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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

斎藤道三の人物像

2020年03月05日 | 戦国時代

 一介の油商人から戦国時代の象徴・美濃の国主となった斉藤道三の父は京都妙覚寺の法華宗僧侶で、美濃の侍となったときは西村と称し、美濃の有力者「長井家」に仕官、そこからさらに長井氏に紹介されて、その主人の「土岐頼芸」に仕える事となり、頼芸の側室を与えられます。しかし、彼の主人・土岐頼芸は、美濃の大名・土岐政頼とは不仲で、1527年、頼芸と共に夜襲、大名政頼を追放します。こうした急激な台頭に、長井氏も疎ましく思うと道三は長井家を乗っ取り、長井家の城 「稲葉山城」を居城とします。さらに「稲葉一徹」といった豪族を味方に引き入ます。そして、元々美濃の守護職にあった「斉藤家」を継いで 「斉藤氏」となる。道三は娘・帰蝶を土岐頼純に嫁がせると、その一年後には何故か土岐頼純死亡。次いで帰蝶を弟の土岐八郎に嫁がせると、何故か八郎は自害。道三は、土岐頼芸を孤立させたところで追放します。しかし、かつての美濃の大名「土岐家」は、美濃を取り戻そうと尾張の織田家に協力を要請、攻撃を仕かけて来ると、道三は、娘を織田家に嫁がせる事にします。相手は、尾張の風雲児「織田信長」です。斉藤道三は国内の土岐家の勢力や、土岐家に恩のあった家臣達を牽制するために、元 土岐頼芸の側室(深芳野)の妻の生んだ長男、「斉藤義龍」に家督を譲ります。義龍は土岐頼芸の子だという噂があり、道三はこれを利用して義龍に家督を譲る事で、国内の土岐家寄りの勢力をなだめようとしたのですが、その大人しい性格から、一度は義龍に家督を譲りましたが、後にそれを撤回、他の兄弟に国を継がせようとします。しかしそれが土岐家寄りの家臣達の感情を逆なでする事になり、そして義龍自身も、自分が道三によって廃されようとしているのを悟ります。1556年、斉藤義龍は他の兄弟を襲ってこれを討ち倒すと、斉藤道三を襲い、62 才にて命を失いま。(長良川の戦い) その後、斉藤義龍は、美濃の支配を強化し続けますが、1561年、34 才で病没します。後を継いだ「斉藤龍興」は僅か14 才であり、1567 年、織田家の攻撃によって美濃・稲葉山城は占領され、斉藤家は滅亡することとなります。後に稲葉山城は岐阜城と名を改め天下布武を掲げた。そうした斉藤道三の娘で織田信長の正室となったのが濃姫である。


