清涼寺
清涼寺は、「嵯峨釈迦堂」の名で親しまれ、光源氏のモデルといわれる嵯峨天皇の皇子、源融の山荘「棲霞観」があったところが、のちにお寺となりました。 本尊は釈迦如来、開基は然(ちょうねん938-1016は、平安時代の東大寺の僧で法済大師とも号される。)、開山(初代住職)はその弟子・盛算である。 阿弥陀三尊を本尊とする棲霞寺(せいかじ)と、釈迦如来を本尊とする清凉寺という2つの寺院が関係し、もともと、嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(822-895)の別荘・栖霞観があった。 源融の一周忌に当たる896年、融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号した。 その後945年に、重明親王(906-954 醍醐天皇第四王子 母は源昇娘)の妃( 藤原登子 藤原寛子:太政大臣・藤原忠平の次女の姪)が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置した。 (撮影:クロウ 2008/4/5)
仁王門 本堂
嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(822-895)の別荘・栖霞観跡
源氏物語 「松風」には光源氏が造営した「嵯峨の御堂」は大覚寺の南に所在したとあり、栖霞観の場所と一致することから、河原院が六条院のモデルとも、源融が光源氏のモデルとも云われる所以である。
源昇墓碑(父・源融の遺産・河原院を宇多天皇に献上した)
多宝塔(1700年多宝如来安置) 一切経堂