開導すれば、また多数の衆生が多数の者を開導し、展転して尽きないことから、あたかも一個の灯が次々に移されて無数の灯となることに譬えていうもので、菩薩の化導の義として説かれる。これが実際に常燈明として行われるようになった時期は不明であるが、中国・唐の華厳宗第三祖の法蔵(643~712)は武周の則天武后のために、十鏡を八隅に置き、その中に仏像を安置して火を灯し「刹海重重無尽之意」を表わしている。 日本では常燈明がいつ頃から行われていたかは不明であるが、天平19年(747)の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』に「常灯分壱仟束」とあることから、奈良時代より存在したようで 無尽灯に対する関心は深かったようである。

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稲荷寿司と漬物

2009年01月16日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

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六波羅蜜寺

2009年01月15日 | 平家物語

 六波羅蜜寺は963年、空也上人が開いた古刹で、西国三十三ヵ所第17番札所。本堂(重文)は、南北朝時代の再建。1183年の兵火で本堂を除いて焼失。空也上人像、平清盛と伝える僧形坐像(ともに重文)など平安、鎌倉時代の優れた彫刻が多い。

 平安時代・保元の乱以降、無慈悲な信西入道による戦犯処理が行われた。これで約400年というもの、戦に負けた郎党が死刑に処せられることはなかった。極刑でも流罪であったのだ。 源為義親子、平忠正親子の処刑に対して、民衆の勝者に対する風当たりは強かった。 なかでも文覚の批判は強かった。遠藤盛遠と名乗っていた頃、源渡の新妻である袈裟御前の首を討った男である。 しかし信西の前に一蹴されたのはいうまでもない。 さらに、信西は平清盛の財力を後ろ盾にして、思うが侭のありさまであった。そして、打倒信西の謀反を企てたのが二条天皇派であり後の平治の乱へと発展していくのである。 保元の乱から3年の間に、後白河天皇は『保元新制』と呼ばれる新制を発令した。また、35箇条の新制を発布しているが、これらは、後白河の側近である信西が立案・推進したものだった。 権威の確立に努めた後白河は、1158年に実子の二条天皇へ譲位し、自ら院政を開始した。 しかし、鳥羽上皇が昔よく言ったように、二条天皇は若くして英君との評価が高く、少なくない貴族らが二条へ接近していき、宮廷は内部分裂の様相を呈した。 後白河院政を後見した信西は、清盛の武力をもって、院政の安定を図った。 当時、後白河の乳母の甥に当たる藤原信頼が院近臣として台頭しつつあり、右近衛大将の官職を望んだが、信西は信頼の申し出を一蹴する。 これにより、信西との対立を深めた信頼は、藤原経宗、惟方、成親、源師仲とともに、二条天皇派として結束していった。 さらに、後白河院政へ不満を持つ源義朝を武力とし引き入れることに成功した。 1159年には、院の近臣である信西派・信頼派間の緊張関係が高まっていく。 信西派の平清盛が熊野詣に出発した直後、藤原信頼・源義朝一派は二条天皇派の了解を得て、三条殿御所を襲撃して二条天皇、後白河上皇を確保する。 この事態に信西は逃亡を図るが、ほどなく捕えられ殺害された。 政権を掌握した信頼・義朝らは勝手に除目を行い、信頼は右近衛大将、義朝は播磨守になる。 その最中、東国より兵を率いて参じた義朝の長男義平は直ちに清盛の帰路を討ち取るよう主張したが、信頼は退け、清盛の帰洛を待つのである。 帰京して六波羅に入った清盛は降伏を装って経宗と惟方を調略し、後白河と二条を内裏から脱出させ、二条は六波羅に迎えられ、後白河は仁和寺に入った。 そして、清盛に信頼・義朝追討の宣旨出されると、清盛の嫡男重盛、弟の頼盛、経盛は3000騎を率いて内裏へ向かい、源氏方2000騎との壮絶な戦いとなる。 そう、この頃の六波羅は平家一族の本拠地であったのです。

