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牟佐大塚古墳

2008年04月27日 | 陵 古墳 墓 遺跡

牟佐大塚古墳

 牟佐大塚古墳は両宮山古墳の西へ4kmいった27号線の北側にあります。 旭川下流東岸の高島・竜操学区の地域・牟佐地区は、古代吉備国の有力豪族であった吉備上道氏(吉備武彦の孫・仲彦が祖)の本拠地であるとされています。  牟佐大塚古墳は、墳丘の直径40m、高さ10mの円墳で、墳丘の中心部分に全長18m、最大幅2.8m、最大高3.2mを計る横穴式石室が南向きに設けられていて、石室の規模の巨大さから、巨石墳と呼ばれています。(総社市のこうもり塚古墳、真備町の箭田大塚古墳とともに吉備三大巨石墳という) 六世紀末の築造と推定され、石室の奥には遺骸を納める家形石棺が安置してあり、この石棺は、備中南西部(井原市)産出の浪形石で作られています。  

 

 

 牟佐大塚古墳の背後の高倉山には、この山を祭る高蔵神社があり 上道氏は伝統的な地元の首長として山の祭事に深くかかわっていたようです。

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黒媛塚古墳

2008年04月27日 | 陵 古墳 墓 遺跡

黒媛塚古墳(こうもり塚古墳)

 こうもり塚古墳は、吉備を代表する備中国分寺と造山古墳の中間あたりにあり、丘陵を利用した前方後円墳(長さ103m)の中に入ることもでき、横穴式石室があります。 この古墳は6世紀-7世紀にかけて築かれたもので、別名を黒媛塚とも呼ばれています。 黒媛は「古事記」に見られ、吉備海部直の娘で、代表的な美女であったといいます。 黒媛は仁徳天皇の寵愛を受けるが、皇后・磐之媛の嫉妬に恐れて吉備国に逃げ帰ります。 ところが仁徳天皇は黒媛が忘れられず、彼女を追って吉備国にやってきて黒媛と楽しい一時を過ごし、次の歌を残しています。

「山方に蒔ける あお菜も吉備人と共にし採めば楽しくもあるか」

また、黒媛は天皇が大和へ帰る時に次の二首を詠んだという。

「大和べに西風吹きあげて雲離れ退おりとも われ忘れめや」

大和の方へ、西風が吹き上げて、雲が離れ離れになるように、遠く隔てられておりましょうとも、私は忘れなどしません。

「倭方に 往くは誰が 隠水の 下よへつつ 往くは誰が夫」

大和の方へ帰って行くのは、どなたのお相手かしら。隠れ水のように、忍んで通っては、帰って行くのは、どなたのお相手かしら。

 仁徳天皇の父・応神天皇は吉備武彦の娘・兄媛を妃としていた。 応神天皇は仁徳天皇と同一人物ではないかとの説があることから、黒媛が兄媛と同一人物であるとの説もある。

黒媛塚古墳全景と石棺(撮影:クロウ)

 

 

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