明智光継1468-1538明智長山城主 清和源氏の土岐氏支流                     
 ┣明智光綱1497-1535   
 ┃   ┃斉藤利賢?-1586  
 ┃   ┃┣斉藤利三1534-1582   
 ┃   ┃┃ ┣福1579-1643(春日局:徳川家光の乳母)       
 ┃   ┃┃あん(稲葉一鉄の娘)        
 ┃   ┃┃     
 ┃   ┣女   
 ┃   ┣明智光秀1526?-1582 桔梗紋
 ┃   ┃┃1556 明智城の戦い@斎藤道三✖⇔〇斎藤龍興      
 ┃   ┃┃   朝倉宗高         
 ┃   ┃┃   ┗□・・・孝景(越後の守護)         
 ┃   ┃┃        ┗□・・┓        
 ┃   ┃┃1565 朝倉義景1533-1573(第11代最後の当主、政務は宗滴)に出仕      
 ┃   ┃┃1570 金が崎の戦い@織田信長✖⇔〇朝倉義景       
 ┃   ┃┃   姉川の戦い@織田信長〇⇔✖浅井長政        
 ┃   ┃┃   野田、福島城の戦い@織田信長✖⇔〇三好三人衆         
 ┃   ┃┃1571 比叡山延暦寺焼き討ち@織田信長〇⇔✖延暦寺 ⇒近江坂本城主となる   
 ┃   ┃┃1573 槇島城の戦い@織田信長〇⇔✖足利義昭 ⇒室町幕府終焉、義昭追放     
 ┃   ┃┃1575 越前一向一揆鎮圧@織田信長〇⇔✖一向一揆衆  
 ┃   ┃┃1575 黒井城の戦い@織田信長✖⇔〇赤井直正/波多野秀治    
 ┃   ┃┃1577 黒井城の戦い@織田信長〇⇔✖赤井直正/波多野秀治 ⇒亀山城主  
 ┃   ┃┃1582 本能寺の変〇⇔✖織田信長/織田信忠 ⇒安土城、長浜城攻略  
 ┃   ┃┃1582 山崎の戦い@天王山✖⇔〇秀吉        
 ┃   ┃┣明智光春室    
 ┃   ┃┣明智光忠室    
 ┃   ┃┣珠(細川ガラシャ)1563-1600 丹後幽閉@1582
 ┃   ┃┃ ┣細川忠隆1580-1646  
 ┃   ┃┃ ┣細川興秋1583-1615 
 ┃   ┃┃ ┣細川忠利1586-1641(熊本藩初代藩主)-光尚-綱利
 ┃   ┃┃細川忠興1563-1646 縁@1584
 ┃   ┃┣織田信澄室    
 ┃   ┃妻木煕子?-1576(妻木範熙の娘)    
 ┃   ┣御ツマキ殿(織田信長側室)-1581    
 ┃お牧の方    
 ┃藤田伝五(明智重臣)?-1582    
 ┃    
 ┣明智光安1500-1556                     
 ┗小見の方(正妻)1513-1551                     
     ┣濃姫1535-1612帰蝶 信長との縁組は和睦の証    

     ┃   ┣信忠(養子)       桶狭間の戦い  
     ┃ ┏織田信長1534-1582@清須城〇3000 ⇔ 25000✖今川義元1519-1560/6/12@沓掛城   
     ┃ ┃佐久間盛重?-1560@丸根砦✖          朝比奈泰朝1538-?(掛川城主)   
     ┃ ┃飯尾定宗 ?-1560@鷲津砦✖          鵜殿長照?-1562@大高城   
     ┃ ┃佐々政次1522-1560@中島砦✖         岡部元信?-1581@鳴海城   
     ┃ ┃佐久間信盛-1582 @善照寺砦       葛山信貞?-1582@鳴海城   
     ┃ ┃織田信長-毛利良勝@桶狭間山〇     ✖今川義元@桶狭間山            
     ┃織田信秀1511-1552 ⇔ 格上の今川氏    
     ┣斉藤孫四郎?-1555 義龍に殺害された@稲葉山城    
     ┃ ⇅    
     ┃斯波義統1513-1554 (尾張守護14代当主) ✖⇔〇 織田彦五郎-1555(清州城主 尾張守護代)、家老・坂井大膳    
     ┃ ┃                        ⇅     
     ┃ ┗斯波義銀1540-1600 織田信長の庇護下に   ┏織田信光1516-1556              
     ┃                        ┗織田信秀1511-1552
     ┣斉藤喜平次?-1555 義龍に殺害された@稲葉山城     ┗織田信長1534-1582
    斉藤道三1494-1556   ⇔ 稲葉良通1515-1589(道三の家臣)                    

     ┃利政         ┣稲葉貞通  正室:斎藤道三娘   
     ┃岐阜常在寺で出家   ┣稲葉典通  正室:丹羽長秀娘                        
     ┃           ┗稲葉一通  正室:細川忠興娘・多羅     
     ┃                                         
     ┃長井家に仕官    ⇔ 織田信秀1515-1589(道三の家臣)                    
     ┃土岐家に仕官          ┣お市1547-1583   
     ┃                     ┣信長1534-1582(本能寺の変1582で、重臣・明智光秀に討たれる)   
      ┃                     土田御前?-1594   
    ┣斉藤義龍1527-1561(急死、土岐頼芸の子とも言われている)1554家督相続〇⇔✖道三1556長良川の戦い           

