藤原道長の息子・藤原能信と陽明門院・禎子内親王
藤原道長の子
藤原能信は藤原道長と源明子の三男で中宮妍子、威子に仕え明子所生の中で後の世に影響を与えた人物である。 道長には鷹司殿といわれた妻・倫子と高松殿といわれた明子がいる。そして両妻はそれぞれ6人の子供を産んだ。鷹司系の倫子には一条天皇妃となった彰子をはじめ道長政権を継ぐ頼通、教通、三条天皇妃・妍子、後一条天皇妃(彰子の長男)・威子、後朱雀天皇妃(彰子の次男)・嬉子がいた。道長が「この世をば・・・」と詠んだことに象徴されるように輝かしい限りである。 そして高松殿とよばれた源高明の娘・明子にも鷹司系とほとんど同じような年頃の子供6人がいた。
高松系
順に、頼宗、顕信、能信、寛子、長家、尊子である。道長が糖尿病に苦しみ1027年に亡くなった時、それぞれ34歳、33歳、32歳、寛子は死亡、22歳、20歳であるが、鷹司系とは比べ物にならないほどに格差は歴然としていた。明子はひときわ目立った美人であった(そこに道長は惚れこんだのであるが・・)が倫子に比べて正確はおっとりした女性であり、醍醐天皇の第8皇子の源高明の娘という申し分のない血統ではあるが、安和の変で高明は失脚したため、その影響が如実にでたと言わざるを得ない。 頼宗は極度の近眼ということもあり、嘲笑されることもしばしばあり、鷹司系・頼通に服従の意を向けている。 顕信は早くに出家して叡山で15年の修行を行うが全ての欲を捨て、34歳・道長が亡くなる少し前に他界した。寛子は母に似て大変な美人で、三条天皇の嫡男・敦明親王女御となった。敦明親王の立皇太子を約束して亡くなった三条天皇の嫡男であるが道長の牽制は鋭く、敦明親王は皇太子の座を途中で降りている。しかも敦明親王の妃・延子(藤原顕光娘)の祟りからか、子供を幼くして亡くした寛子は心労から25歳の若さで亡くなった。長家は鷹司系の養子となり、末娘の尊子は源師房の妻となった。師房はいい人であったが官位は低く鷹司系の娘が天皇妃となったことを考えると、段違いである。これは尊子の器量が悪かったことのみが原因ではなさそうである。 そして、三男・能信は中宮妍子の権亮 威子の権大夫を経て、道長亡き今、なにかを考えているようである。
能信が仕えた妍子と道長の死
姉の彰子が器用に男児を立て続けに産み栄光の母后として振舞う陰で、妍子は皇子を産むことができず、打ちひしがれて32歳の若さで亡くなった。しかし、その忘れ形見・禎子内親王も今や14歳の東宮妃である。もしも妍子が禎子内親王のこのような未来に賭けていたなら別の人生が待っていただろうに・・。そんな時、道長の様態は急変し手当ての甲斐も無く亡くなった。1027年12月4日62歳であった。
禎子内親王陵(撮影:クロウ)
とたんに能信の周囲は奇妙な活気が満ち、続々と詰め掛ける弔問客に多忙を極めたが、何故か能信は大きな呪縛から解き放たれたような開放感を味わっていた。父・道長のおかげで数々の恩恵を被ったのは事実であるが、息苦しいまでの抑圧感もあったのである。鷹司系の繁栄ぶりにくらべて、自分達高松系の子供は常に遅れ、対立する相手との比較感に悩まされていたのである。道長亡き後、後ろ盾をなくした頼通・教通の不安は能信よりも大きいはずである。
能信の異母妹・威子
