平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

名勝 渉成園

2006年12月30日 | 平安時代

渉成園

 光源氏が栄華を誇った六条院のモデルが「渉成園」、別名「枳殻邸(きこくてい)」であるとの伝承を持つ名勝。 平安時代前期に時の左大臣・源融(嵯峨天皇の12皇子で源姓を賜って臣籍に下った)が営んだ六条河原院の旧跡とも言われていましたが、河原院の位置が考古学的に北東にあるという説が有力になったらしく、源氏物語との関係も希薄になってきています。 後に渉成園は東本願寺(徳川家康から寄進された)の別邸となり、徳川家光から寄進されました。

 六条川原院は源融から息子の源昇に受け継がれた後、宇多天皇に献上されています。 というのも、源昇は宇多院に入内した妃の一人である 娘の貞子と その子依子内親王のために 河原院を献じたのです。 ところが・・・・、残念ながら 院の寵愛を一身に受けたのは、藤原時平の娘 尚侍・褒子でした。 宇多院には女御(皇太夫人):藤原温子・天皇推薦をおこなった藤原基経の娘、  女御:菅原衍子・あの学問の神様 菅原道長の娘、女御:橘房子・橘氏の貴公子で文章博士橘広相の娘とすごい血統の勢ぞろいです。更衣として入内した昇の娘・貞子には・・・勝ち目はありませんでした。 

 六条河原院の塩釜を模すための塩は、難波の海の北(現在の尼崎市)の汐を汲んで運ばれたと伝えられています。そのため、源融が汐を汲んだ故地としての伝承がのこされており、尼崎の琴浦神社の祭神は源融であります。 摂津国|摂津の渡辺氏(渡辺綱が祖)、肥前国|肥前(長崎)の松浦氏(松浦久が祖)は、いずれも源融の子孫です。 また、大阪の梅田にある太融寺もまた、源融にゆかりの寺だそうです。

 2006年12月29日、全国的に冷え込み、京都でも雪になりました。 雪の京都を前々から訪れたいと思っていたことから、早速ここ渉成園の静寂を味わいに。 気温1度とさすがに寒さが染入りましたが、1万坪に及ぶこの庭園は最上級の価値がありました。

渉成園に入ると十三景が広がります。(撮影:クロウ)

 

 

左が臨池亭 正面が滴翠軒                      傍花閣

 

 

閬風亭(ろうふうてい)               侵雪橋

 

 

回棹廊(かいとうろう)           縮遠亭(しゅくえんてい)

 

 

侵雪橋

 

 

印月池                  源融ゆかりの供養塔と臥龍堂

 

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藤原冬嗣 上

2006年12月19日 | 平安時代
 藤原の繁栄を引き継いだ北家の藤原冬嗣は桓武、平城、嵯峨天皇時代を代表する公卿です。怨霊、祟りに怯えたこの時代の天皇とともに歩んだ冬嗣が成功を納めた背景にはどのような物語があったのか・・・・。
 
安殿の立皇太子
 
 桓武天皇は種継事件を利用して思いを叶えた。 つまり皇太子であった早良親王を廃し、安殿親王を皇太子としたのである。 しかし、これにより身に降りかかる不吉な出来事を受けることになる。 寵姫・旅子が大伴親王を産んだばかりというのに30歳の若さで亡くなったのである。 旅子は百川の娘であるだけにここまで自分を持ち上げてくれた百川に申し訳がなかった。 翌年、蝦夷征伐を目指していた大部隊は大敗を喫した。 そして桓武天皇の実母で皇后夫人の高野新笠が病死し、宮廷では女官の死が相次いでいたのである。 命婦・藤原教貴、大原室子などである。 翌年、皇后・乙牟漏が31歳の若さで亡くなると、后の坂上全子もなくなった。  この頃から、桓武天皇は悪霊・怨霊に怯えるようになる。 井上皇后、他部親王、早良親王の・・・・。 そしていよいよ皇太子・安殿親王の体調も崩しはじめていた。 桓武天皇はやむなく、早良親王の怨霊鎮めを最初に行った。 しかしその配慮を無視するかのように伊勢神宮を焼いたのである。 桓武は皇太子・安殿に伊勢参宮を命じたが、安殿親王は桓武の処置に納得がいかずに、互いの溝に亀裂が入り始める。
 
藤原薬子
 
 このときに桓武は東宮・安殿を見限り、藤原南家の血筋をひく藤原吉子の皇子・伊予皇子を東宮に推しているという噂がたった。 怨霊の根源である式家の血統を排除しようと考えたものであろう。 安殿親王の不安と父・桓武に対する不安が一層広がっていったが、百川の忘れ形見・帯子を妃に向かえた頃から精神的な安定を取り戻していく。 そして、東宮の心を慰める女性、藤原縄主の娘が後宮入りしたのである。 当時後宮入りするときには相応の支度を整え母親を従えて、床入りするまでの一切の世話をし最後に床入りした二人に新衾をかけて退出するのである。 縄主の妻も娘に付き添ったのであるが、東宮がその母を見たとき亡き生母・乙牟漏皇后にあまりにも似ていたため絶句した。 縄主の妻は乙牟漏皇后からすれば姪にあたる藤原薬子である。 結局東宮と薬子の娘との新床は不調におわり、娘は泣き崩れて退出するが、安殿は押し留めた。 しかも娘をではなく母・薬子をである。東宮・安殿はその日以来、薬子にのめりこんだという。 そしてただちに女官として東宮に出仕し、東宮宣旨の肩書きを与えられ、活躍することとなった。 藤原種継の娘である薬子が、父の存在を忘れていく桓武の薄情さに恨みを抱く一方で、安殿親王も父・桓武に対する恐怖心を抱いており、二人が共感し合いのに時間はかからなかったようである。 この二人を四六時中警護していたのが、藤原内麻呂の子・真夏であり小黒麻呂の子・葛野麻呂であった。
 
桓武帝と安殿皇太子
 
 そのうち、葛野麻呂と薬子が通じてしまうようになる。 ときに桓武の身辺の者が時折、安殿のもとを訪れ様子を窺っていたが、薬子と安殿の仲を桓武に悟られないように、薬子は護衛の葛野麻呂と恋仲であることにすれば東宮の傍にいても怪しまれることはない、という言葉に安殿は喜んだという。 それ以来、薬子はおおっぴらに葛野麻呂をも誘うようになる。 かくして薬子と安殿親王との仲は濃密になっていくのであるが、桓武天皇の耳にはいってしまうと、桓武は安殿に東宮宣旨とは別れるように忠告するが、父に反感の念しか抱いていない安殿が聞き入れるはずもなく、二人は相敵対するのである。
 
 事件は起きた。 東宮宣旨である薬子が失踪した。桓武は安殿親王から薬子を引き離すために 舎人を使って薬子を桓武の居る東院に幽閉した。 それを知った安殿は桓武の舎人を殺害した。 桓武はその頃、藤原南家系の伊予親王を寵愛していた。 後宮で女官が次々となくなる中で唯一元気にしていた藤原吉子の子であり、早良親王の祟りを恐れた桓武が心のよりどころにしていたのだろう。 伊予親王には母・吉子の兄の参議・雄友という後ろ盾もあり、安殿を退けようと思えば不可能ではない。 そういうことになれば、安殿親王に仕えている藤原内麻呂の子・真夏の出世も途絶えることは必至である。
 
平安遷都
 
 794年、遷都の年に安殿の妃で百川の娘・帯子が急病になり、薬子の登場によりすっかり影の薄い存在となったまま東宮の片隅に住んでいたが、あっけなく命を終え、ある意味で藤原百川の時代は終わろうとしていた。 遷都の直後、真夏の父・内麻呂は参議となった頃、右大臣・藤原継縄についで、小黒麻呂が亡くなった。 内麻呂と同じ北家の小黒麻呂は大納言として遷都の一切を仕切っていただけに、彼の死は内麻呂には幸運であった。 南家側もすかさず勢力拡大をはかり、参議・雄友の兄・真友や、継縄の子・乙叡が母であり後宮を取り仕切る尚侍・明信の口添えで参議として加わった。恐らく雄友が明信に取り入って乙叡の参議を薦めたのであろう。 そして、南家一族は雄友の姉・吉子が産んだ伊予親王を皇太子として推す条件が揃ったともいえるのである。 一方、北家の内麻呂であるが、小黒麻呂が亡くなって幸運が到来したものの、彼のようなやりてではないだけにくすぶっている。
 
朝原内親王
 
 翌年、朝原内親王が斎宮を退下することとなった。 朝原内親王は桓武天皇の皇女で、伊勢に旅立つ時、桓武が奈良へ赴いた留守中に長岡京で種継が暗殺されるという経緯がある。 その朝原内親王が、桓武の薦めで東宮妃になろうとしていたのである。 遷都直前に東宮妃・帯子は急死したが、その死に対して悲しみもしなかった東宮が、喜んで妃を迎えることはなかった。 いまだに薬子に思いを馳せていらからである。まして、朝原内親王の母は桓武妃・酒人内親王であり、その母は桓武が山部親王時代に謀反の罪をきせて死に追いやった井上内親王である。この巡りあわせを考えると真夏も、女をあてがえば良いと思っている帝の気持ちを疑うばかりである。 安殿親王がこれで東宮宣旨・薬子を忘れることができる、と桓武が考えたとすれば見当違いも甚だしい。
 
真夏の異母弟・安世王
 
 時は流れて、801年。桓武帝に寵愛を受けた百川の子・緒嗣はあと一息で参議という鮮やかな昇進ぶりを見せているが、同じ年の真夏はかなり遅れている。 桓武の皇子は次々と元服し今はなき旅子を母とする大伴親王、多治比真宗を母とする葛原親王、安殿の弟・賀美能親王と続いた。 大伴親王に付き添うのはもちろん旅子の兄・緒嗣である。 一方、伊予親王を推す藤原南家は、中納言になった雄友が安殿を引き摺り下ろそうとするが、右大臣継縄、参議真友を失い旗色は悪くなっていた。 この争いから一歩脱落している皇子が安世王である。年は大伴皇子らよりも1歳年上であるが、のんびりした母・永継の影響のせいか、異母の兄弟真夏や冬嗣も気を揉んでいる。 桓武は安殿皇子と言い争ったときに、内麻呂の妻・永継に安世王を産ませた桓武に安殿は反論したが、それをこだわっているのだろうか、桓武が安世王の元服の儀すら考える気配もないのである。 本人はというと無邪気に馬と戯れ、学問への興味を示さなかったが、母・永継が体調を崩した頃からみるみる学問に目覚め始めていた。 
 
 802年永継がひっそりとこの世を去った後、桓武帝からの使いが安世王に継げたその命は、良峯の姓を賜う、というものであった。 つまり安世は臣籍に入れられ、桓武に見捨てられたのである。これで兄弟である大伴・賀美能皇子とともに宮門をくぐることはなくなった。ところが安世本人には屈託のない笑顔があったのである。 母・永継が生まれ育った長岡近くの良峯の姓に満足し、義兄・真夏、冬嗣よりも官位があがり親王になることなど思いもしていなかった安世には、母のおおらかな血が流れていたようである。 
 