    ┃ ┗斉藤龍興1548-1573        美濃平定1563      
    ┃  織田信清?-?信長の姉婿(犬山城主)       柴田勝家1522-1583                  
    ┃  西濃:美濃三人衆                 丹生長秀1535-1585
    ┃  中濃:土岐一族/犬山城/鵜沼城・・   ⇔    小牧山城築城    
    ┃                 犬山城に進軍1565 丹生長秀、森可成、佐々成政 池田恒興         
    ┃                               猿啄城に進軍      丹生長秀、佐々成政    
    ┃                 烏峰城に進軍     森可成、池田恒興    
    ┃                大沢基康 ⇔  鵜沼城に進軍   藤吉郎             
    ┃       長井道利、佐藤忠能、岸信周 ⇔  信長軍                  
    ┃                   西濃:美濃三人衆 降伏                    
    ┃             稲葉山城斎藤軍 ⇔ 織田軍1567                  
    ┃       斎藤龍興は伊勢に逃亡、斎藤側竹中半兵衛は藤吉郎の軍師となる                        

   深芳野(側室)?-? ┏土岐頼芸1502-1582の愛妾、稲葉通則の娘、稲葉良通の姉 朝倉孝景急死に伴い美濃追放1548             
          ┃  ↕            
          ┗土岐頼武(政頼)?-?⇔斉藤道三                     

            ┣土岐頼純1524-1547                     
           朝倉貞景・娘 ┣                                      

               帰蝶(濃姫・北の方)1535-1612              
                  ┣                                      
               土岐八郎(自害)

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真田幸村最期の天王寺口の戦いの地

2020年01月13日 | 戦国時代

 大阪城の南約3.5キロ、一心寺の南側に隣接してある茶臼山古墳(出土品は発見されていない)で、大阪でも標高が低い5つの山のひとつ。標高26m。因みに一番低い山は天保山で4.6m。

ここは「真田幸村最期の天王寺口の戦いの地」なのである。 以下は朝日新聞の記事より抜粋。
 1615年5月7日、大坂夏の陣。すでに豊臣方の敗色は濃厚のなか、安居神社の南の茶臼山に陣取った幸村は、さらに南の徳川家康本陣を激しい突撃で混乱に陥れ、あと一歩まで追いつめる。だが、家康方の増援に阻まれ、ついには退却を余儀なくされる。そして安居神社で腰を下ろして休息しているところを、徳川方の越前兵、西尾仁左衛門に討ち取られた。後の越前藩の「首帳」で確認できる。しかし、今日の幸村の人気は何と言ってもその後の講談や軍記物語による。講談「難波戦記」では、幸村も主君の豊臣秀頼も夏の陣で死なずに薩摩に逃げ延びるし、大坂で口伝えされた別の講談にいたっては家康が倒されてしまう。明治から大正には、忍者猿飛佐助や霧隠才蔵ら「真田十勇士」が活躍する立川文庫が大ヒットする。「講談の世界での人気は3本の指に入る主人公です」というのは講談師の旭堂南海さん。計略を駆使する冷静な軍師として語られるから、主役だがあまり張り扇をパンパンたたかない。負けるのが分かって豊臣方について忠義を尽くしたところが、大阪人の判官びいきの心をくすぐる。「弱かった時の阪神タイガースが好きなのと一緒」と南海さん。同じ豊臣方の石田三成が人望のない陰謀家で、その人望のなさが敗因として語られるのとは対照的だ。 幸村人気は江戸を首都にした家康のアンチテーゼでもある。南海さんの師匠、故・3代目旭堂南陵さんは、大阪の衰退も阪神が弱いのも全部家康のせいにしてしまう「家康をののしる会」を開いて評判になった。 大阪城で月1度ごみ拾いをしているNPO法人大阪城甲冑隊は、鎧から兜まで赤で統一した幸村の「赤備え」を身につける。03年から大阪城天守閣で開かれるボール紙で甲冑を作る教室の修了者が、「多くの戦死者の上にごみが落ちているのが許せない」と始めた。甲冑隊の理事長を務める河井計実(かずみ)さん(47)は、衣装を赤備えにした理由を、「幸村は自分ができることをきちんと貫いた人。みんなが共感できる。大阪城と言えば真田と自然に決まった」と話す。 安居神社は毎年5月、幸村の慰霊をしている。近年の戦国武将ブームで参拝者が増えたこともあり、今冬には幸村の銅像を建てる。兜を脱ぎ、刀を置いて座る最期の姿。覚悟を決め、家族や豊臣家に思いをはせているという。
 大阪人は太閤さん好きと言われますが、それに劣らず人気があるのが豊臣方の武将、真田幸村です。大阪では徳川家康は、秀吉が築いた天下をかすめ取り、武士を頂点とする身分社会を作った悪玉として嫌われ者。幸村はその家康を苦しめました。大坂夏の陣の前に、故郷・信州にいた姉の夫に出した幸村最後の手紙を、大阪城天守閣で展示したことがあります。武張ったところがなく、小さい頃から修練を積んだ達筆で、落ち着いた知性が感じられた。「定めなき浮世なので一日先のこともわかりません。私などはこの世にあるとはお思いなされますな」という内容が書かれ、死を覚悟していることが分かります。それでも豊臣に忠義を尽くした。そこが共感を呼びます。冬の陣では優れた作戦で徳川方を悩ませ、夏の陣では最後まであきらめず可能性に賭けて家康の首を狙い、敵に「日本一の兵(つわもの)」とたたえられた。ただ滅びるのではなく、一矢を報い、豊臣という一時代の終わりに花を添えました。

