晩年の豊臣秀吉は京都に大仏殿を建立することを思い立った。 それまでの大仏といえば言うまでもなく奈良の東大寺の大仏である。 発願者・聖武天皇の陵は東大寺のすぐ北西の佐保山にある。 秀吉も京都の大仏殿建立に際して死後自分が葬られる墓について考えた。 天正13年、秀吉は東福寺に寺領を寄進し、翌年には大仏建立の地を東福寺の近傍に選定した。 大仏殿の普請は天正16年に東福寺の北方にあたる大和大路に面した地で行われ、この地は三十三間堂で知られる蓮華王院をも取り込んだ。 工事は小田原の役などで遅れ、大仏の材料も銅から漆膠へと変更されるなどして一応の完成はみた。 しかし伏見地震で大仏は大破し開眼供養は延期される。 この頃信濃の善光寺如来を京都へ運んでくることが計画されたが、秀吉は病気になり、稲荷の巫女が仏罰だから東国へ戻せということとなり結局善光寺に戻された。 秀吉の死後、晩年の子である秀頼が意思を受け継いで大仏の建立を開始した。 この工事は本来の計画に戻って銅の大仏の鋳造を行った。 完成したのは豊臣家が没落を早めた大阪冬の陣の2年前のことである。 本来であれば大仏建立どころではない豊臣家であるが、これは徳川家康の陰謀とかかわり、近畿各地の寺社の修理を秀頼に行わせ豊臣家が蓄えた富を使わせる意図が徳川家康にあったのである。 銅製の大仏は各所に亀裂ができ、幕府は当時推し進めていた寛永通宝の材料にしたために、大仏は木造になったという。
この大仏殿は現在の法広寺にあり、この寺の大仏は東福寺と同じ釈迦如来である。 秀頼は法広寺に用いる銅鐘銘文の作成を東福寺の文英清韓に依頼した。 清韓は東福寺の227代住持であり韓長老として親しまれていた人物である。 ところが、この鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が家と康を分断し豊臣を君主とするものだとして徳川家康の怒りにふれ、豊臣家滅亡のきっかけになったとされる。 この言い分は完全に言いがかりであり当時の儒者・林羅山などは御用学者の典型といえる。 困惑した豊臣家は大仏造営奉行を務めていた片桐旦元(浅井長政の臣従)とともに清韓を使者として家康の駿府城に送り、弁明させようとしたが聞き入れられなかったという。 清韓は豊臣家が滅亡したあとも捕縛されている。 豊臣家を断絶させるために東福寺はうまく利用されたが釣鐘そのものは何故か破却されることなく今日も方広寺の鐘楼に下がっていていつでも見ることができる。
秀吉の死後に東福寺が徳川家康から難問をふきかけられた原因はもうひとつある。 それは文英清韓より数代前に住持を務めたのが瑤甫恵瓊だったことである。 安芸出身のこの人物の通称は安国寺恵瓊といい、その能力が秀吉に認められ秀吉直属の家臣となった。関が原の合戦では毛利側として西軍につき、敗れた後石田光成とともに六条河原で斬首され、その首はひそかに建仁寺に葬られた。 東福寺が生み出した禅僧には似つかわしくない武将の側面を持つ恵瓊の人柄は極めて稀に見るものであったようである。
秀吉は阿弥陀ヶ峰に墓を作ることを遺言した。 阿弥陀ヶ峰は東山三十六峰の一つで東福寺の北北東にあたり、広大な墓地である鳥辺山の一画でもある。阿弥陀ヶ峰のすぐ南西には総山があり、もともと葬山であったとみられ、鳥辺山に含まれていた。 総山に接して天皇家の陵墓の多い泉湧寺があるのも鳥辺山である。 泉湧寺は東福寺とも至近の地にあり、泉湧寺の境内や周辺には四条天皇の月の輪陵に始まり、明治天皇の父である孝明天皇の後月輪東山陵にいたるまでの25の天皇陵がある。 阿弥陀ヶ峰は天皇陵の集中する土地に近く九条家の代々の墓のある東福寺にも近いことが秀吉の遺言である阿弥陀ヶ峰の理由と考えられる。 秀吉の死後に造られた墓を含む廟は、今日智積院や妙法院がある地とその背後の広大な土地にあった。 廟は後陽成天皇から「豊国乃大明神」の神号と正一位の神階を与えられ、廟の境内には56基の燈篭があって毎夜油を献じて火をともしていたという。 豊臣家の滅亡後、幕府は豊国大明神の破却を決め豊国社として方広寺の隣接地に移し鎮守にした。 秀吉の墓もなくされ人々が登れないように登山口に廃絶していた新日吉神社を再建した。 今日では阿弥陀ヶ峰には五百段の石段を登ると五輪の石塔があって秀吉の墓としているがこれは本来の墓ではなく全国の有志の寄附によって作られたものである。