藤原冬嗣
 
 良峯安世が学問に目覚め時折、真夏の弟・冬嗣につきまとい書物の行間に隠された意味を質問してくる。 そんな良峯安世の相手をしていた冬嗣も25歳である。 兄真夏は適当に女のもとに通い留守にすることが多いのに、冬嗣には適当な女はいない。 丁度その頃、長年仕える老女が藤原南家の姫君の縁談を持ちかけてきた。 姫の名は美都子といって藤原巨勢麻呂の孫にあたる。 巨勢麻呂といえば聖武天皇の頃に肩で風を切っていた仲麻呂の異母弟であるが、孝謙女帝と対立して敗死したときに巨勢麻呂も斬殺されたのであった。 それ以降、子の藤原真作もたいした出世もせずに世を去ったことから、巨勢麻呂家は運から見放されている。 美都子の弟・三守は後のことを悟ってか、学問に精を出しているという。 乳母の案内で訪れた美都子の邸はささやかで、ひとけもなく、最初冬嗣はその気にはなれなかったが、乳母のいう以上の姫君であった。 美都子の弟・三守は17歳であったが、すでに安万子という年上の恋人がおり、祖父は橘奈良麻呂といって謀反の罪で非業の死を遂げたが、その謀反の計画を未然に摘発したのが仲麻呂、巨勢麻呂であったから冬嗣は驚いた。 安万子と三守はお互いに悲運の家の息子と娘であったからである。
 学問好きの三守は皇太子安殿の弟・賀美能親王の学問の相手に推薦されたが、その賀美能親王の御所に出仕していたのが安万子であった。 冬嗣の兄・真夏が仕える東宮御所と違って、賀美能親王の御所は至って平穏無事な雰囲気であり、親王の女性に関する噂くらいのものである。 親王は15歳にして高津内親王を妃とし皇子をもうけている。 橘安万子の勧めもあって、その親王に出仕しないかという話が美都子にあった。 しかし幸運にも美都子が冬嗣の子を身篭り出仕の話は途絶えた。 身篭った子は後に藤原北家を代表することになる長良である。
 
 学問好きの安世と三守が意気投合するのに時間はかからず、そのうち安世にも賀美能親王から誘われて御所に出仕するようになると、安世は親王にその学才を見抜かれてかわいがられた。 ここに東宮御所にはない、賀美能、三守、安世といった学問好きのつながりの輪ができようとしていた。そして冬嗣、美都子もこの輪に溶け込んでいたが、後にどのような意味を持つのかは誰もわからなかったのである。 
 
橘嘉智子
 
 しばらくして、賀美能親王に女官として仕える橘安万子の妹・嘉智子が姉の薦めで賀美能親王の御所に出仕するようになると賀美能親王は嘉智子を見るなり虜になってしまった。 賀美能親王に仕える官女は美女揃いであるが、ひときわ群を抜く美貌の女性であるだけに賀美能親王は他の女には見向きもしないという。 かつて冬嗣の妻・美都子が御所に出仕する話を安万子から切り出されたとき、冬嗣は美都子に「賀美能さまは女にうるさいから、あそこはいけない」 いったのであったが、賀美能親王が現在は嘉智子に御執心ということで、妻・美都子に賀美能親王に仕えてみないかと話を切り出したのである。 三守夫妻と二組で賀美能親王の身辺を固め、いずれ政界でしかるべき地位になるであろう賀美能親王を支える人間になろうと考えたからである。 こうしてまもなく冬嗣の妻・美都子は賀美能親王の御所に出仕することとなった。 
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藤原冬嗣 中

2006年12月19日 | 平安時代
平城天皇即位
 
 806年、桓武天皇はついに70歳でこの世を去ると、東宮安殿は遣唐使の長として帰国していた葛野麻呂を参議とすることで政治改革に手を付け始めた。 いよいよ東宮安殿が即位するときがきたのであるが、驚いたことに次の東宮に選ばれたのは賀美能親王だと冬嗣の兄・真夏はいう。 誰もが伊予親王か大伴親王と予想していただけに、賀美能親王に仕えていた冬嗣でさえ絶句である。 かくして安殿は即位し平城天皇となり、仕えていた真夏は従四位下に昇進し新帝の側近となった。 また冬嗣は従五位下に叙せられ、春宮大進に任ぜられた内麻呂は大納言から右大臣に昇進し、ついに藤原雄友を抜き、て伊予親王側は押さえ込まれ、平城天皇側が強化されたのである。 次期東宮に選ばれたことを三守と冬嗣は賀美能親王に告げるのであるが、賀美能親王は政治には向いていないし、すざまじい渦に巻き込まれるにはあまりにも弱将な御方なだけに、三守と冬嗣は覚悟をきめたようである。
 
 冬嗣の兄・真夏は平城天皇に仕え、即位の日に従四位下に昇進し真夏と同じ年の葛野麻呂は参議として中国から輸入した新知識を平城新政に生かしている。 そして真夏は斎宮の交代の為に伊勢をめざして使として出発することとなった。 新斎宮は皇女大原内親王である。 また年が明ければ大嘗会の準備で多忙を極める予定であったのだが、その年大嘗会はとうとう行われなかった。 というのもその直前にある事件が起こったからである。 
 
 807年10月、伊予親王と母・吉子の遺体が発見された。 9月に大納言雄友が、伊予親王の謀反を暴露したという噂が広がったが、冬嗣も三守も信用するはずもない。 雄友は伊予の最大の後ろ盾であり不利なことを訴えるはずがないからである。 真実は右大臣・内麻呂が知っているはずであり、恐らく伊予親王の謀反を訴えた藤原宗成の動きを捉えた雄友は伊予親王の潔白を陳述する目的で内麻呂のもとに走ったのであろう。 ところが一足遅かったために宗成の証言を覆すことができなかった。 これにより雄友は伊予に配流され、乙叡は全ての官職を解任された。 この頃、賀美能親王は伊予と母・吉子の死を悼み、体調を崩し、 伊予という障害がとれたのであるが、伊予親王に祟られるのではないかと怯えている以上、春宮亮である冬嗣は宥めるほかはない。 
典侍薬子
 
 伊予親王、吉子親子が服毒死を遂げ、今や敵が居なくなった平城の周囲には華やかな人影が浮かび上がっている。 なかでも先帝桓武に安殿親王との密通を指摘され宮廷を追われた藤原薬子が典侍として舞い戻り、平城の愛人として身辺を取り仕切っている。 そして宮廷の高級女官として、兄・仲成とともに、政治に関わっていたのである。 平城もこの日を待っていたとばかりに誰にもはばかることなく薬子に溺れ、他の妃は振り向きもしない。 薬子は安殿との仲を引き裂いた桓武を恨み、その鉾先は桓武に寵愛された伊予親王に向けられたから、伊予の死を喜んだのは薬子だったに違いない。 また事件後に薬子への論功行賞が行われ薬子優遇策が展開されたのは冬嗣が予想したとおりであった。 そして薬子は続日本紀のなかで歴史の書き換えをさせている。桓武に寵愛されていた薬子の父・種継は長岡遷都の功労者であったが、早良側に暗殺された後、評価が希薄になりなかば桓武に軽視されていることが不満でたまらなかった。 薬子・仲成兄妹はその恨みを見事にはらしたのである。
 
嵯峨天皇即位
 
 808年、賀美能親王に仕える春宮亮の冬嗣が侍従という平城の側近に近侍する役目がまわってきた。 これは平城と真夏の間で決定がなされ、真夏も観察使に昇進である。 閣議に列席するするのだから36歳の真夏は閣僚入りを果たしたことになる。 同じ年の緒嗣は昨年観察使に任ぜられていたからついに緒嗣に追いついたのである。 一方侍従・冬嗣は初出仕し、平城天皇不調を目の当たりにするのである。 伊予親王と母を死に追いやった平城は、父・桓武が弟の早良を死なせたのと同じ道を歩んでいた。 怨霊に取り憑かれた平城は、その年皇位を投げ出し賀美能親王が即位し、嵯峨天皇が誕生する。 冬嗣は右衛士督に、三守も内蔵助になり、冬嗣の義弟・良峯安世も従五位下に叙せられた。 平城太上天皇の病状はあいかわらずであるが、まだ天皇と同格の権限を持っており、薬子が尚侍として実権を握っている。 平城の体調が回復に向かうと、東宮を嫌い、住まいを変え奈良の都にもどりたいといい始めた。 こうして藤原仲成の手際よい準備もあって、平城は奈良に、嵯峨は平安京にという二重統治が行われようとしていた。 このときから今度は嵯峨天皇が体調を崩すと翌年は朝賀の儀も行われずじまいとなる。 奈良へ移った平城太上帝は日増しに体調を回復させると、薬子の勢いも増し、服毒死した伊予や吉子の祟りが平城から嵯峨天皇へ乗移ったかのようである。  嵯峨天皇の病める心はいよいよ暗く沈み、逆に奈良にもどった平城太上帝は元気になり、尚侍・薬子は権勢を振るい始めたのである。 側近の葛野麻呂や冬嗣の兄・真夏も奈良行きの中に加わっている。 嵯峨側にとってはやりにくいこと夥しく、薬子の術中にはまった感がある。 そして嵯峨がとった観察使の制度を廃し、もとの参議に戻すと、薬子の兄仲成とともに真夏は37歳にして参議となり、野望であった閣僚の仲間入りを果たした。 
薬子の自殺
 
 嵯峨側も尚侍・薬子に対抗して三守とともに思案を巡らし、典侍・小野石子を置き、東宮時代の嵯峨に春宮大夫として仕えていた巨勢野足を蔵人頭として冬嗣とともに典侍を支えようというのである。 しかし参議の多くは奈良の平城の許におり、嵯峨は弱気になり、奈良への遷都も承諾しかねない様子である。 冬嗣はこの危機を乗り越えようと、右大臣である父・内麻呂に申し出た。 奈良遷都が太上帝の意思であれば従うよりほかはなく、ついては奈良の整備のために手伝おうというのである。 つまり殴りこみである。 意を察した内麻呂は、征夷大将軍として聞こえ高い大納言・坂上田村麻呂を同道させようというのである。 坂上田村麻呂が動くということは紛れもなく軍事行動を意味する。 これに賛同したのは桓武に愛され異例の出世をしたために平城に憎まれていた藤原緒嗣である。 嵯峨側は厳戒令を敷いていた。 嵯峨の屈服という誘いに釣られて平安京に出向いていた仲成が、このことに気付いたときには時すでに遅く、平城側は坂上田村麻呂を大将とした軍師に取り囲まれていたのである。 平城側は田村麻呂と護衛兵の姿をみたとたんに戦意を喪失して、平城は剃髪し薬子は毒を仰いで自殺し、そして仲成は左遷に抵抗したため平安京で射殺されたのである。 冬嗣の兄・真夏は参議になったのも束の間で参議を解任された。 平城太上帝は平安京への帰還を断り、奈良の地にとどまる意思をみせたのである。 詔では、平城をかばうかのように薬子と仲成ふたりだけを悪者にしたが、それでも平城は薬子を愛していた。 妖婦とののしられようが二人の愛は本物であったようで、嵯峨が差し伸べた好意を平城が受け入れることはなかった。 そして冬嗣の兄・真夏も平安京にて才能を発揮しないかという弟の誘いを退けて、奈良で平城とともにする道を選んだのである。 桓武に半ば見捨てられ、愛に飢えて薬子に走ったさびしい平城の気持ちを真夏は理解していたからである。 真夏は安殿に仕え自分の運命を賭けたのである。 そして敗れた今は心静かについていくだけであった。 冬嗣が愛と敬意をこめて奈良へ見送った真夏が平安京をおとづれることは決してなかったという。 平城太上帝の後の半世では妃を退出させ、薬子の鎮魂に精を出し、また嵯峨天皇に気遣われながら平穏に過ごしたといいます。 そして824年に51歳の生涯を終えました。
 

第51代平城天皇楊梅陵は平城京跡のすぐ北隣にあります。(撮影:クロウ)

 

 