 鎌倉時代・承久の乱で敗北したときには三浦胤義は太秦で自害した。 乱のあと幕府は六波羅探題を置いて西国などの監視を強める。 初代の探題には泰時と時房。 承久の乱で勝利した幕府側の西園寺公経は一気にその地位をあげ、翌年には太政大臣にまでなっている。 西園寺公経が北山殿に西園寺の名をつけてのは承久の乱の3年後のことである。  政権は源氏から北条氏へと移り、北条氏の独裁政治が幕をあける。 源氏将軍を失い、北条将軍の独裁化を苦々しく思う幕僚たちが後に続くと踏んだ後鳥羽上皇は、1221年、ついに「北条義時を追討せよ」という院宣を発し、承久の乱は勃発した。 しかし、源頼朝の妻、政子は、「幕府以前、貴族朝廷の時代は武士たちは悲惨な生活を強いられていた。 もしもここで朝廷派が勝つようなことになれば、またもとの悲惨な生活が待っている」 として、武士たちは、朝廷軍と戦い、結果、朝廷側は敗退し、幕府は後鳥羽天皇を廃位、同じく朝廷派の中心人物であった土御門上皇、順徳上皇をそれぞれ廃位する。 そして後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ、土御門上皇は土佐へと配流された。 この後幕府は、朝廷を監視するために京都に六波羅探題を置き、後に隠岐に配流されることになる後醍醐天皇が1333年に六波羅探題を攻め落とすまでの間続けられることとなる。 鎌倉武士に強要され実権のない上皇になることに抵抗を覚えた後醍醐天皇は決行した。 幕府の京の拠点である六波羅探題を襲撃して北条範貞を殺害すると、奈良興福寺の僧侶に挙兵させ、機内の武士を呼びかけた。 一気に鎌倉に圧力をかけようというのである。 ところがこの計画が土岐頼兼の舅にあたる斉藤利行という六波羅の御家人の耳にはいり漏れたのである。 これにより先手を打った六波羅は多治見国長、土岐頼兼を滅ぼして、日野資朝、日野俊基を生け捕りにされ、 資朝は佐渡に流罪、俊基は放免という寛大な処置であった。 後醍醐天皇はこれに懲りずに六波羅の要人・伊賀兼光を寝返らせ、楠木正成、足利尊氏、新田義貞といった有力御家人を味方につけていく。楠木正成は河内の出身であるが、その家系、身分は不明である。 ただ楠木正成が幼少の頃朱子学を学んだという河内の観心寺は後醍醐天皇の属する大覚寺統の寺であり、後醍醐天皇の側近・万里小路藤房を通して繋がったらしい。  二回目の討幕計画・元弘の変は1331年起こった。 しかしまたもや側近の吉田定房によって鎌倉にしらされ計画は失敗し、後醍醐天皇は隠岐に流された。 しかし後醍醐天皇は笠置山に脱出すると、ここで挙兵し、楠木正成は本拠地で呼応した。 このとき幕府は本格的に笠置山を攻めて落城させている。 この時の幕府側の大将が足利尊氏である。 後醍醐天皇は捕獲され京に連行されると、二条為子との間にできた尊良親王は京で捉えられ、護良親王は吉野にはいった。 護良親王はもともと延暦寺の僧・尊雲法親王として押し込められていたが、還俗して護良親王と改名していた。 このとき楠木正成は河内の赤坂で孤立状態で奮闘していたが、とうとう夜陰に乗じて逃げてしまった。 百倍もの敵を相手にまんまと逃げおおせたというのは勝利に等しい。 後醍醐天皇は隠岐へ流罪、宗良親王は讃岐、尊良親王は土佐に流され、持明寺統の量仁親王(後伏見天皇と西園寺寧子との間の親王)が即位して光厳天皇となった。 このとき護良親王と楠木正成は俄かに体力を回復させていた。 幕府はこれをみて、再び大軍を動員して二人の征伐を決意する。 しかし楠木正成の奮闘中に、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、名和長年という豪族の支援を受けて船上山で挙兵し全国の武士に討幕の綸旨をばらまいた。楠木正成らの奮闘に全国の武士は勢いづくと、幕府は再び足利尊氏を投入する。 ところがここで足利尊氏は後醍醐天皇の綸旨を受けて幕府討伐側に寝返ったのである。  足利尊氏は諸国に呼びかけて軍勢を加え京に進撃し六波羅を陥落させた。 このとき幕府の本拠地である鎌倉を攻撃して陥落させたのは尊氏ではなく新田義貞である。 両者の家系は源氏の本流に遡る。 八幡太郎義家の子・義親の系統が源頼朝の本系統であるが、義国には兄・義重と弟・義康がいて、義重が新田を名乗り、義康が足利を名乗った。 尊氏が攻めた六波羅探題はあっけなく陥落し、探題の北条仲時は北朝の光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇をつれて鎌倉へ逃げようとしたが、近江で完全に阻まれ、絶望した仲時は伊吹山の蓮華寺にはいり一族全員430人余りが自害した。 一方関東では新田義貞を大将軍とする軍勢は鎌倉を目指し、北条高時以下一門は菩提寺の東勝寺にはいり六波羅と同様に自刀した。 これにより150年続いた鎌倉幕府は1333年に滅亡したのである。