徳川家康の勝利は茶臼山のお稲荷さんのおかげであるとして、茶臼山稲荷神社があったが、のちに堀越神社に移設されている。

近隣スポット

・真田幸村 : 安居神社 かんしずめの井戸

・徳川家康 : 霧吹きの松

・阪和商店街: 戦後の闇市発祥

冬の陣@1514で家康が使用したカルバリン砲(英より輸入)と設置位置

 

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千利休の師匠・武野紹鴎屋敷跡

2019年07月07日 | 戦国時代

 武野紹鴎1502 - 1555は、堺の豪商である。三好氏の庇護を受けて皮革・武具に関する商いを営むようになった。やがて当時の最高の文化人であった三条西実隆を訪ね、古典や和歌についての教えを受けるようになる。30歳のとき出家し、紹鷗の法名を受ける。これは一向宗との戦乱回避だという。晩年は、従五位下因幡守に叙されている。紹鴎の茶湯は、千利休、津田宗及、今井宗久にも影響を与え、利休の「術は紹鴎、道は珠光より」によって紹鴎の名声が広く知られることとなった。

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今井宗薫屋敷跡

2019年07月05日 | 戦国時代

 今井宗薫は、堺の豪商で茶人の今井宗久の長男として生まれ、茶の湯を父に学び、豊臣秀吉の近侍となった。秀吉の死後は徳川家康の寵をうけ、関ヶ原の戦いで功をあげ、河内・和泉二国の代官となった。堺市五ヶ荘花田に屋敷があったが、大坂冬の陣に際して関東に通じる嫌疑を受け、家財を没収され、大坂城に監禁された。のち、逃れて城中の様子を家康に伝え、徳川軍に従った。宗薫の屋敷は、織田有楽斎から譲り受けたもの。

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秀吉から切腹の命を受けた千利休

2019年07月05日 | 戦国時代

 千利休は1522-1591年、堺の豪商魚屋の長男・与四郎として生まれた。17歳で茶湯を学び、のちに武野紹鷗(天神の森天満宮@天下茶屋でしばしば茶会、連歌会を開催 子安石 安産祈願)に師事しわび茶を大成させた。茶の湯をもって信長に接近し、その死後は秀吉の茶頭として仕えながら、北野の大茶会を取り仕切るなど天下一の茶匠として権勢を振るったが、秀吉の怒りにふれ自刃した。現在の茶道千家の始祖であり「茶聖」と称せられている。