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藤原冬嗣 下

2006年12月19日 | 平安時代

嵯峨天皇との日々

 平城太上帝と嵯峨天皇の両統治は終焉を向かえ、平城は奈良で余生をおくることになった。 本来であれば、冬嗣の兄・真夏を含めて平城側の側近達は死罪を免れないところであるが、嵯峨天皇はそれを望まなかった。 桓武以来怨霊に怯える帝の姿を目の当たりにしてきた嵯峨にとって怨霊が怖いと素直に口にし、このときから死刑は行われなくなった。 結局保元の乱までの350年間死刑は停止され、王者としては失格ともいえる新しい時代が拓かれたのである。 薬子の事件が決着した2年後の812年に冬嗣の父・内麻呂がなくなり、その後平城と嵯峨の間は長く平和が保たれた。 嵯峨は現実の政治には介入せず、象徴としての存在の道を歩み始めた。 そして、嵯峨には生まれ持った文雅趣味の才覚があり、それを本業とした。 同じく文雅の趣味のあった良峯安世がよき側近として愛された。  嵯峨には皇太子時代の妃・高津内親王との間に業良親王がいたが、即位とともに夫人となった橘嘉智子に正良(後の仁明天皇)、正子(淳和天皇の后)が誕生したのは810年、薬子が死んだ年である。

 翌年、坂上田村麻呂が死に、母を田村麻呂の妹に持つ高津内親王は大きな後ろ盾をなくした。 その翌年、冬嗣の父・内麻呂(田村麻呂の妹・登子を妻とし後半世を暮らす)が亡くなり、冬嗣は 高津内親王に圧力をかけるようになると高津内親王が妃の座を退いたのはこのときである。 これにより嘉智子の心配の種はとれることになる。 814年、嵯峨は冬嗣を従三位に昇進させ、妻・美都子も従五位下に叙した。 平城太上帝に仕える真夏は正四位下であるから、とうとう兄を追い抜いたことになる。 冬嗣は819年、平城により謀反の罪で陥れられた伊予と吉子に親王、夫人の称号を与え、これにより怨念の世紀は終焉を迎えた。 このときには薬子の夫だった藤原縄主、平城の側近だった葛野麻呂、藤原三守の妻・典侍・安万子も他界している。

 嵯峨は風雅の道を進みたいとの理由で皇太子・大伴親王に譲位し、後に冷然院から嵯峨の離宮に移っている。 大伴親王が淳和天皇として即位すると嵯峨と皇后・嘉智子の間に生まれた正良が皇太子となった。後の仁明天皇であり、女御となったのは冬嗣と美都子の間に生まれた順子であり道康(後の文徳天皇)を産んでいる。 また冬嗣の子、良房が妻に迎えたのは嵯峨の皇女で臣籍に下った源潔姫である。 こうして冬嗣は天皇家と解け合い、左大臣まで登りつめ、政権を握り続けた。 このとき緒嗣は右大臣になっている。 嵯峨が譲位してまもなく、薬子の変の15年後に奈良の平城はこの世を去り、そしてとうとう嵯峨天皇とともに政権を握り続けた藤原冬嗣もこの世を去った。 このとき奈良朝から桓武、平城と続いた怨念と殺戮の時代は完全に終止符がうたれ、穏やかな世がうまれつつあったのである。

 

京都の嵯峨の小高い山の中腹に嵯峨天皇陵はあります。 そこからは、嵯峨天皇が文雅に親しみ世の平穏を願って暮らした大覚寺を望むことが出来ます。 藤原冬嗣が死の間際に、嵯峨帝、良峯安世に看取られながら思い浮かべたのは、この河陽の離宮であった。

 

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寛弘の四納言・行成

2006年12月10日 | 平安時代

寛弘の四納言・行成

 寛弘とは、一条天皇が即位した年の年号である。 つまり寛弘の四納言とは一条天皇の時代に天皇の信頼を得て活躍した4人の公卿のことをいい、それは藤原公任・行成・斉信・俊賢だったといいます。 公任は藤原小野宮家が排出した実頼の孫にあたり、行成は藤原九条家の師輔の孫・義孝を親とし、また斉信は同じく師輔の子・為光の子にあたります。 そして俊賢は源高明の子で明子の兄にあたります。 藤原実資とともに一条天皇代の九卿として優秀であり、いずれも蔵人頭を務めたのです。 

 藤原実資の蔵人頭の後任として藤原公任が務め、その後任が源俊賢、さらにその後任に藤原行成と藤原斉信が選ばれました。 行成は俊賢の熱心な推挙により蔵人頭に抜擢されると、翌996年には権左中弁に任ぜられ頭弁となった。 1001年に参議となったあとも弁官を13年務めたとある。

 蔵人所というのは嵯峨天皇時代におかれた天皇の秘書局のようなものであり、検非違使とも同じで正式の官とは異なるが、大変な激務で参議に昇進する前段階の一つであり、中将を兼ねると頭中将となる。 正式な官と異なるというのは天皇が譲位すると蔵人も辞すこととなるのである。 つまり天皇が東宮時代の東宮蔵人などが蔵人となることが多い。藤原実資が三代の蔵人を務めたのは希な例であり、各天皇の信頼が厚かったといえる。 蔵人の主要任務は天皇と摂関・大臣とを往復するメッセンジャーである。 蔵人頭は普通弁官と中将の二人で構成され、太政官との取次ぎには頭弁が役に立つが、頭中将のほうが毛並みがよい場合が多い。 蔵人頭は天皇から相談役として信頼される場合が多く、藤原実資は円融天皇譲位後も円融上皇の院別当となり、堀河院に参入し、円融の子・一条天皇の後見も頼まれた。 一条天皇の信頼が極めて厚かったのが行成で、道長の信頼も厚かった。 998年、道長が重病に悩んだときは年来の出家の意思を天皇に奏上する役回りを行成が行ったともいう。

 行成は実務官僚としてだけではなく、書の道でも傑出した才能を見せており、小野道風、藤原佐理とともに三蹟といわれた。 平安初期の空海・嵯峨天皇・橘逸勢といった三筆が唐文化の書風に影響を受けたのに比べて三蹟は唐の文化を日本的に吸収し、和洋書道を完成させたといえる。 三筆から150年ほど遅れて小野道風が和洋化を開き、佐理を経て、行成が完成させた。 その優雅さを秘めた均整のとれた美を伴った。

                  婉子972-998(為平親王娘,花山女御) 
                   ┣資平(養子)かぐや姫   
                 ┏実資サネスケ957-1046(小右記)実頼三男・斉敏四男 
                  ┣頼忠924-989┳公任966-1041 
                  ┃      ┗遵子957-1017(円融妃)
                 ┣敦敏912-947┳佐理944-998 (懐妊中死亡)
            (小野宮殿)┃      ┗為光妻    藤原忯子-985
              ┏  時平┏実頼  ━╋斉敏928-973━懐平 63冷泉帝 ┣
良房┳基経 ━╋ 仲平┃(九条殿) ┗述子933-947(村上女御)┣65花山帝(師貞親王)
  ┃    ┣ 忠平╋師輔  ━┳ 伊尹    (一条殿)┳懐子 清少納言  
  ┃    ┃ -949┗師尹     ┣ 為光942-992   ┣挙賢 ┃
  ┃    ┃     ┣芳子   ┃ (母:雅子内親王)┣義孝━行成
  ┃    ┃     ┃(村上妃┃    ┣誠信964-1001┣義懐ヨシチカ
  ┃    ┃     ┃    ┃  ┣斉信967-1035┣済時┳娍子(三条妃)
  ┃    ┃     ┗済時  ┃  ┗忯子(花山妃)┃  ┃
  ┃    ┃      ┗清子┃  (堀川殿)   恵子女王 ┗為任,通任
  ┃    ┃     (三条妃)┣ 兼通925-977┳顕光┳元子(一条帝女御)┓
  ┃       ┃         ┃            ┗朝光┗延子(敦明女御)  ┃
  ┃    ┃         ┣ 公季957-1029━義子(一条帝女御),実成┃
  ┃    ┃         ┃ (母:康子内親王)           ┃
  ┗明子  ┣ 温子(59宇多后)┣ 兼家929-990(東三条殿)  ━━━┓   ┃
   ┣56清和┃         ┣ 安子927-964          ┃   ┃
   55文徳帝┗ 穏子    盛子-943 ┣憲平親王(冷泉帝63代967年) ┃   ┃
          ┃         ┣守平親王(円融帝64代969年) ┃   ┃
     淑姫   ┣寛明親王(61朱雀帝)┣為平親王(安和の変で失脚)  ┃   ┃
      ┣源兼明┃         ┣姫宮 ┣    頼定      ┃   ┛
         ┃16皇子┣成明親王(62村上帝)-967 高明娘保子┣ ?      ┃
    60醍醐天皇885-930             ┃          ┃          ┃
      ┣源高明914-983(第十皇子)  ┣広平親王     綏子(すいし) ┃
      ┣雅子内親王(斎宮,師輔室) 祐姫                       ┃
          源周子               藤原元方┛南家の学者               ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛    
┃ 伊予守藤原守仁娘 

┃   ┣道頼971-995(兼家養子)
┃    ┃          藤原為光娘(忯子の妹)花山法皇狙撃事件
┗┳ 道隆(中関白家)       ┣    
 ┃  ┣━╋ 伊周     ┳道雅(三条帝娘・当子内親王と恋愛)
 ┃高階貴子┃979-1044  ┣大姫
 ┃ 光子 ┣ 隆家   ┗小姫 
 ┃ (妹) ┣ 御匣殿(定子亡き後、養母として入内) 
 ┃    ┣ 三の姫(敦道親王師ノ宮の妻) 
 ┃    ┣ 原子姫(居貞親王女御) 
 ┃961-995 ┗ 定子977-1000  
 ┣ 道兼┳兼綱 ┣脩子内親王   996-1049
 ┃      ┣兼隆  ┣敦康親王    999-1018
 ┃   ┗尊子 ┃ ┗よし子内親王1000-1008
 ┃984-1022  ┃ ┃
 ┃    66一条帝980-1011    
 ┃        ┣
 ┃   公季━義子974-1053
 *1   顕光━元子979-?
師輔三女934-962  
 ┣俊賢959-1027                   ┣兼頼
 ┣保子                       ┣俊家    
左大臣源高明914-983(西宮殿)969安和の変で流罪,972特赦 ┣能長 
 ┣源明子(高松殿:乳母は加賀、侍女は音羽)966-1049  ┣延子
 ┃  ┣ 頼宗993-1065巖君(側室は伊周の一の姫)堀河右大臣
愛子941-┣ 顕信994-1027苔君(叡山に出家) 
師輔四女┣ 能信995-1065信君(中宮妍子の権亮 威子の権大夫)
    ┣ 寛子999-1025(敦明親王女御)         ┣能長(養子)
    ┣ 長家1005-1064長君(倫子の養子)        ┣茂子(公成娘・養子)
    ┣ 尊子1007-1084(源師房の妻)                  実成娘
       ┃具平親王(村上天皇皇子)           公成     
       ┃         ┣ 隆姫女王995-1087
    ┃荘子女王(醍醐天皇皇子娘)┣x
 *1 966-1027 992-1074(平等院鳳凰堂を造る 源重信の旧領)    
 ┣ 道長━┳ 頼通━┳ 師実━━ 師通━━ 忠実━┳ 忠通
      ┃ ┃ 宇治殿 ┗ 寛子(後冷泉后)     ┗ 頼長
   源倫子┣ 教通(996-1075 和泉式部娘・小式部を妾とする。本妻は公任・娘)                            
  (鷹司殿)       ┣ 歓子(1021-1102後冷泉后)                              
             ┣ 真子(後冷泉女御)                              
             ┗ 生子(1014-1068後朱雀女御)   