服喪を終えて宮中入りした威子が懐妊した。後一条中宮の威子は去年、章子内親王を産んでおり、次は男児が期待されるだけに周囲は俄かに活気を帯びてきた。出産のとき威子は全身白の衣裳に着替え白い御帳台にはいる。 中納言兼隆の邸に詰めたきりの威子の権大夫である能信も準備に余念がない。そしていよいよ威子の息づかいも荒くなり、元気のいい産声があがったが生まれたのは皇女であった。周りの雰囲気は当然翳りが漂うのであるが、能信の気持ちは微妙である。 鷹司系の威子に皇子が誕生すれば能信たち高松系には権力の座は確実に廻ってこない。 しかし道長亡き後、威子が産み落とす子が皇女であり、強運の鷹司系に翳りが出始めたことになるからである。
禎子内親王の懐妊
威子の出産騒ぎが一段落すると今度は禎子内親王が懐妊したのである。禎子内親王は鷹司系・妍子の所生であるが、妍子亡き後は宮中で孤立している。東宮妃になれたのは能信の働きかけのおかげでもある。しかし影の薄い彼女の出産に対して宮中は冷淡であった。結局、母妍子に仕えて皇太后宮大夫をつとめた藤原道方の四条坊門邸に禎子内親王を迎えることとなる。彼女の身の回りの世話は実資の息子・資平である。禎子内親王の場合は妍子と違って道長とはそりが合わなかった三条帝を父とするので、もしも男児出産となると流れは多少変わるはずである。ところが暮れの12月に生まれたのは皇女であった。妍子といい、禎子といい不運から抜けきることが出来ないのは何故なのか。 禎子が良子内親王を産んだ3年後に生まれたのは又しても皇女であった。
この頃38歳の能信にはまだ子供がなく、兄頼宗の三男能長を養子に貰い受けている。そのうち禎子は3度目の懐妊となった。誰もがまた皇女であろうと思っていたが、難産の末に生まれたのは皇子であった。現帝後一条天皇の後は東宮・敦良、嬉子の忘れ形見・親仁親王、そして禎子内親王の産んだ尊仁親王と続くことになった。 すると対抗心を燃やし始めたのは威子である。後一条が後宮を拒み威子が帝を独占すれば願いは叶うかもしれないが、男児が生まれるとは限らないのを覚悟でのことである。もしも男児が生まれれば、その子の順位は禎子の尊仁親王を抜くことになるのは間違いない。執念が実ったのか威子は間もなく懐妊したのであるが流産してしまった。 二人の子供が女児であっただけに今回の流産には威子も半ば自暴自棄ぎみとなり、翌年威子は二度と皇子を産めなくなってしまった。 1036年、後一条天皇が29歳の若さで急死してしまったからである。そして不幸は立て続けに起こる。故後一条の大掛かりな法要が終わった頃、夫の後を追うようにして威子が38歳で急死したのである。威子の権大夫を務めていた能信はその肩書きを外すこととなった。
1036年の11月、新帝・後朱雀の誕生である。このとき、伊勢の斎宮には禎子内親王の子・良子が、賀茂の斎院には娟子ケンシが選ばれている。そして内親王の称号が与えられ、新帝に一番身近な存在として身分が確定した。不運な妍子の皇女として頼りなげに育った禎子内親王は立后の儀が内定し、ここに花開いたといっていい。
後朱雀天皇陵
嫄子女王の入内
この頃、藤原頼通は新帝後朱雀天皇のまわりでなにやら画策を巡らせていた。 子供に恵まれない頼通は妻・隆姫(具平親王の娘)の妹を敦康親王の妻としている。 今はなき敦康親王は一条天皇と定子との間にうまれた悲劇の皇子である。敦康親王と頼通の妻はお互い姉妹ということもあり親しくしていた。敦康親王には嫄子女王という姫がおり、頼通はこのお方を養女に向かえ、後朱雀天皇の妃として考えていたのである。頼通夫婦が嫄子女王の後見をすることにより、弟・教通を牽制できるからである。 この入内と頼通の後見は、禎子内親王の中宮大夫となった能信にとっては強敵ではあるが、禎子内親王は後朱雀との間にすでに尊仁親王をもうけているから優位な立場には違いない。