1522 生誕@大坂堺

   今井宗久には及ばない By 茶道具

1582 本能寺の変で茶道具の多くが灰塵

   茶の湯転換点 利休は秀吉に接近

   唐物に代わる新たな茶道具を生み出す 竹製の花入れ

   ろくろを使わない茶器「萬代」 楽家初代長次郎と組む楽茶碗 → 茶の湯の考えを変えた

   楽美術館@京都 晴明神社(利休屋敷跡の碑あり:聚楽第の北東)の南東

   京都山崎の茶室「待庵」二畳 → 戦国の世に受け入れられた 

1585 秀吉の官位・関白

   宮中のお茶会で仕切りを任されるBy秀吉の返礼

   正親町天皇から利休居士の号(僧侶に準じたもの)を授かる

   政治の裏舞台も仕切る

1586 宮中での二度目の茶会で黄金の茶室を披露 → 直心の交わり+極楽浄土

   茶畑、一番茶、新茶、

1587 大友宗麟とともに島津義久攻め

   利休の説得もあって義久は降伏

   秀吉は福岡豪商・神屋宗湛と会合 兵站商人+朝鮮出兵

   仲介は石田三成(太閤検地、刀狩で実績台頭、博多復興・太閤割り)

   豊国神社@神屋宗湛屋敷跡

   10月 大茶会@北野天満宮By九州平定を祝う → 庶民参加OK

      10日の予定が1日で終了 → 堺・千利休の面目丸つぶれ

      秀吉の命により堺の堀は埋め立てられた

1591 豊臣秀長(秀吉の実弟)の病死

   千利休は蟄居By秀吉 大徳寺三門の利休像が原因か?

   真の理由は? 

     ・裏工作に頼る政治はやめる? 下剋上防止目的 千利休は不要

     ・秀吉による大陸への侵攻表明? 千利休は反対派

     ・堺の利休から博多の神屋宗湛(兵器・運輸)へ移行か?

     ・秀吉が嫌った黒茶碗を利休は出した

   

1591 2月 蟄居を命じられた利休は京を脱して堺へ移動 細川忠興(利休七哲)が見送る

   2月28日切腹

   辞世 利休めはとかく果報のものぞかし 菅丞相になるとおもヘば

      私利休はなんと果報者だろう、非業の死を遂げて神となった菅原道真のようになるのだから 

1592 秀吉大陸侵攻

1594 秀吉は茶道具を千家へ返還

   大徳寺・聚光院では月命日の法要2/28

   非業の死を遂げたことから今も尚しのばれている

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堺鉄砲鍛冶年寄五家・榎並屋勘左衛門と芝辻理右衛門屋敷跡

2019年07月05日 | 戦国時代

 榎並屋勘左衛門は江戸時代前期の鉄砲鍛冶。 家は徳川家康の岡崎時代から鉄砲御用をつとめる。江戸幕府がひらかれると江戸に屋敷をあたえられる。以後代々鉄砲年寄役をつとめ,幕末までつづいた。堺鉄砲鍛冶年寄五家のひとつ。芝辻理右衛門は徳川家康から大坂城攻めのために鉄砲をつくることを命じられ大砲をつくったり、大坂冬の陣の前にも1,000挺の鉄砲を急ぎ製造せよという命にも応えたという。鉄砲をつくる技術はその後刃物や自転車の製造へとつながり、堺の伝統産業の基礎となっている。

隣には水野鍛錬所、600年の歴史がある刃物鍛錬所である。種子島に鉄砲が伝来した時、たばこの葉も同時に伝わった。葉を刻むための刃物が鍛錬されたことで知られる。やがて日本刀のような包丁が鋳造された。現在和包丁のシェアは堺が90% プロの料理人のほぼ全ての人が堺の包丁を使っているらしい。

法隆寺の五重塔にある四方魔除け鎌は堺で製造 300年に1回架け替え工事がある 目的は落雷防止。余分につくられた鎌は影打ちという

明治維新後の堺県は1881年に大阪府に編入

 