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藤原公任

2006年12月10日 | 平安時代

藤原公任

  藤原公任といえば、藤原小野宮系・実頼の孫で摂関期を代表する文化人であり、清少納言や紫式部も一目置いていたという。 藤原公任の才能を示す逸話で有名なのが三舟の才の故事であろう。 藤原道長が大井川で舟遊びをしていたとき、漢詩の舟・管弦の舟・和歌の舟を作り、その道に堪能な人を乗せて競演させた。 藤原公任はいずれにも秀でていたのでいずれの舟に乗るか注目を集めたが、結局和歌の舟に乗り見事な和歌を詠んだという。 当時漢詩が公的に格が上であったことから、漢詩の舟にのればもっと名声をあげることが出来ただろうという思い上がりに後悔したという逸話である。

 藤原公任は冷泉天皇即位の前年966年に生まれた。 祖父・実頼はその年摂政太政大臣になている。 父・頼忠は実頼の次男で、小野宮系の後継ぎとなり円融・花山天皇2代に渡って関白太政大臣を務めた。 藤原公任は頼忠の嫡男として20歳で公卿という典型的な出世コースを辿ったが、花山天皇が退位し、一条天皇即位とともに政権は小野宮系から九条系に移ったため出世のスピードは落ちるが、989年蔵人頭となり、992年には参議、1009年には権大納言となり1024年、59歳で亡くなった

 藤原兼家は藤原公任が万事に優れているのを見て「わが子は藤原公任の影すら踏めない」と嘆いたときに、道長は「影ではなく顔を踏んでやる」と言い放ったのは有名である。 後に藤原公任は道長に従うことにより寛弘の四納言として活躍したのである。  藤原公任が好敵手としたのが太政大臣・為光の次男・斉信タダノブである。 1004年斉信が従二位に除せられ藤原公任を追い抜いたときには公任はしばらくショックで出仕しなかったという。 

 藤原公任が最も得意としたのは和歌で多くの歌論書を表し、三十六歌仙を選んだのは藤原公任である。 一条天皇の時代に作られた拾遺和歌集は藤原公任と花山天皇の合作である。 芸術に優れ、和歌を愛した花山天皇は歌壇を形成し、退位の直前の986年には内裏歌合を開催し、そのときの講師を藤原公任が務めている。

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藤原実資

2006年12月03日 | 平安時代

藤原実資

 藤原道長を語るときに欠かせないエリート文化人が藤原実資といえるでしょう。 摂関家を中心とする名門貴族が辿った出世コースを藤原実資も歩みました。 参議になるまでの一般的な官暦は侍従→兵衛佐→近衛少将→近衛中将→参議です。 もっとも道長や頼通のような摂関家の嫡流の場合は超エリートコースを辿りますので、かなり違いますが・・。 藤原実資は実頼の子・斉敏の四男として957年に生まれた後、実頼の養子となります。 969年に侍従に任ぜられ971年右兵衛佐、973年右近衛少将となり、981年に円融天皇の蔵人頭となります。 983年佐中将となると花山天皇即位のときに再び蔵人頭となり、一条天皇即位後の987年に三度目の蔵人頭となっています。 そして989年33歳のときに参議となりました。 90歳で没するまでは、1001年から42年にわたって右近衛大将の任にあり、後一条天皇の1021年には右大臣に上っています。

 近衛府は天皇に最も近い武力で、9世紀までは警護などで軍事力として大きな意味をもったが10世紀以降は儀礼の整備のなかで華麗な役割を担うようになった。 頼通は元服の翌年1005年に右少将として春日祭使となり枇杷殿での出立の儀を行い、 また弟の教通も1008年十二歳の時に同役目をこなして摂関家嫡流のデビューを果たています。 藤原実資はこのような近衛府の長官を42年務めたのです。 しかし90歳の年で務めるのは尋常ではなく、かなりの批判があったことを藤原実資の養孫・資房が指摘しています。 

 1021年5月に左大臣顕光が没したため後任を埋めるために右大臣・公季を太政大臣に、関白内大臣頼通を関白左大臣に、大納言・藤原実資を右大臣という人事がとられました。 この時無能な道綱は没しており道長を悩ますことはなく、藤原実資は右大臣に収まったといえます。 道長への批判も多かった実資であるが、このときは思いもよらない人事に感謝したようで、大はしゃぎであったようです。 賀茂祭での政務能力にくわえて小野宮流直系にたいして道長が一目を置いていたことの証ともいえます。 小野宮系の顕光と公季は左大臣道長の下で、大臣の席にあったが出来は悪く、道長の信頼は得ていなかったようです。 公季は師輔と醍醐皇女・康子内親王の子、顕光は関白太政大臣兼通の長男で、申し分のない家柄であるが、特に顕光は道長よりも20歳以上年上でどうしようもない無能さに手を焼いていたといいます。 そういう状況であっただけに藤原実資の右大臣登用には大きな期待がかけられたのです。

 もちろん藤原実資は実質上の筆頭大臣であり、就任後の大儀は官奏であった。 官奏というのは一上、大臣が天皇の御前において申文や諸問題の決済をうける儀式をいいます。  1021年、後一条天皇即位後初めての大役がまわってきたとき春日社と興福寺に祈り、当日も清水寺に参るという念のいれようであったのです。 当日、陣座にて申文を行い関白のところへ持参して内覧をもらい、奏文が戻ると清涼殿にいる天皇の御前にあがり、天皇が内容を読み、返されると裁許を得て結ぶ。 藤原実資は文書を持って退下すると陣座にもどり官奏の儀は無事終了となります。 またこの後も立て続けに官奏を行い、道長からは公事に精通していた源雅信のように立派であると高い評価を得ています。 

 藤原実資は「小右記」という詳細な日記を残したことから公卿になってからの官暦の実態を知ることができるのですが、 この頃多くの公卿により残された日記は現代の日記の意味合いとは異なり、その家柄・家風を日記という形で子孫に残すことを目的とし、儀礼を完成させ、また子孫はそれらを模倣して教命を伝授しようとしたのです。 したがって完成すれば日記の記載はやめることになるのですが、たいていは引退と時期を同じくしたようです。

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院号・陽名門院の由来

2006年12月03日 | 平安時代

禎子内親王の陽名門院の由来

 皇后様が出家して女院となる場合に、どのように院号を定めるのかについてちょっと一言。年号の制定と同じく院号の制定も公卿の大事な仕事のひとつでした。 参議も含めた公卿によって陣座という所(京都御所で見ることが出来ます)で重要な会議はおこなわれるようになったのですが、いつからかは不明で10世紀中頃には確立されていたようです。 院号ですが、その始まりは皇太后・藤原詮子(円融帝の皇后で一条天皇の母)が最初で左大臣・源雅信(道長の妻・倫子の父)以下の公卿が詮議した結果、東三条院となりました。 所領を以って院号となし、つまり住居・東三条殿から命名されたわけです。 次の一条天皇皇后・彰子の場合は上東門院ですが、道長の住居・土御門第の別名・上東門第から由来しています。

 禎子内親王(三条天皇の第三皇女で母は道長の娘・妍子。後三条天皇の母)の場合も同様に門号を用いて、公卿の議定を経て陽名門院と定められました。 禎子内親王の御在所は能長(道長の高松系息子で鷹司系の養子となった)邸である二条院であったのですが、その後東三条第、三条東洞院第、三条万里小路第などを転々としており、およそ定まった御在所は無かったのです。 (参議・右大弁・源)経信、(参議・右近衛中将・藤原)宗俊、(参議・藤原)能季、(権中納言・藤原)祐家、余(私、権中納言・源俊房)、(権中納言・宮内卿・源)経長らは、「只今定まった御在所が無いので、先ず其の場所を定め院号としてどうか」。すると権大納言・藤原能長は、「枇杷殿が元の御領所であるので枇杷院とするかまた、この場所は陽明門大路に面しているから、陽明門院とするか」どちらかだな・・・。

 良基、資仲、顕房、忠家、俊家、信長、右大臣(師実)は、枇杷院とし、 経信、宗俊、能季、経季、祐家、経長、能長等は、陽明門院を薦めた。此の結果帝に奏聞したところ、「陽明門院と申すべし」となったのである。

 因みに、枇杷殿とは平安前期、藤原基経の営んだ邸宅で、その後、枇杷大臣と称された基経の息子仲平が住んだ。「江談抄」に「仲平左大臣富饒人他、枇杷殿一町内、四分之一立柱屋、残皆立倉庫、珍宝玩好不可勝計」とあり、一町の四分の一が屋舎で、残りの地は珍宝を満たした倉庫が建ち並んでいたという。 その後藤原道長の伝領、一条・三条両天皇の里内裏ともなったのである。

 後の院政時代、待賢門院、美福門院なども有名な院号であります。

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藤原能信と禎子内親王

2006年12月01日 | 平安時代

藤原道長の息子・藤原能信と陽明門院・禎子内親王

藤原道長の子

 藤原能信は藤原道長と源明子の三男で中宮妍子、威子に仕え明子所生の中で後の世に影響を与えた人物である。 道長には鷹司殿といわれた妻・倫子と高松殿といわれた明子がいる。そして両妻はそれぞれ6人の子供を産んだ。鷹司系の倫子には一条天皇妃となった彰子をはじめ道長政権を継ぐ頼通、教通、三条天皇妃・妍子、後一条天皇妃(彰子の長男)・威子、後朱雀天皇妃(彰子の次男)・嬉子がいた。道長が「この世をば・・・」と詠んだことに象徴されるように輝かしい限りである。 そして高松殿とよばれた源高明の娘・明子にも鷹司系とほとんど同じような年頃の子供6人がいた。

高松系

 順に、頼宗、顕信、能信、寛子、長家、尊子である。道長が糖尿病に苦しみ1027年に亡くなった時、それぞれ34歳、33歳、32歳、寛子は死亡、22歳、20歳であるが、鷹司系とは比べ物にならないほどに格差は歴然としていた。明子はひときわ目立った美人であった(そこに道長は惚れこんだのであるが・・)が倫子に比べて正確はおっとりした女性であり、醍醐天皇の第8皇子の源高明の娘という申し分のない血統ではあるが、安和の変で高明は失脚したため、その影響が如実にでたと言わざるを得ない。 頼宗は極度の近眼ということもあり、嘲笑されることもしばしばあり、鷹司系・頼通に服従の意を向けている。 顕信は早くに出家して叡山で15年の修行を行うが全ての欲を捨て、34歳・道長が亡くなる少し前に他界した。寛子は母に似て大変な美人で、三条天皇の嫡男・敦明親王女御となった。敦明親王の立皇太子を約束して亡くなった三条天皇の嫡男であるが道長の牽制は鋭く、敦明親王は皇太子の座を途中で降りている。しかも敦明親王の妃・延子(藤原顕光娘)の祟りからか、子供を幼くして亡くした寛子は心労から25歳の若さで亡くなった。長家は鷹司系の養子となり、末娘の尊子は源師房の妻となった。師房はいい人であったが官位は低く鷹司系の娘が天皇妃となったことを考えると、段違いである。これは尊子の器量が悪かったことのみが原因ではなさそうである。 そして、三男・能信は中宮妍子の権亮 威子の権大夫を経て、道長亡き今、なにかを考えているようである。

能信が仕えた妍子と道長の死

 姉の彰子が器用に男児を立て続けに産み栄光の母后として振舞う陰で、妍子は皇子を産むことができず、打ちひしがれて32歳の若さで亡くなった。しかし、その忘れ形見・禎子内親王も今や14歳の東宮妃である。もしも妍子が禎子内親王のこのような未来に賭けていたなら別の人生が待っていただろうに・・。そんな時、道長の様態は急変し手当ての甲斐も無く亡くなった。1027年12月4日62歳であった。

禎子内親王陵(撮影:クロウ)