翌年、嫄子の入内が行われ、禎子の立后の儀も行われ、能信は皇后宮大夫に任命された。女御・嫄子がいずれは立后することを考えれば、関白・頼通と能信が対立するのは明らかであるが、その勝負も明らかであることは禎子もわかっているようである。それよりも禎子にとっては嫄子が中宮になることによって皇后に押し上げられることが気に入らない。一条帝に彰子が中宮として入内したとき、定子は皇后となったが没落の翳を深めた。皇后と中宮は同格とはいえ実際には中宮のほうがより輝かしい存在なのである。そして禎子は内裏入りを拒み、堀河殿を出て閑院に戻ることとなった。一方嫄子は入内して二人の内親王・祐子と禖子を生んだが男児には恵まれず、二年後に二人目の皇女を産んで間もなくこの世を去った。後朱雀を独り占めにした嫄子であったが、禎子の強運が嫄子を圧倒したのであろうか。
亡き嬉子と後朱雀天皇との間に生まれた親仁親王が東宮であるが、それ以外の男御子は尊仁、つまり5歳になる禎子の皇子しかおらず、禎子はこの幼児の前途にはっきりとした眼差しを向け始めた。頼通が望みをかけた養女・嫄子が若死にするとまもなく動き始めたのは頼通の弟・教通である。娘の生子を後朱雀の妃にと名乗りを上げたのである。しかも嫄子がなくなって半年も経たないうちに生子を入内させてしまったから頼通、教通の対立はいよいよはっきりとしてきた。禎子皇后の大夫である能信としては頼通に、生子の入内を阻止してもらいたいところであったが、後朱雀は頼通とは性が合わず教通に傾いていたのである。 能信から報告を受けた禎子は驚くほど平静で怯む気配はなかった。
尊仁親王 謁見の儀
1040年、閑院の禎子の許で育った尊仁親王は7歳となり謁見の儀の頃である。 当時皇子は母の許で育ち、父帝とは離れているがある年になると内裏に参入して正式に対面する謁見の儀が催されるのである。ところが内裏は教通の二条邸であり、娘の新女御生子は後朱雀帝の後宮を独占して華やかに暮らしていた。 そこへ尊仁が儀のために乗り込むのは能信としては躊躇われるところである。ところが、この時大地震が起こり火災に続く縁起の悪さを払拭するために長久元年と改元された。また、女御・生子の弟・通基が20歳で亡くなったおかげで喪に服した生子は内裏を退出することとなり、禎子と尊仁は楽に内裏参入が可能となった。無事に謁見を済ませると晴れて尊仁は後朱雀の皇子としての存在を公的に認められたのである。このとき能信の兄頼宗が顔をみせなかった理由が後でわかったのであるが、頼宗の娘・延子が入内したのである。頼通と通じている頼宗の娘が入内するというのは明らかに娘がいない関白頼通の身代わりといえる。
頼宗の娘延子、教通の娘真子の入内
延子は能信の兄・頼宗の娘ではあるが、関白頼通の息がかかっているから、男児を産めば翳の薄い禎子の尊仁親王の立場は飛んでしまう。この入内を追いかけるように教通の娘真子が後朱雀に入内した。生子に懐妊の兆しがないためである。かくして後朱雀の後宮は内大臣教通の娘・生子、真子や権大納言頼宗の娘延子が煌びやかに並ぶこととなり人々の目は露骨な闘争を秘めた後宮に集中したのである。禎子と後朱雀は益々隔てられ関心は薄れていった。 ところが入内争いも内裏の火事で長続きはせず、帝王の不徳の致すところということで気落ちした後朱雀は体調を崩した。 この時能信は、頼通に気兼ねをする後朱雀に、次期皇太子は尊仁であることの確約を取り付けると、翌日後朱雀はこの世を去ったのである。間一発で能信の離れ業が成功したことになった。
東宮・尊仁と茂子