 こうして平安末期から室町にかけて京の表舞台となった六波羅蜜寺は京都・恵比寿神社に程近い場所にあります。

 

 

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上賀茂神社

2009年01月14日 | 平安時代

 以前、上賀茂神社を取り上げたので、早速今年も行ってみた。 以前記載の内容はそのまま貼り付けるとして、ここでは葵と斎王について記載する。 平安時代には賀茂神社には賀茂斎院があった。 桓武天皇の子・嵯峨天皇の皇女である有智子内親王を賀茂大神の斎王としたことから習慣は始まった。皇女が斎王となる習慣は伊勢神宮にはあったが、賀茂神社にもその制度ができ、上下の賀茂社は伊勢神宮に次ぐ高い神として位置づけられたのである。平安時代にあると賀茂祭は京都の年中行事としてますます盛んになり、見物人はもとより文学や絵画などにも幾多の作品を残すようになった。この賀茂祭が葵祭りと呼ばれるようになったのは江戸時代で、勅使や神職の冠、牛車の簾に葵が使われたことによるらしい。尚、双葉葵は賀茂社の神紋である。

境内最南端には一の鳥居、中央に二の鳥居があり、細殿・橋殿あたりから

  

ならの小川は御手洗川、御物忌川に分岐し、玉橋という反り橋を渡ると桜門があり、

  

桜門の内部には正面に本殿、右側に幣殿がある。

 

 781年光仁天皇は山部王に譲位した。 長岡京の前、平城京の時代のことである。 この年、賀茂神の二社は伊勢神宮に次ぐ神社として扱われた。 784年桓武天皇は長岡京の造営に着手し、藤原小黒麻呂、藤原種継、紀船守、坂上苅田麻呂(田村麻呂の父)を山背国につかわし乙訓郡長岡村に遷都することを決めた。 その直後、紀船守を賀茂大神社につかわし遷都を告げた。 そして年末に賀茂上下二社を従二位に叙し、長岡京内にある松尾と乙訓の二社を従五位に叙している。 賀茂二社は長岡京域ではないし平安京域でもないが、高い神階を与えたのには山背国としての代表的な神として配慮されたからである。 乙訓神社は現在の乙訓寺ではなく、角宮神社ともいわれ、継体天皇の弟国宮のあったところとされる。 そして807年には賀茂社は正一位の神階となった。 まだ都が藤原京であった文武時代・698年に賀茂祭のことが正史にでている。 「賀茂祭の日に衆が会して騎射することを禁ずる」 というから、国家の安全を揺るがしかねない行事と考えたことがわかる。 都が平城京に移ったあとの711年でも、騎射の行事に国司を偵察に行かせている。 このような禁止令は発せられても賀茂祭は盛んにおこなわれ、大伴坂上郎女が平城京からこの祭を見にやってきた記録もある。 また鴨上下大神宮の禰宣であった賀茂県主広友は鴨川の上流で鹿や猪を解体して洗うのは水が汚穢され、神がいやがると卜にでていると申し出たが、禁足地の神山でも動物をとるものが絶えず、884年には狩猟禁止の勅令まででている。 なお、現在、上賀茂神社の神餞には鹿や猪の肉はないという。