 とたんに能信の周囲は奇妙な活気が満ち、続々と詰め掛ける弔問客に多忙を極めたが、何故か能信は大きな呪縛から解き放たれたような開放感を味わっていた。父・道長のおかげで数々の恩恵を被ったのは事実であるが、息苦しいまでの抑圧感もあったのである。鷹司系の繁栄ぶりにくらべて、自分達高松系の子供は常に遅れ、対立する相手との比較感に悩まされていたのである。道長亡き後、後ろ盾をなくした頼通・教通の不安は能信よりも大きいはずである。

能信の異母妹・威子

 服喪を終えて宮中入りした威子が懐妊した。後一条中宮の威子は去年、章子内親王を産んでおり、次は男児が期待されるだけに周囲は俄かに活気を帯びてきた。出産のとき威子は全身白の衣裳に着替え白い御帳台にはいる。 中納言兼隆の邸に詰めたきりの威子の権大夫である能信も準備に余念がない。そしていよいよ威子の息づかいも荒くなり、元気のいい産声があがったが生まれたのは皇女であった。周りの雰囲気は当然翳りが漂うのであるが、能信の気持ちは微妙である。 鷹司系の威子に皇子が誕生すれば能信たち高松系には権力の座は確実に廻ってこない。 しかし道長亡き後、威子が産み落とす子が皇女であり、強運の鷹司系に翳りが出始めたことになるからである。

禎子内親王の懐妊

 威子の出産騒ぎが一段落すると今度は禎子内親王が懐妊したのである。禎子内親王は鷹司系・妍子の所生であるが、妍子亡き後は宮中で孤立している。東宮妃になれたのは能信の働きかけのおかげでもある。しかし影の薄い彼女の出産に対して宮中は冷淡であった。結局、母妍子に仕えて皇太后宮大夫をつとめた藤原道方の四条坊門邸に禎子内親王を迎えることとなる。彼女の身の回りの世話は実資の息子・資平である。禎子内親王の場合は妍子と違って道長とはそりが合わなかった三条帝を父とするので、もしも男児出産となると流れは多少変わるはずである。ところが暮れの12月に生まれたのは皇女であった。妍子といい、禎子といい不運から抜けきることが出来ないのは何故なのか。 禎子が良子内親王を産んだ3年後に生まれたのは又しても皇女であった。

 この頃38歳の能信にはまだ子供がなく、兄頼宗の三男能長を養子に貰い受けている。そのうち禎子は3度目の懐妊となった。誰もがまた皇女であろうと思っていたが、難産の末に生まれたのは皇子であった。現帝後一条天皇の後は東宮・敦良、嬉子の忘れ形見・親仁親王、そして禎子内親王の産んだ尊仁親王と続くことになった。 すると対抗心を燃やし始めたのは威子である。後一条が後宮を拒み威子が帝を独占すれば願いは叶うかもしれないが、男児が生まれるとは限らないのを覚悟でのことである。もしも男児が生まれれば、その子の順位は禎子の尊仁親王を抜くことになるのは間違いない。執念が実ったのか威子は間もなく懐妊したのであるが流産してしまった。 二人の子供が女児であっただけに今回の流産には威子も半ば自暴自棄ぎみとなり、翌年威子は二度と皇子を産めなくなってしまった。 1036年、後一条天皇が29歳の若さで急死してしまったからである。そして不幸は立て続けに起こる。故後一条の大掛かりな法要が終わった頃、夫の後を追うようにして威子が38歳で急死したのである。威子の権大夫を務めていた能信はその肩書きを外すこととなった。

 1036年の11月、新帝・後朱雀の誕生である。このとき、伊勢の斎宮には禎子内親王の子・良子が、賀茂の斎院には娟子ケンシが選ばれている。そして内親王の称号が与えられ、新帝に一番身近な存在として身分が確定した。不運な妍子の皇女として頼りなげに育った禎子内親王は立后の儀が内定し、ここに花開いたといっていい。

後朱雀天皇陵

嫄子女王の入内

 この頃、藤原頼通は新帝後朱雀天皇のまわりでなにやら画策を巡らせていた。 子供に恵まれない頼通は妻・隆姫(具平親王の娘)の妹を敦康親王の妻としている。 今はなき敦康親王は一条天皇と定子との間にうまれた悲劇の皇子である。敦康親王と頼通の妻はお互い姉妹ということもあり親しくしていた。敦康親王には嫄子女王という姫がおり、頼通はこのお方を養女に向かえ、後朱雀天皇の妃として考えていたのである。頼通夫婦が嫄子女王の後見をすることにより、弟・教通を牽制できるからである。 この入内と頼通の後見は、禎子内親王の中宮大夫となった能信にとっては強敵ではあるが、禎子内親王は後朱雀との間にすでに尊仁親王をもうけているから優位な立場には違いない。

 翌年、嫄子の入内が行われ、禎子の立后の儀も行われ、能信は皇后宮大夫に任命された。女御・嫄子がいずれは立后することを考えれば、関白・頼通と能信が対立するのは明らかであるが、その勝負も明らかであることは禎子もわかっているようである。それよりも禎子にとっては嫄子が中宮になることによって皇后に押し上げられることが気に入らない。一条帝に彰子が中宮として入内したとき、定子は皇后となったが没落の翳を深めた。皇后と中宮は同格とはいえ実際には中宮のほうがより輝かしい存在なのである。そして禎子は内裏入りを拒み、堀河殿を出て閑院に戻ることとなった。一方嫄子は入内して二人の内親王・祐子と禖子を生んだが男児には恵まれず、二年後に二人目の皇女を産んで間もなくこの世を去った。後朱雀を独り占めにした嫄子であったが、禎子の強運が嫄子を圧倒したのであろうか。

 亡き嬉子と後朱雀天皇との間に生まれた親仁親王が東宮であるが、それ以外の男御子は尊仁、つまり5歳になる禎子の皇子しかおらず、禎子はこの幼児の前途にはっきりとした眼差しを向け始めた。頼通が望みをかけた養女・嫄子が若死にするとまもなく動き始めたのは頼通の弟・教通である。娘の生子を後朱雀の妃にと名乗りを上げたのである。しかも嫄子がなくなって半年も経たないうちに生子を入内させてしまったから頼通、教通の対立はいよいよはっきりとしてきた。禎子皇后の大夫である能信としては頼通に、生子の入内を阻止してもらいたいところであったが、後朱雀は頼通とは性が合わず教通に傾いていたのである。 能信から報告を受けた禎子は驚くほど平静で怯む気配はなかった。 

尊仁親王 謁見の儀

 1040年、閑院の禎子の許で育った尊仁親王は7歳となり謁見の儀の頃である。 当時皇子は母の許で育ち、父帝とは離れているがある年になると内裏に参入して正式に対面する謁見の儀が催されるのである。ところが内裏は教通の二条邸であり、娘の新女御生子は後朱雀帝の後宮を独占して華やかに暮らしていた。 そこへ尊仁が儀のために乗り込むのは能信としては躊躇われるところである。ところが、この時大地震が起こり火災に続く縁起の悪さを払拭するために長久元年と改元された。また、女御・生子の弟・通基が20歳で亡くなったおかげで喪に服した生子は内裏を退出することとなり、禎子と尊仁は楽に内裏参入が可能となった。無事に謁見を済ませると晴れて尊仁は後朱雀の皇子としての存在を公的に認められたのである。このとき能信の兄頼宗が顔をみせなかった理由が後でわかったのであるが、頼宗の娘・延子が入内したのである。頼通と通じている頼宗の娘が入内するというのは明らかに娘がいない関白頼通の身代わりといえる。

頼宗の娘延子、教通の娘真子の入内

 延子は能信の兄・頼宗の娘ではあるが、関白頼通の息がかかっているから、男児を産めば翳の薄い禎子の尊仁親王の立場は飛んでしまう。この入内を追いかけるように教通の娘真子が後朱雀に入内した。生子に懐妊の兆しがないためである。かくして後朱雀の後宮は内大臣教通の娘・生子、真子や権大納言頼宗の娘延子が煌びやかに並ぶこととなり人々の目は露骨な闘争を秘めた後宮に集中したのである。禎子と後朱雀は益々隔てられ関心は薄れていった。 ところが入内争いも内裏の火事で長続きはせず、帝王の不徳の致すところということで気落ちした後朱雀は体調を崩した。 この時能信は、頼通に気兼ねをする後朱雀に、次期皇太子は尊仁であることの確約を取り付けると、翌日後朱雀はこの世を去ったのである。間一発で能信の離れ業が成功したことになった。

東宮・尊仁と茂子

 後朱雀と嬉子が産んだ親仁親王が22歳で後冷泉天皇として即位したあと、東宮・尊仁は元服の日に備えて内裏の昭陽舎にはいった。いよいよ三条天皇の不運の后・妍子系の皇子は皇位に近づいた。皇子を産み損ねた妍子が悲嘆に暮れた日から側近にあった能信は苦難の日々を見続けてきたのであるが、この皇太子の後見は能信しかいない。左大臣頼通と内大臣教通がついている後冷泉とは大違いである。元服にはいった尊仁には添臥の女性が臥床につくのがしきたりであるが、候補者がいないことでもわかるように東宮尊仁の不人気をそのまま反映している。 頼通には正妻・隆子姫との間に娘はいなかったが、縁者に娘・寛子を産ませており、後冷泉に入内させる予定である。添臥の姫君に困っていたところ、尊仁にとって幼馴染である能信の娘・茂子という名を東宮から聞くこととなる。 茂子は能信の妻の弟・公成の子を能信が養子にしていた娘である。公成は権中納言までいったものの3年前に他界していた。東宮の妃としてはあまりに釣り合いがとれないが、茂子は滋野井御憩所として入内が決まった。能信の妻は後々東宮が新しい妃を迎え入れた場合に身分に差がある茂子の運命を考え不本意ではあったが運命であろう。

後冷泉天皇陵

後冷泉天皇への入内

 滋野井御憩所の入内の儀が終わると人々の関心は一気に薄れ、後冷泉入内合戦が始まった。もともと入内していた章子内親王は中宮となったが子供に恵まれず、教通は美貌で絵師の才も持つ娘・歓子を26歳で入内させると、次は頼通が12歳の娘・寛子を入内させ翌年女御となった。

強運な茂子

 茂子は相変わらず御憩所である。歓子や寛子は男児を出産すればたちどころに尊仁皇太子の立場が逆転する可能性があるのは延子の身分の低さによる。案の定歓子が懐妊し、翌年皇子を出産したが死産であった。その頃、茂子もひっそりと懐妊すると寛子は中宮となり章子は皇后となった。子を失った歓子は行き場がなく女御のまま止まっている。そして茂子は無事に女児を生むと聡子と名付けられた。また3年後に茂子は男児・貞仁をひっそりと出産する。この間に尊仁東宮は章子内親王の妹・馨子ケイシ内親王を迎えている。もともと身分の低い茂子には後宮での争い事は他人事という気楽さがあったためか、その後も俊子・佳子・篤子と立て続けに女児を産んだ。一方寛子は一向に懐妊しないし馨子ケイシ内親王は二人の皇子、皇女を産んだが早死にさせている。ここにくると不運な威子、禎子内親王、尊仁を引き受けた能信には唯一東宮尊仁が残り、道長の鷹司系の頼通、教通側には誰一人として皇子を産んだ妃がいないのである。そして次第に頼通も教通も東宮尊仁を認めざるを得ない状況になってくると、能信という存在が目立ち始めてきた。この時能信は59歳であったが29歳から30年間 権大納言のままであった。しかし、道長の鷹司系が枯れて高松系が今になって実を結ぼうとしているのも事実である。事態はここで急変する。 茂子が篤子内親王を産んだ2年後の1062年、あっけなくこの世を去った。能信、そして妻は悲嘆にくれたが、茂子が自分の運以上のものを残して旅立ったことに対する祝福の涙であったのかもしれない。