後朱雀と嬉子が産んだ親仁親王が22歳で後冷泉天皇として即位したあと、東宮・尊仁は元服の日に備えて内裏の昭陽舎にはいった。いよいよ三条天皇の不運の后・妍子系の皇子は皇位に近づいた。皇子を産み損ねた妍子が悲嘆に暮れた日から側近にあった能信は苦難の日々を見続けてきたのであるが、この皇太子の後見は能信しかいない。左大臣頼通と内大臣教通がついている後冷泉とは大違いである。元服にはいった尊仁には添臥の女性が臥床につくのがしきたりであるが、候補者がいないことでもわかるように東宮尊仁の不人気をそのまま反映している。 頼通には正妻・隆子姫との間に娘はいなかったが、縁者に娘・寛子を産ませており、後冷泉に入内させる予定である。添臥の姫君に困っていたところ、尊仁にとって幼馴染である能信の娘・茂子という名を東宮から聞くこととなる。 茂子は能信の妻の弟・公成の子を能信が養子にしていた娘である。公成は権中納言までいったものの3年前に他界していた。東宮の妃としてはあまりに釣り合いがとれないが、茂子は滋野井御憩所として入内が決まった。能信の妻は後々東宮が新しい妃を迎え入れた場合に身分に差がある茂子の運命を考え不本意ではあったが運命であろう。
後冷泉天皇陵
後冷泉天皇への入内
滋野井御憩所の入内の儀が終わると人々の関心は一気に薄れ、後冷泉入内合戦が始まった。もともと入内していた章子内親王は中宮となったが子供に恵まれず、教通は美貌で絵師の才も持つ娘・歓子を26歳で入内させると、次は頼通が12歳の娘・寛子を入内させ翌年女御となった。
強運な茂子
茂子は相変わらず御憩所である。歓子や寛子は男児を出産すればたちどころに尊仁皇太子の立場が逆転する可能性があるのは延子の身分の低さによる。案の定歓子が懐妊し、翌年皇子を出産したが死産であった。その頃、茂子もひっそりと懐妊すると寛子は中宮となり章子は皇后となった。子を失った歓子は行き場がなく女御のまま止まっている。そして茂子は無事に女児を生むと聡子と名付けられた。また3年後に茂子は男児・貞仁をひっそりと出産する。この間に尊仁東宮は章子内親王の妹・馨子ケイシ内親王を迎えている。もともと身分の低い茂子には後宮での争い事は他人事という気楽さがあったためか、その後も俊子・佳子・篤子と立て続けに女児を産んだ。一方寛子は一向に懐妊しないし馨子ケイシ内親王は二人の皇子、皇女を産んだが早死にさせている。ここにくると不運な威子、禎子内親王、尊仁を引き受けた能信には唯一東宮尊仁が残り、道長の鷹司系の頼通、教通側には誰一人として皇子を産んだ妃がいないのである。そして次第に頼通も教通も東宮尊仁を認めざるを得ない状況になってくると、能信という存在が目立ち始めてきた。この時能信は59歳であったが29歳から30年間 権大納言のままであった。しかし、道長の鷹司系が枯れて高松系が今になって実を結ぼうとしているのも事実である。事態はここで急変する。 茂子が篤子内親王を産んだ2年後の1062年、あっけなくこの世を去った。能信、そして妻は悲嘆にくれたが、茂子が自分の運以上のものを残して旅立ったことに対する祝福の涙であったのかもしれない。
高松系・藤原能信の最期
すでに能信は68歳、その3年後に能信もこの世を去った。しかしその4年後の1068年に後冷泉天皇は死去し、能信が望みをかけていた尊仁がとうとう後三条天皇として即位した。 そして、母后・禎子は陽明門院として後三条の背後で勢力を持ち、頼通、教通の政治を牽制したという。そして茂子が残した貞仁親王は後に白河天皇として即位し、摂関政治は薄れていった。いうまでもなく高松系の能信の功績は大きく、白河天皇は後に「大夫どの」と敬意をこめて伝えたという。
後三条天皇陵