 神話でも賀茂は登場する。賀茂建角身命が丹波国の神伊可古夜日女を娶って生ませた子は玉依日子・玉依姫であり、玉依姫が石川の瀬見の小川で遊んでいたときに丹塗矢が流れ落ち、家へ持ち帰ったところ孕んで男子を産んだ。その子が神武天皇である。  これと同じような話が神武記にもでてくる。   賀茂建角身命は記紀の神話体系である天孫降臨にも参加し、神武東征にも参加した。 磐余彦の軍勢が大和に至ろうとして熊野の山中で疲労困憊していたときに高木大神が道案内として遣わしたのが八咫烏である。 磐余彦軍勢が奈良盆地で最後に戦った相手が磯城彦であった。 戦いに勝利した磐余彦は八咫烏に褒美を与えた。 これにより子孫は葛野主殿の県主になり、主殿は宮内庁所轄の役所となった。 賀茂建角身命は倭の葛木山から賀茂をへて山代川(木津川)に沿って葛野川(桂川)と賀茂川の合流点から社地を定めた。 鴨都波神社や高鴨神社がそれである。 戦いに勝って樫原宮で即位したあと皇后を選出することになった。 そのとき磐余彦の親衛隊長である大久米命が神の御子を推挙してきた。 三島溝橛の娘・勢夜陀多良姫である。 この美人が溝端で大便をしていたとき大物主神は丹塗矢に化けて溝を流れくだり姫の富登、つまり陰部を突いた。姫は驚きその矢を持ち帰って床に置いたら麗しい夫になり姫を娶る。 そのときに産んだ子が富登多々良須々岐比売命である。神の御子は磐余彦の皇后となり3人の子を産むが、末子が綏靖天皇である。

 

 平安時代の賀茂神社には賀茂斎院があった。桓武天皇の子である嵯峨天皇のときに皇女を賀茂大神の斎王とする習慣が始まった。嵯峨天皇は賀茂社に皇女の宮仕えを約束して平城上皇との戦いに勝利するように祈願したと伝えられる。嵯峨は兄の平城上皇と政治的に対立し、平城宮を復活させようと藤原仲成・薬子兄妹と組んで起こした薬子の変の前のことである。初代斎王は有智子内親王であった。斎王の儀式は伊勢神宮にも昔からあり、源氏物語の葵の巻では勅令により光源氏が斎王の御行行列に参加した際に、妻・葵の上と六条御息所が車争いをしたことでも描かれている。 ところでこの斎王の始まりは嵯峨天皇の皇女・有智子内親王となっているが、奈良時代に賀茂神社で神事を主宰した鴨県主の当主がかわると一族の中から女性を選んで御阿礼の秘儀(神山から祭神を祭場に迎える神事)にあずからせた。この斎祝子(いつきのはふりこ)こそ斎王の原型であるともいえる。  

    ┏  玉櫛媛(溝橛媛)                
 溝橛耳神 ┣   五十鈴依媛命   渟名底仲媛命┏天豊津媛命
      ┣ 媛蹈鞴五十鈴媛┗━━━━┓ ┣息石耳命┣5孝昭天皇(観松彦香殖稲尊)
      ┃(富登多々良須々岐比売命) ┃ ┣4懿徳天皇(大日本彦耜友尊)┃┃
 天照大神 事代主     ┣ 神八井耳命 ┃ ┣磯城津彦命        ┃大井媛
    ┣  オオクニヌシ      ┃      ┣3安寧天皇(磯城彦玉手看尊)   
      ┣  加夜臣奈留美 ┣ 2綏靖天皇(渟名川耳尊)━┓        ┃
  スサノオノミコト            ┣ 岐須耳命  ┃ ┃      ┃      渟名城津媛
     鵜葺草葺不合命┣ 吾平津媛  ┛糸織姫   ┃
                  ┣1神武天皇(磐余彦)       x
      賀茂建角身命┣五瀬命,稲飯命,三毛入野命    ┃
              ┣玉依姫命┣ 手研耳命        ━┛
              ┣豊玉姫 ┃
              ┣玉依日子┃
        神伊可古夜日女 吾平津姫(日向)