高松系・藤原能信の最期

 すでに能信は68歳、その3年後に能信もこの世を去った。しかしその4年後の1068年に後冷泉天皇は死去し、能信が望みをかけていた尊仁がとうとう後三条天皇として即位した。 そして、母后・禎子は陽明門院として後三条の背後で勢力を持ち、頼通、教通の政治を牽制したという。そして茂子が残した貞仁親王は後に白河天皇として即位し、摂関政治は薄れていった。いうまでもなく高松系の能信の功績は大きく、白河天皇は後に「大夫どの」と敬意をこめて伝えたという。

後三条天皇陵

 

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禎子内親王系図

2006年12月01日 | 平安時代
師輔三女934-962  
 ┣俊賢959-1027                   ┣兼頼
 ┣保子                       ┣俊家    
左大臣源高明914-983(西宮殿)969安和の変で流罪,972特赦 ┣能長 
 ┣源明子(高松殿:乳母は加賀、侍女は音羽)966-1049  ┣延子
 ┃  ┣ 頼宗993-1065巖君(側室は伊周の一の姫)堀河右大臣
愛子941-┣ 顕信994-1027苔君(叡山に出家) 
師輔四女┣ 能信995-1065信君(中宮妍子の権亮 威子の権大夫)
    ┣ 寛子999-1025(敦明親王女御)         ┣能長(養子)
    ┣ 長家1005-1064長君(倫子の養子)        ┣茂子(公成娘・養子)
    ┣ 尊子1007-1084(源師房の妻)                  実成娘
       ┃具平親王(村上天皇皇子)           公成     
       ┃         ┣ 隆姫女王995-1087
    ┃荘子女王(醍醐天皇皇子娘)┣x
 *1 966-1027 992-1074(平等院鳳凰堂を造る)    
 ┣ 
道長━┳ 頼通━┳ 師実━━ 師通━━ 忠実━┳ 忠通
 ┃    ┃ ┃ 宇治殿 ┗ 寛子(後冷泉后)     ┗ 頼長

 ┃ 源倫子┣ 教通(996-1075 和泉式部娘・小式部を妾とする。本妻は公任・娘)                            
 ┃(鷹司殿)┃      ┣ 歓子(1021-1102後冷泉后)                              
 ┃    ┃      ┣ 真子(後冷泉女御)                              
 
┃    ┃      ┗ 生子(1014-1068後朱雀女御)                              
 ┃    ┃              ┃延子(藤原頼宗娘)                              
 ┃    ┃              ┃ ┃嫄子(敦康親王娘)1016-1039                           
 
┃    ┣ 彰子988-1074上東門院 ┃ ┃┣祐子,禖子内親王           

 ┃    ┃ ┣敦良親王(69代後朱雀)1009-1045━┳良子、娟子内親王(斎院)
 ┃    ┃ ┣敦成親王(68代後一条)1008-1036┓┣尊仁親王(71三条帝)
 ┣ 道綱 ┃ 66代一条帝980-1011       ┃┃┃ ┣貞仁72白川帝1053-1129   
 ┣ 道義 ┃                          ┃┃┃ ┣篤子内親王(斎院)1060-1114
 ┃    ┃ 67代三条帝976-1017         ┃┃┃ 藤原公成娘・茂子-1162
  ┃974-1004┃ ┣禎子内親王1013-1094陽明門院  ┃┛┣皇子、皇女死亡
 ┃    ┃ ┃               ┣馨子内親王1029-1093 
 ┣ 綏子 ┣ 妍子994-1027          ┣章子内親王1026-1105 

 ┃  ┃ ┣ 威子998-1036         ━━━━━┛ ┃藤原教通娘・歓子1021-1102 
 ┃  ┃ ┗ 嬉子1007-1025(産後死去,後冷泉母)┃ ┣ 死産                

 ┃  ┃        ┣親仁親王70代後冷泉(紫式部部娘賢子が乳母)  
  ┃  ┗━━━━┓69代後朱雀                ┣ -        
 ┃954-982       ┃藤原済時娘セイシ・972-1025        藤原頼通娘・寛子1036-1127
 ┣ 超子(ゆきこ)┃ ┣敦明親王994-1051小一条院

 ┃  ┃    ┃ ┃ ┣
 ┃  ┃    ┃ ┃延子(顕光娘、一条帝女御元子の妹)
 ┃  ┃    ┃ ┣敦儀、敦平、師明親王、当子、子内親王
 ┃  ┣居貞親王67代三条帝976-1017 
 ┃  ┃      ┣ 
 ┃  ┃     道隆次女・原子  
 ┃  ┣為尊親王977-1002(弾正ノ宮:和泉式部を寵愛)
 ┃  ┃  ┣
 ┃  ┃  九ノ御方(伊尹娘)
 ┃  ┣敦道親王981-1007(師ノ宮:和泉式部を寵愛) 
 ┃ 63冷泉帝        ┣    
  ┃ 962-1001       藤原娍子の妹
 ┗ 詮子(兼家東三条院娘) 
    ┣懐仁親王(66代一条帝)
   64円融帝959-992    
     ┣    
    遵子(頼忠小野宮殿娘)   
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近衛・九条摂関時代

2006年11月26日 | 平安時代

近衛家と九条家

 1000年以上もの長きに渡って政界を支配し続けた藤原北家から近衛、九条家が分家し、各々から鷹司、一条、二条家がさらに分家し鎌倉4代将軍・頼経の時代には五家による摂関が行われた。その後、京都の大路や寺の名前をとって多くの名家が誕生することとなる。 その中に今の京都・龍安寺を別荘とした徳大寺家もあったのである。

 藤原忠通のあと嫡男の基実が摂関となるが24歳で亡くなった為、基実の実弟・基房が摂関となり、やがて基通に引き継がれた。 基房は平清盛と対立していて後白河上皇寄りであったのに対して近衛家の祖・基実、基通親子は平清盛の娘を妻にしていて、基通は平家の都落ちの際に行動を共にしている。 またその一方で基通は後白河法皇の男色の相手として寵愛を受け、後鳥羽天皇の摂関になった所以として知られている。 弟の九条兼実は基通の男色を恥ずべきこととして「玉葉」に記した。 しかし源頼朝は義経に追討の院宣に賛同した基通を嫌って、1186年に兼実に摂関を与えている。 10年後に基実が失脚すると基通は摂関として返り咲いたことがあるが、その後、後鳥羽上皇の意向により兼実の後継者である九条良経が摂関となるが5年後に死亡し、基通の嫡男・近衛家実がかわった。家実は1221年承久の乱の頃まで22年の長きに渡って摂関の地位にあったが、この頃は武家政治の最中であり、公家の復活を願った後鳥羽上皇が討幕計画を起こしたが失敗におわり、公家は完全に武家の監視下におかれたのである。

 家実の摂関政治は1228年に九条道家に受け継がれ鎌倉幕府三代将軍・実朝の暗殺により直系が途絶えたときに道家の三男・頼経が4代将軍に迎え入れられた。 道家の嫡男は九条家を継ぎ、次男・良実は二条家の祖となり、四男・実経は一条家の祖となった。 また近衛家の家実の孫・兼平は鷹司家の祖となっている。

 こうして藤原北家の本流から五つの摂関家が誕生するのである。また本流から外れたところでは藤原公実からは、三条家、徳大寺家、西園寺家がでているなど、院政期には藤原家から多くが分家して、それぞれの繁栄をもたらすこととなる。  

                   源顕信娘
                     ┣道経
                     ┣基教(鷹司家)
                     ┣家実1179-1243(良経後猪隈関白)
  具平親王              ┃  ┣家通
    ┗源師房             ┃  ┣兼経
       ┣源俊房1035-1121(堀河左大臣)┃  ┗兼平(鷹司家の祖 摂政関白)     
   道長┣源顕房1037-1094(六条右大臣)┃    ┣兼忠
     ┣尊子 ┃┣源国信  藤原忠隆娘 ┃    ┗基忠
   明子   ┃雅実 ┣信子 
基通(1160-1233後白河上皇から寵愛 後鳥羽摂政)
           ┃      ┃
近衛基実(1143-1166近衛家の祖 二条関白 六条摂政)
           ┣賢子  ┃ ┃ 

         隆子┣堀河┃ ┃ 盛子(平清盛娘) 

             白河  ┃ ┃ 三条公教娘  花山院忠雅娘忠子(安徳乳母)   
 
                  ┃ ┃   ┣藤原家房  ┣伊子(木曾義仲側室)
 
                  ┗ ┃俊子 ┣藤原隆忠  ┣松殿師家
 
  
            
 ┃┣近衛基房(後白河側 松殿祖 六条高倉摂政) 
                   ┣┛  
                  ┃藤原仲光娘・加賀 
                 ┃┣九条兼実1149-1207(頼朝推薦 後鳥羽摂政 関白) 
            ┃┣兼房┣良通
             ┃┣慈円┣良経1169-1206(土御門摂政 後鳥羽推薦)
             ┣┛  ┃ ┃藤原清季娘
             ┃   ┃ ┃ ┣忠成王1221-1279(四条皇太子)  
             ┃   ┃ ┃順徳天皇(守成親王)1197-1242
             ┃   ┃ ┃ ┣諦子内親王1217-1243
             ┃   ┃ ┃ ┣85仲恭天皇1218-1234
             ┃   ┃ ┃ ┃  ┣義子内親王
忠実          ┃   ┃ ┃ ┃ 右京大夫局
┣泰子(高陽院1095-1155)┃   ┃ ┃ ┃
忠通(法性寺関白1097-1163)  ┃ ┃ ┃ 徳子(建礼門院)
  ┗藤原呈子(伊通娘)       ┃ ┃ ┃    ┣安徳天皇
 
    ┣-            ┃ ┃ ┃ 高倉天皇
   近衛天皇1139-1155      ┃ ┃ ┃    ┣82後鳥羽天皇1180-1239
  頼長  ┣-             ┃ ┃ ┃信隆  ┣守貞親王1179-1223(後高倉院)
  ┗藤原多子(公能娘)       ┃ ┃ ┃┣坊門殖子  ┃
                  ┃ ┃ ┃休子     ┃
 
                 ┃ ┃ ┃       ┣利子内親王
 
                 ┃ ┃ ┃持明院通基  ┣邦子内親王1206-1283
  
                ┃ ┃ ┃┣持明院基家 ┣86後堀河天皇1212-1234
 
                 ┃ ┃ ┃源師隆娘┣藤原棟子 ┃
                  ┃ ┃ ┃    ┗基宗   ┃ 
 
 
                ┃ ┃ ┃          ┃
                  ┃ ┣立子1192-1247     ┣子内親王
                  ┃ ┣道家1193-1252(仲恭摂政)┣87四条1231-1242 
             
   ┃能保娘   ┣九条竴子(藻壁門院) ┃ 
                              ┃     ┣教実(九条家を継ぐ)  ┣-
                              ┣任子-1238 ┣良実(二条家の祖)┗彦子(宣仁門院)
                            季行娘┃    ┣頼経(鎌倉4代将軍)
                                  ┣昇子 ┣実経(一条家の祖)
                 82後鳥羽天皇 綸子(西園寺公経娘)
                             ┃┣83土御門天皇1195-1231         
                         ┃源在子1171-1258   ┗邦仁王(後嵯峨)
                           ┣84順徳天皇1197-1242          
                  ┣雅成親王1200-1255(承久の乱で但馬へ配流) 
          藤原能兼  ┏高倉重子1182-1264(修明門院) 
            ┗藤原範季(高倉流祖)   
     

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大覚寺(旧嵯峨御所)

2006年11月25日 | 平安時代

大覚寺(旧嵯峨御所)

