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スサノヲの時代から栄華を極めた生野銀山

2018年05月19日 | 戦国時代

 出雲の巨大な勢力 王国 古墳時代にさきがけて造られた中国山地の鉄 石見銀山 かんなながし方法 きいがわ砂鉄と言われるように、石見銀山や生野銀山は、戦国時代よりも遥かにむかしから注目され採掘されてきたと思われる。戦国時代には、尼子氏当主・尼子晴久によって石見銀山が支配された。そして但馬国の生野銀山も、日本有数の銀山として但馬国守護大名・山名祐豊により本格的な採掘が始まったという。このとき、石見銀山から採掘・精錬技術を導入したらしい。実は生野銀山は平安時代初期807年の開坑と伝えられるが、詳細は不明である。807年とは桓武天皇が没した翌年で、平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇、仁明天皇の時代につづく。

 戦国時代にはいると、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった時の権力者の直轄地となり、佐渡金山、石見銀山とともに重要な財源となる。江戸時代に入ると生野奉行が置かれ、第三代将軍・家光の頃に最盛期を迎え、月産150貫(約562kg)の銀を産出。1705年には、「御所務山」という最上級の鉱山に指定されている。慶安年間(1648年 - 1652年)頃より銀産出が衰退し、1716年には生野奉行は生野代官と改称した。

 明治元年(1868年)からは日本の鉱業の近代化を確立するために、日本初の政府直轄運営鉱山となり、鉱山長・朝倉盛明を筆頭として、お雇いフランス人技師長ジャン・フランシスク・コワニエらの助力を得て、先進技術を導入し近代化が進められた。1889年から宮内省所管の皇室財産となり、1896年に三菱合資会社に払下げられ、国内有数の鉱山となった。

 戦後1973年、資源減少による鉱石の品質の悪化、坑道延長が長くなり採掘コストが増加し、山ハネなどにより採掘が危険となったことから閉山し1200年の歴史に幕を閉じた。坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達している。

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