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菅大臣神社

2009年01月13日 | 平安時代

 京都には菅大臣町がある。 もちろん菅原道真縁の町で、菅家累代の邸宅のあったところであり、梅ノ木があった紅梅殿もあった。 道真の書斎記には大勢の学者を輩出した学問所・私塾や一株の梅のことがあり、ここ紅梅殿のことを云っている。 名所図会では菅家の邸址にできた菅大臣社の境内図を載せ、本殿の斜めには梅ノ木を描き、「飛梅」としている。 ここ菅大臣神社の南は高辻通、西は西洞院通、北は仏光寺通があり各々に鳥居があり境内に入ることができる。 現在の本殿は下鴨神社の社殿を移築したものである。 邸や紅梅殿は道真が大宰府に左遷されたあとも菅原家が利用していたが、1177年の大火によって焼け落ちたと平家物語には述べられている。 因みに菅原道真が詠んだ次の歌は飛梅を思いながら詠んだものである。

東風吹かばにほひをこせよ梅花 主なしとて春を忘るな

 

 

 

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六道珍皇寺

2009年01月12日 | 平安時代
 六道珍皇寺は六波羅蜜寺と恵比寿神社の近くにある小野篁が作ったと「今昔物語」には記されている寺である。 小野篁は亡き母の霊に会うために六道珍皇寺の井戸から冥界を往復したという伝説がある。 小野氏は遣隋使の小野妹子や小野小町などの著名人が多く天武朝の仕えた小野朝臣毛人は小野妹子の子である。 小野氏は平安遷都の以前から岩倉盆地に拠点を持つ山城の豪族である。 六道珍皇寺はその昔、愛宕寺ともいい、奈良時代に遡る。 愛宕寺の創建は700年頃に山代淡海によるものであるとの伝承もある。 当時の住民基本台帳である計帳には山背忌寸凡海の名が見え、凡海は近江・淡海の意味である。 また、685年には山背連らが忌寸の姓をもらっている。 山背連には大海人皇子の挙兵に際して従軍した山背直小林の名が見え、天武の即位後に連となり忌寸となっている。 六道珍皇寺の草創者である山代淡海は地域の有力豪族だけではなく、山背の国造をつとめていた山背忌寸の子である可能性が高い。  小野小町は小野篁の子・良真を父に持つと云われており、 小野篁は、延暦21年(802~852)生れで、嵯峨天皇の勅を奏じて「凌雲集」を撰じた参議・小野岑守の子である。 嵯峨天皇に遣えた平安初期の政治家であり、文人、歌人でもある。 文章生から東宮学士などを経て閣僚級である参議という高級官僚にまでなり、また乗馬、弓術、剣術など武術百般にも優れた文武両道の人物であった。  不羈(ふき)な性格で、奇行も多く、昼は朝廷で仕事をして、夜は閻魔王宮の役人であったという。この奇怪な伝説は、「江談抄」(ごうだんしょう)や「今昔物語」などの説話集や「元亨釈書」(げんこうしゃくしょ)等にも数多く見られることから、平安末期頃には、篁は独特の神通力をもち、常に現世と冥土の間を行き来していて、閻魔庁における第二の冥官であると語り伝えられていたことが伺える。
 また、篁は承和5年(838)の三十代半ばで遣唐副使に任じられ、四隻で九州を出発したが間もなく難破し翌年三隻で再出発するが再び難破する。 藤原常嗣の難破船の損傷が激しく、小野篁の乗船と交換したため、小野篁は強硬に抗議し、もう一人の副使の藤原常嗣と争った。 しかも「西道揺」という詩を詠んで遣唐使制度を風刺したことなどにより、嵯峨天皇の怒りに触れて隠岐へ流罪となり、一切の官職官位を奪われたこともある。 隠岐へ船出するときに詠んだ歌が次ぎである。