 平安時代、嵯峨天皇の離宮でしたが、貞観18年(876)に、嵯峨天皇の皇女・正子内親王の発願により寺院となりました。 鎌倉時代には後嵯峨、亀山、後宇多上皇などの歴代の法親王が院政をしき、嵯峨御所とも呼ばれていたそうです。また、南北朝騒乱の時代には南朝方の御所となっています。

 

 

正寝殿 (木造入母屋造桧皮葺)

 
 桃山時代宸殿の北側に位置し、12の部屋をもつ書院造り。南北に3列の部屋が配置され、東列は、「剣璽の間」「御冠の間」「紅葉の間」「竹の間」、中央列は、「雪の間」「鷹の間」、西列は「山水の間」「聖人の間」を並べ、その南と東に狭屋の間を配置する。上段の間は後宇多法皇が院政を執った部屋で、執務の際は御冠を傍らに置いたことから、「御冠の間」と呼ばれている。

 

 かつては平安貴族が舟遊びをしたという大沢の池のほとりのゆるやかな曲線を描く、箱庭のような山を背に大覚寺は建っています。

 

 

嵯峨天皇陵を訪れようと参道を登ること頂上まで・・・、達成感のある見晴らしです。 向うには広沢池が、手前には大覚寺、大沢池があり、左にみえているのが北嵯峨・梅ヶ畑の小山です。 この中腹には後宇多天皇が眠っています。

 

第52代嵯峨天皇嵯峨山上陵

嵯峨天皇は桓武天皇の皇子で平城天皇(同母兄弟)から皇位を譲られ即位します。 平城天皇から寵愛を受けていた藤原薬子は兄・仲成と計って再度平城を天皇にしようとしますが失敗し、薬子は毒を仰いで自殺します。 嵯峨天皇は多くの皇子・皇女を臣籍に降下させ、そのうちの源信は嵯峨源氏の祖といわれています。

 

(撮影:クロウ)

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藤原頼通

2006年11月18日 | 平安時代

藤原頼通

 藤原頼通とは藤原道長の嫡男で、26歳の時に父からの譲りで摂政となった。このあと、68代後一条・69代後朱雀・70代後冷泉の三代に渡って約50年の間、摂政の地位についたのは記録級である。 次に長いのは38年間の藤原忠通で、平均が10年くらいである。 しかし頼通本人はいたって凡庸な人であったというから、道長の布石がいかに大きかったかが伺える。 しかし天皇との関係は父・道長のような外祖父という立場ではなかったので弱かった。

京都・竜安寺の北側には一条天皇陵があり、その隣に69代後朱雀・70代後冷泉・71代後三条天皇陵が並んであります。(撮影:クロウ)

 

 

藤原実資、藤原公任の支え

 それを陰で支えたのは藤原実資、藤原公任という有能な政治家である。 二人はいとこ同士で摂政の実頼を祖父に持つ。 実資は父が若死にしたため実頼の養子となり財産を受け継いだ。 また公任の父・頼忠は関白であったが子息に受け継がれるものではなかった。 二人とも道長の時代に生き、頂点には立てなかったが、優れた業績を残している。 道長は9歳年上の賢人右府(右府とは右大臣)・実資を頼ることが多く、無視できない存在であった。 道長の娘であり一条天皇の皇后となった藤原彰子も実資を敬愛し、頼通も同じく頼り切ったようである。 実資が残した「小右記」にはそういったことが印されている。  一方公任は道長と同じ年で、学識豊かで才人の誉れが高く政治以外にも文化人として平安時代の三大儀式書や三十六人撰など多くを残している。

隆姫女王

 頼通が具平親王の娘・隆姫女王を娶ったのは一条天皇妃・彰子が敦良アツナガ親王を産んだ頃である。 具平親王は村上天皇皇子であり、血統の申し分がない隆姫と結婚したことで道長はこよなく喜んだという。 ところが93歳と長寿した隆姫は子供を産むことはなかった。 内親王を迎えるように勧められるが隆姫を愛しほかを寄せ付けなかったというが、源憲定の娘おの間に通房がいるし、藤原祇子との間にも子を設けている。隆姫に子ができなかったこともあり、通房の誕生は大きな喜びであったが権大納言という異例の出世をするも、20歳で亡くなっている。そして 藤原祇子との間に設けた師実モロザネが頼通の跡を継ぐのである。 師実は末子であったが、他の兄は全員養子にでており隆姫への配慮か、養子に迎えた師房の立場を考慮したものか。

寛子と師実

 やっとのことで藤原祇子との間に寛子が生まれたのは頼通44歳のときである。結局頼通は女子には恵まれず、これが先の命取りとなる。寛子も後冷泉天皇に入るのであるが子供はできなかった。寛子は派手好みで後冷泉亡き後は宇治に住み、平等院奥の院と呼ばれ、白川金色院を創建した。

 子に恵まれなかった頼通が期待を寄せたのは養子の源師房(具平親王皇子)で、道長の五女・尊子と結婚し、子の俊房・顕房は左大臣、右大臣となり、麗子は摂関・師実の妻になり関白・師通を産んでいる。 師実は村上源氏を称し、諸源氏の中で最も多くの公卿を輩出した系統である。源氏の公卿は院政期にはいってめざましく、多いときには半数を占め、藤原氏をしのいだ。

平等院

 後に極楽浄土の世界と世に知られた平等院は1052年に頼通が父から譲られた宇治の別荘を寺院に改めたことに始まる。本堂の阿弥陀堂は鳳凰に似ており、鳳凰堂といわれているが、ここに安置されている阿弥陀如来像はかの有名な定朝ジョウチョウの遺作として知られている。頼通は晩年、ここ平等院に住んだ。

忠実・忠通親子の確執

 摂関は道長の構想どおりに頼通から弟教通、そして師実へと継がれていった。 師実が関白の時代、白河天皇の治世であったが、師実は源顕房の娘・尊子を養子とし、白河天皇の中宮としていたので関係は良かった。ところで、20歳の白河天皇即位のとき、39歳の後三条天皇が法皇となり摂関家を抑えて、院政を推し進めようとしたが、翌年病死した。 この直後に頼通、教通、上東門院(彰子)が相次いで他界したため情勢は大きく変わったようである。 1086年、白河天皇34歳の時に上皇となり、8歳の堀河天皇に譲位すると関白・師実を摂政につけて幼帝を後見した。 堀河の立太子と践祚が同時に行われたので皇位を直系に伝えることが目的であったが、結果的に院政の始まりとなり、摂関政治が終わることになった。 師実は約10年で関白を33歳の嫡男・師通に譲り、16歳の天皇との仲を深め上皇の政治介入を抑えたが、師通の死後は本格的な院政時代へ入るのである。 師通の清廉潔白な政治に加え、賢人を登用し、学問を好んだため天下はきちんと治まったというが38歳の若さで亡くなった。 堀河天皇崩御は師通の亡くなった8年後である。関白は師通の嫡男・忠実に受け継がれ、鳥羽天皇の摂政のあと関白を務めた。が、娘の泰子を鳥羽天皇へ入内するよう勧められたときに難色を示したことから、白河上皇の怒りを買って関白の罷免に追い込まれている。 8年後に白河上皇が亡くなり、鳥羽院政になると忠実の復帰が叶い、泰子は鳥羽上皇の皇后に向かいいれられた。忠実の後、子の忠通が関白となったが38年間に及ぶ摂政は頼通につぐ長さであったが、忠実は次男の頼長を寵愛したため忠通と忠実は対立が絶えなかった。 忠通は、関白の座を頼長に譲るようにと父・忠実から強要されるが怯むことなく上皇の崩御後に爆発した。 保元の乱により敗れた頼長は37歳の若さで死んだが、この時代きっての学識者であったという。乱の2年後に天皇が後白河から二条に代わって、忠通は関白を16歳の嫡男・基実に譲り、法性寺に住んだことから、忠実のことを法性寺関白といった。

後白河天皇陵(撮影:クロウ)

 

二条天皇陵(撮影:クロウ)

 

 

御乳母一族の台頭

 院政期の特徴として、乳母一族が院の近習として仕え、進出してきたことが挙げられる。 代表格は藤原顕季アキスエで、母が白河天皇の乳母である。六条修理大夫と呼ばれた顕季は白河院歌壇の中心人物でもあり孫娘の得子は美福門院といって鳥羽上皇との間に近衛天皇を設けた。 また白河上皇に重用された為房は妹が堀河・鳥羽二代の乳母をつとめ、次男の顕隆は妻が鳥羽天皇の、娘が崇徳天皇の乳母を務めたこともあり、白河院政を取り仕切った。 顕季、為房ともに摂関家と同じ藤原北家の系統であるが、両家ともに目立つ存在ではなかったが、後に顕季の子孫からは四条、山科、油小路といった諸家が分立し、為房の子孫からは吉田、万里小路、葉室、勧修寺に分家して後世で活躍することになる。 また、北家では為房に近い邦綱は平清盛と結びついて頭角を現した。娘4人が各々六条、高倉、安徳、建礼門院の乳母となり、自らは建礼門院の妹で関白・基実の妻・盛子の後見役をした。    

                   為隆為房(1049-1115白河上皇に重用)
為平親王娘          尊子(道長五女)    ┣為隆(万里小路家祖)
 ┣隆姫女王995-1087 ┣俊房        ┣顕隆(葉室家祖) 
 ┣次女  ┃    ┣顕房       ┃ ┗徳大寺実能━公能
 ┣師房  ┃    ┃  ┗賢子(白河中宮)┗妹(堀河鳥羽の乳母)
 ┣嫥子女王┃    ┣麗子        

具平トモヒラ親王┣源師房(1008-1077養子)                篤子内親王
      ┣源嫄子(敦康親王娘1016-1039養子)       中宮賢子 ┣
       ┃ 彰子 ┣祐子内親王1038-1105 藤原茂子(公成娘) ┣73堀河天皇1079-1107
       ┃  ┣69後朱雀1009-1045     ┣
72白河天皇1053-1129
       ┃  ┃  ┃  ┣71後三条1034-1073 ┃乳母:藤原顕季アキスエ母
       ┃  ┃  ┃禎子内親王(陽明門院1013-)┃┣長実
      ┃66一条天皇┃  光子(堀河鳥羽の乳母) ┃┃ ┗得子(美福門院)1117-
道長    ┃     ┣70後冷泉1025-┣三条実行 ┃┣家保    ┃
 ┣頼通992-1074   藤原嬉子┃    ┣西園寺通季┃┣顕輔    ┣76近衛天皇
 ┃      ┃ ┣通房1025-1044  ┃    ┣徳大寺実能┃藤原経平娘 ┃ 
  ┃   ┃源憲定娘┏━━━━┛    ┣璋子(待賢門院)1101-1145┃
  ┃   ┣覚円  ┣ x      実季公実      ┣75崇徳      ┃
 ┃   ┣寛子 1036-1127平等院奥院┗苡子   ┣77後白河      ┃
 ┃   ┣師実 1042-1101京極殿       ┗━━┓┃         ┃ 
 ┃   ┣家綱-1092 ┣師通モロミチ1062-1099     ┃┃  ┏━━━━━┛┣近衛基実
 ┃   ┣忠綱-1084 ┣賢子 ┃       74鳥羽上皇       ┣近衛基房 
  ┃   ┃     麗子  ┣忠実1078-1162    ┣       ┣九条兼房 
  ┃  
┣藤原祇子     ┣全子  ┃  ┣泰子(高陽院1095-1155) ┣慈円
  ┃  頼成      俊家1014-1082 ┃  ┣忠通(法性寺関白1097-1163)
  ┣教通996-1075           ┃ ┣源師子
倫子 ┃   ┃┣ x                 ┃源顕房
   ┃   ┃嫥子女王
       ┣頼長1120-1156(内覧 保元の乱で敗)
子内親王 ┣ 信家       盛実娘

