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藤原道長の栄華は「栄華物語」に、道長を頂点とする藤原氏全盛時代の歴史が「大鏡」に

2006年02月14日 | 平安時代

藤原道長はどのような人物だったのだろうか 

 平安末期、菅原道真が左遷されたころから宮廷は藤原氏一色になっていった。 そして藤原氏同士で勢力争いが始まるのである。 この時代一族の中から、藤原佐理(すけまさ)、藤原公任(きんとう)、藤原行成(こうぜい)などの文化肌の優れた政治家が登場している。 彼らの若い頃の秀才振りを聞かされた道長は、「かれらの顔の上を踏んづけてやる」といっている。

 道長の栄華は「栄華物語」に、道長を頂点とする藤原氏全盛時代の歴史が「大鏡」に描かれている。紫式部の源氏物語の中にも道長のことが触れられている。 「空蝉」は、光源氏の意のままにならなかった唯一の女性であると、いうように描かれている。 なんとか落とそうと、光源氏は試みるが、結局空蝉の娘・軒端の荻に手を出し、本人がなびくことはなかった。 しかし心の中では不愉快なことはなかったように書かれている。 紫式部は、一条天皇の妃・彰子に仕えながら、道長との関係はかなり濃かった。 道長は、源氏物語の執筆を楽しみにし、催促しては、紫式部を誘ったりもしている。 関係があったかどうかは定かではないが、空蝉は、紫式部自身を投影した登場人物なのではないかとも、いわれている。

 また、道長は少年時代かなり乱暴もので、妖怪がはやった当時、肝試しにでかけては生首を持ち帰るという、公任などの秀才との違いを見せている。 しかし決して学がないというわけではなく、「御堂関白記」という自筆の日記を残している。 誤字・脱字がかなり多かったらしいが、非常に几帳面に書かれており、性格が伺える。

 道長は政敵を潰していくが、自分の為に即位できなかった皇子に対しては金銭面で手厚い優遇をしている。 このように気配りこまやかな人物でもあった。

 ところが、彼はときどき病気になる。躁うつ病である。 病にかかった道長は、晩年気が弱くなっていき、加持祈祷をしてもらい、やがて仏門に帰依し、家を寺院にしてしまう。 糖尿病のせいか、背中の腫瘍の化膿がとまらず、息をひきとった。 強引ではあるが学もあり、気配りにも長けた棟梁の器をもった人物であった。 

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