小野篁: わたのはら八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟

  しかし、承和7年(840)には帰京・復位を許され、その後は学殖を高くかわれて順調に官位を昇り、承和14年には従三位という高位についていることからも、篁の尋常でない才能のほどがわかる。  小野氏はその昔、大化の改新の頃は和邇臣系に属し、葛城氏や蘇我氏と並ぶ有力な大氏族で、春日、大宅、粟田、柿本、小野に分裂し小野妹子、小野老から小野岑守・小野篁といった公卿期を絶頂とし、その後も古今歌人の小野春風、小野道風を輩出するが、小野小町で没落の一途を辿った。

 

 

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御土居

2009年01月12日 | 戦国時代

 豊臣秀吉は、京都を新しい町とするために囲郭を造営した。 京都の周囲を御土居でめぐらせる工事は1590年から計画され約5ヶ月で完成させている。 これは京都所司代の前田玄以(信長、秀吉に仕えた亀山城主)の総括により行われた。 土居の高さは3m、周囲は22kmに及び現在の羅城門跡がある九条通が最南端で、京都駅ももともと土居があったところである。 現在、北野天満宮の境内西側には御土居の跡が残っており、その規模の大きさなどを説明した看板とともに史跡となっています。 京都の町並みを巡る楽しみは、偶然こうした史跡に出会うことにあります。 以下に御土居のさらなる説明です。

 秀吉は土居を廻らせたあと、京中に散在していた寺を集め、大名役人とその部下などの関係者の屋敷を配置することにより寺町を造ったのである。そして本願寺としては現在の西本願寺が建設された。現在の寺町(京都御所すぐ東の通り)は鞍馬口にある浄善寺から南は7条にある宗仙寺まで約5kmにわたって100余りの寺がほぼ直線に並んでいる。これらの寺は浄土宗を筆頭にするが、禅宗は洛外にあったため100の中にはない。また浄土真宗である本願寺派の寺もない。 織田信長が敗れた本能寺は現在寺町三条下がる、にあるがもともと下京四条坊門西洞院にあったのである。 この土居のすぐ東は鴨川であるだけに、土居や寺の頑丈な塀が川の氾濫対策として有効であることが理解できる。  この頃、本願寺を京都に戻すことが秀吉から顕如に命じられ、山科本願寺撤収以来京都へ移ることとなった。場所は六条堀川の広大な地で現在の西本願寺のある場所である。 親鸞の廟的な御影堂を移し阿弥陀堂の建設が始まる。 このさなかに蓮如の末裔である顕如が死んだ。 これにより後継の門主をめぐってお家騒動が起こりこれを利用した徳川家康は本願寺を分裂させて東本願寺ができることとなった。 従って本派本願寺を西本願寺というようになる。

 寺町は南北に連なっているのに対して、寺内には東西に寺が集まり東の端は相国寺、西は千本釈迦堂の手前で、妙覚寺、妙顕寺、本法寺、報恩寺など法華宗の寺が多い。 これは京都所司代の前田玄以が法華宗の信者であったことに由来する。 1530年頃は京都には法華宗の大寺が散在し京都全域を掌握する勢いであったが、比叡山や近江の六角によって弾圧され寺は焼き払われた。 しかし前田玄以により徐々に復活し寺内に集まったのである。 秀吉が造った土居には七口、実は十箇所の入り口があり、 鞍馬、大原、北白川、粟田、伏見、竹田、鳥羽、西七条、四条大宮、長坂である。 しかしいつしかこの土居は豪商角倉了以が手がけた運河としての高瀬川の掘削によって姿をけしていった。高瀬川は鴨川から水を引いた運河であるから二条から五条にかけて物資の荷卸しのための施設が次々とでき、長州藩邸、加賀藩邸、彦根藩邸、土佐藩邸などが設けられた。 こうして京都の木屋町は運河と共に栄えることとなる。 

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伏見稲荷神社

2009年01月12日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

 

  

 

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