         ┣ 通基        
 
       ┣ 信長1022-1094(九条太政大臣)        
  
         ┣ 生子1014-1068(後朱雀女御)        
   頼忠   ┣ 歓子1021-1102(後冷泉皇后)        
    ┣公任┣ 真子(後冷泉女御)        
 厳子女王┣娘 
  
     昭平親王娘  

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平安京初期の祟り

2006年11月12日 | 平安時代

悲劇的な最期を遂げた人物の怨霊

伊予親王と藤原吉子

 時に右大臣・内麻呂、大納言・雄友(かつとも)、中納言・乙叡(たかとし)が朝廷の上位を占めていた。 そんな中、雄友は北家の宗成が謀反を企てていると内麻呂に告げた。 宗成は伊予親王が首謀者であると自白する。  伊予親王とは807年に没っした桓武天皇の第三皇子であり、母は藤原吉子。 792年に加冠し、桓武天皇の信頼もあつかったが桓武天皇没後の807年10月に政治的陰謀事件にまきこまれて失脚し、奈良・明日香村にある川原寺に幽閉され、母と共に服毒自殺した。
 
 はじめ反逆の首謀者とみなされた藤原宗成が尋問の過程で伊予親王こそ首謀者であると主張したため、平城天皇は左中将安倍兄雄らをして親王らを捕らえ、母子を大和国川原寺に幽閉した。 無実を主張する親王と母は飲食を断ち、親王の地位を廃された翌日、11月12日に自ら毒薬を飲んで命を断つという悲劇的な結末を遂げた。 先の安倍兄雄も伊予親王の無実を天皇に諫言したが受け入れられなかったという。 伊予親王事件の真の黒幕は式家の藤原仲成と言われている。 平城天皇を推す仲成が敵対者を排除して皇太弟の神野親王(後の嵯峨天皇)を抑えるのが目的であった。
 
京都・直指庵のすぐ隣にある嵯峨天皇陵(撮影:クロウ)
 
 
 伊予親王親子の他に、宗成や雄友も左遷され、乙叡も失脚して翌年なくなった。 そのため平城天皇は伊予親王らの怨霊に悩まされ、弟の嵯峨天皇に位を譲るまでに追い込まれた。 後に伊予親王の無実が明らかとなり、悲劇的な最期を遂げた人物の怨霊が民衆の心をとらえ始めたのは、ちょうど平安初期のことであった。 天変地異から有力者の死までが、そのたたりであると理解された。 伊予親王母子は怨霊の典型とされ、863年の御霊会でまつられることになった。
 
 伊予親王親子の死により、藤原南家は衰退し、北家の葛野麻呂が中納言に上がってくる。 尚、後に南家からは巨勢麻呂系の元方・娘の祐姫が更衣として村上天皇に入内し、第一皇子の広平親王を産んだが、北家の右大臣。師輔の娘・安子が村上天皇の皇后となり第二皇子の憲平親王(後の冷泉天皇)を産んだため南家の望みは絶たれ、文章道に活路を見出すことになる。
 
藤原式家台頭と他部親王の廃太子
 
 宇合の長男・広嗣は橘諸兄に対乱して失脚し、弟の良継は大伴家持らとともに仲麻呂殺害を企てて失敗したが、後に仲麻呂追討の功を挙げ、光仁擁立に尽力して内大臣に至った。 弟の百川は北家左大臣の永手と計って光仁(白壁王)擁立、道鏡追放を実現させた。 (永手の働きが大きく、百川は中心ではないという説もある) 皇太子には第四皇子の他部親王が、聖武天皇の血筋であるがゆえになった。 しかし1年後には身分の低い山部親王(後の桓武天皇)が皇太子になる。 他部親王が廃太子となったのは母・井上皇后が夫の光仁天皇を呪詛したため、他部親王にも及んだというが、これは百川の策略による可能性が高い。 こうして百川の活躍で式家は藤原氏をリードし、桓武天皇は後に百川の娘・旅子を妃とし淳和天皇を出している。 また、百川の子・緒嗣は重用され20代で参議となっている。 尚、「日本後紀」は嵯峨天皇の勅命により緒嗣らが編纂したものである。
 
氷上川継事件と早良親王の廃太子
 
 川継は塩焼王と聖武天皇の皇女・不破内親王の子であるが、皇位を狙って謀反を起こし、母子で配流の憂き目にあう。 姉の井上内親王とともに悲劇の皇女である。 こうした事件の続発からか、桓武天皇は平城廃都を思い立ち、長岡京の造営の責任者に百川の甥・種継を抜擢したが、矢で射られ49歳で絶命した。 桓武天皇はすぐに、主犯格の大伴継人らを処罰すると、皇太子である実弟・早良親王まで飛び火し、廃太子となった親王は淡路島へ配流の途中、無実を主張しながら死んだのである。 大伴氏が早良親王の擁立を企てて起こした謀反となっているが、桓武天皇が皇子の安殿親王を皇太子にするために仕組んだ罠であるとも考えられる。
 
桓武天皇に宿った怨霊
 
 桓武天皇は種継事件を利用して思いを叶えたが、これにより身に降りかかる不吉な出来事を受けることになる。 寵姫・旅子が大伴親王を産んだばかりというのに30歳の若さで亡くなったのである。 旅子は百川の娘であるだけにここまで自分を持ち上げてくれた百川に申し訳がなかった。 翌年、蝦夷征伐を目指していた大部隊は大敗を喫した。 そして桓武天皇の実母で皇后夫人の高野新笠が病死し、宮廷では女官の死が相次いでいたのである。 命婦・藤原教貴、大原室子などである。 翌年、皇后・乙牟漏が31歳の若さで亡くなると、后の坂上全子もなくなった。  この頃から、桓武天皇は悪霊・怨霊に怯えるようになる。 井上皇后、他部親王、早良親王の・・・・。 そしていよいよ皇太子・安殿親王の体調も崩しはじめていた。 桓武天皇はやむなく、早良親王の怨霊鎮めを最初に行った。 しかしその配慮を無視するかのように伊勢神宮を焼いたのである。 桓武は皇太子・安殿に伊勢参宮を命じたが、安殿親王は桓武の処置に納得がいかずに、互いの溝に亀裂が入り始める。
 
 このときに桓武は東宮・安殿を見限り、藤原南家の血筋をひく藤原吉子の皇子・伊予皇子を東宮に推しているという噂がたった。 怨霊の根源である式家の血統を排除しようと考えたものであろう。
  
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第75代崇徳天皇

2006年08月16日 | 平安時代

讃岐院とよばれた崇徳上皇

 崇徳天皇は保元の戦いに敗れて讃岐の地に流された悲劇の天皇として、歴史の中で語り継がれてきた天皇です。 鳥羽天皇の第一皇子として誕生し、後に第75代天皇として即位。 顕仁(あきひと)ともいい、後に讃岐院とも称されました。 即位18年後に起きた保元の乱(1156年)に敗れ、無念の想いを胸にここ讃岐の地へ配流されます。 後の9年を上皇は讃岐で過ごされましたが、その日々は寂しさに満ち、心痛むものがあったと伝えられています。 1164年に、上皇は病に倒れ、ついに帰京の夢を果たすことなく配流先の讃岐の地で46歳で崩御されました。

 香川県の坂出のすぐ近くの白峰山に崇徳天皇陵があります。弘法大師、西行法師をはじめ源義経も屋島の合戦の前に、ここ白峰を訪れています。

  藤原得子(美福門院 八条院)1117-1160              
     ┣体仁親王(ナリヒト)76近衛1139-1155             
     ┣女朱内親王(高松院)1141-1176             
    ┃ 藤原泰子(高陽院)1095-1155藤原忠実娘             
    ┃ ┃             
   鳥羽天皇74代1103-1156 鳥羽の護衛・遠藤盛遠は袈裟を愛し袈裟を討後、文覚                 
    ┃     ┃    佐藤義清(後の西行)も護衛             
     ┃     ┣統子内親王1126-1189(上西門院、袈裟御前が出仕)             
    ┃     ┃                           ┣              
    ┃     ┣顕仁親王75崇徳1119-1164         源渡              
    ┃     ┃    ┣重仁親王1140-1162               
    ┃     ┃    ┃     乳母:有子           
    ┃     ┃    藤原聖子1122~1181               
     ┃     ┣後白河天皇77代1127-1192(藤原通憲(信西)側近)         
     ┃     ┣覚性入道親王1129-1169仁和寺門主         
     祇園女御   藤原璋子(待賢門院)1101-1145公実・娘         
     ┣清盛?  ┃  (祇園女御,白川に寵愛)                
    白川上皇72代1053-1129 

 崇徳天皇は元永2年(1119)5月28日に鳥羽天皇を父に、中宮待賢門院を母に、誕生されます。 鳥羽天皇の祖父、白河法皇は待賢門院を寵愛されていましたので、鳥羽天皇としては心穏やかではありません。 鳥羽天皇にとって皇子、顕仁親王(崇徳天皇)は疑惑の息子だったのです。 鳥羽天皇は「顕仁親王はわが子にあらず」と言っています。

 顕仁親王は保安4年(1123)に5歳で第75代の皇位を継ぎます。しばらくして、保延元年(1135)、鳥羽上皇と美福門院の間に躰仁親王が誕生すると、鳥羽上皇は誕生まもない躰仁親王を東宮とし、その後近衛天皇として即位させます。ところが、近衛天皇は久寿2年(1155)に崩御されます。 御年は17歳でした。悲しみのあまり、母の美福門院らは、崇徳上皇の呪いのせいであるとの噂を流すこともありました。次の天皇には、崇徳上皇の第一皇子である重仁親王が即位をされるものと思われていましたが、鳥羽法皇は自分の第四皇子の雅仁親王を77代後白河天皇としたのです。

 崇徳上皇との間に深いしこりを残したまま、鳥羽法皇は保元元年(1156)7月20日崩御されます。 父上皇の崩御を知った崇徳上皇は、鳥羽殿に参じます、“法皇の遺言であらせられる”と、宮門内に入れてもらえず、やむなくその場を立ち退かれました。 崇徳上皇は、「子が父の死に目に会いたいと申しているのに、なぜ会わせてはくれないのか」と嘆き、「もはや我慢もこれまでぞ」と、翌朝、兵を率いて白河殿を急襲したものの、崇徳上皇に戦いの利はなく、敗れた結果、上皇は讃岐の地に配流されることとなりました。  

 四国讃岐の地に配流された上皇は、すぐに讃岐国松山の地に送られ、ここで3年の月を過ごされ、今度は府中郷、阿野郡村田郷などに移られます。平治元年(1159)のことです。その年の12月に起きた源氏と平氏の戦い(平治の乱)後、朝廷は崇徳上皇の身の上にも厳しい警戒の目を注ぎはじめ、とうとう府中郷の木の丸御座所に幽閉の身となり、その後の5年間を幽閉の身のままで過ごされました。そして長寛2年(1164)の8月26日、帰京への思いもむなしく、崩御されました。

 ここ讃岐は讃岐うどんで有名な地でもあります。白峰山を降り、山中を南下すること10kmほどのところの「がもう」に行きました。炎天下の中大変な行列です。うどんを注文すると、てんぷら、あげなどは自分でトッピングします。 そして店外で汗だくになりながら・・・食べます^^ 因みに二つ玉が180円+てんぷら70円・・・安いです。

 今回は私、初めて「青春18切符」というものを使って電車で香川へ行きました。車での移動に慣れているので、電車はどんなものかと思いましたが、手頃な距離(電車に乗っているは実質2時間余り)であり、坂出駅からは知り合いの親子が案内をしてくれたので大変快適なひと時でした。讃岐うどんツアーがくせになりそうです^0^ 

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