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藤原頼長 源為義、源頼賢の兵を率いて忠通の別邸を襲

2006年02月14日 | 平安時代

藤原頼長1120-1156年

兼家┳ 道隆━┳ 伊周
   ┣ 道兼 ┗ 定子(一条后)

   ┣ 道長━┳ 頼通━┳ 師実━━ 師通━━ 忠実━┳ 忠通
   ┣ 道綱 ┃    ┗ 寛子(後冷泉后)     ┗ 頼長
   ┃    ┣ 教通                            
   ┃    ┣ 彰子(一条后、後朱雀、後一条母)              
   ┃    ┣ 妍子(三条后)                       
   ┃    ┣ 威子(後一条后)                      
   ┃    ┗ 嬉子(後朱雀后、後冷泉母)                 
   ┣ 超子(冷泉后、三条母)                        
   ┗ 詮子(円融后、一条母)   

 平安時代末期の貴族で、藤原忠実の次男。 母は土佐守藤原盛実の娘。関白・藤原忠通の弟で、1125年にその養子となる。  頼長は幼時より令名高く、膨大な和漢の書を読み、自宅を図書館にしていたが保元の乱で消失する。 頼長は自己主張が強く、和漢の才に富み、人を理論的にねじ伏せるタイプの人で、悪左府と呼ばれた。この場合の悪とは強いという意味である。 

  父忠実は温厚で退屈な兄関白忠通を嫌い、弟の頼長を偏愛した。頼長はかつて忠通の養子だったこともあったが、忠通に実子が生まれるとその関係に終止符が打たれ、忠通と出世を競うようになる。

 頼長は養女多子を近衛天皇に入内させ外祖父になることを望んだ。1149年、左大臣に進む。 同年、忠実は忠通の氏長者の地位を頼長へとってあたえる。1150年、頼長は源為義、源頼賢の兵を率いて忠通の別邸を襲って氏長者の印たる朱器台盤を奪い、これらを忠実は頼長に渡した。 1151年、忠実の尽力により頼長は内覧の宣旨を受ける。執政の座について朝議復興に辣腕を振るい、鳥羽法皇の寵幸を受けた。しかしながら、近衛天皇は頼長をあからさまに嫌っていた。

 1155年、近衛天皇が子なく崩御し、忠通と法皇の寵姫美福門院の推す後白河天皇が即位すると状況は一変する。近衛天皇崩御のおりに呪詛したとの噂がおこり鳥羽法皇の信頼を失い、内覧は停止され、頼長は失脚する。 頼長は局面の打開をのため、かつて鳥羽法皇から無理強いで譲位させられて以来失意にあった崇徳上皇に接近する。 1156年、鳥羽法皇が崩御すると政権奪取を図り、崇徳上皇の御所白河殿に源為義、平忠正らの武士を集めた。 後白河天皇も源義朝、平清盛らを集め一触即発の緊張が高まり、保元の乱が起こる。 戦闘は数に勝る天皇方の勝利に終わるが、 乱の収拾にあたっては中国の歴史書にかかれたような方法をとって、関係者一同を処刑している。 このあとずっと続く血生ぐさい戦乱の時代の幕開けとなるのである。まさに源平の時代である。 

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