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細川ガラシャ隠棲の地

2019年06月10日 | 戦国時代

 細川ガラシャとは忠興の妻・細川玉子のこと。ガラシャはキリシタン名である。細川玉子の父は織田信長を討った明智光秀である。討つと同時に玉子は逆臣の娘となり不遇の人生を背負うこととなる。この時玉子は19才、二人の子とともに丹後の味土野に幽閉される。信長の死後は秀吉の計らいもあって忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻した。それまでは出家した舅・藤孝とともに禅宗を信仰していた珠だったが、忠興が高山右近から聞いたカトリックの話に心惹かれていく。1587年頃にガラシャという洗礼名を受けたが、やがて秀吉はバテレン追放令を発布。夫である忠興は受洗を棄教させようとしたが、珠は頑としてきかず、ついに忠興も黙認することになった。1600年7月、忠興は徳川家康に従い上杉征伐に出陣する。この隙に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、屋敷に火をつけて自刃した。 

細川玉子が幽閉された丹後の味土野

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赤松円心の居城・白旗城

2019年05月09日 | 戦国時代

 赤松円心(則村)は、南北朝時代の播磨守護大名で、家系は村上源氏の流れを汲む赤松氏第4代当主である。北畠親房との縁により、後醍醐天皇方に参戦した際に北畠家 の属する村上源氏の末裔を自称することを許可された説があるが、定かではない。赤松本城・白旗城は兵庫県赤穂郡白旗山にある赤松三城のひとつである。

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千早城の戦いの勝者は楠木正成

2019年05月09日 | 戦国時代

元弘の乱は、天皇親政を目指した後醍醐天皇による鎌倉幕府執権北条氏討滅の戦いである。
 ・未然に発覚した正中の変(1324)の後も、天皇と北条氏の軋轢は日増しに強まり、
   たび重なる討幕計画に憤激した北条氏は武力で天皇を威圧する。
   これに耐えかねた天皇は元弘元年(1331)八月、京都を脱出して笠置山に向かう。
   元弘の乱の始まりである。
   この乱を契機にして、正成の名が頻繁に歴史に登場するようになる。
 ・楠木氏は河内地方の土豪にすぎないにも拘らず笠置山に避難した天皇が頻りに正成を頼るようになるのである。 
   この笠置山での出合いの時、天皇の眼にとまったであろう正成の軍旗が観心寺に保存されている。  
    
   笠置山と千早城に本拠地を分散 
   笠置山は六波羅軍に陥落される---後醍醐天皇捕虜 
   一方鎌倉軍は赤坂千早城に進軍@1331-9-11 後醍醐天皇捕獲を知った楠木正成は城に火を放って自刃に見せかける
   多くの焼死体を確認した幕府軍は関東へ帰還@1331-11
   
   正成勢の参集にも拘らず、笠置山の攻防は幕府軍の勝利に終わり、
   天皇は捕われ隠岐に、同道した尊良親王は土佐、尊澄法親王は讃岐にとそれぞれ配流される。
   正成は護良親王と共に赤坂城を抜け出し、捲土重来を期して幕府軍の前から姿を消す。 
 ・結果的に幕府軍の勝利に終わった笠置山の攻防であったが、
   それまで態度を保留し、形勢を観望していた、本来天皇方につくべき武士達に決起を促すことになった。
 ・1332年、正成と共に赤坂城を抜け出していた護良親王の吉野での挙兵に呼応して正成も挙兵し赤坂城を奪還、
   その奥に千早城を構築する。
   翌年二月、三十万騎近い兵を西上させた幕府軍は吉野攻撃を開始、頑強に抵抗する親王軍を攻略すると、親王は千早城へと向かう。
   (千早城は現在の大阪と奈良の県境、金剛山の中腹から西に走る尾根の末端に位置する) 
   正成はわずか一千余人の手兵で、数万の幕府軍を悩ました。
   その間、天皇方の武士の蜂起が続出し天皇が隠岐を脱出したこともそれにはずみをつけた。
   当初は幕府方であった足利尊氏も天皇方に帰順し、東国では新田義貞が挙兵、鎌倉に進撃を開始し、鎌倉幕府は滅亡した。
   翌年建武新政が成立する。最高の功労者は正成である。 

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楠木正成の生誕地

2019年05月09日 | 戦国時代

太平記には、大阪府南河内郡千早赤阪村に居館を構えていたとあることから、この地を生誕地としたのだろう。

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九度山に幽閉された真田一族

2019年05月09日 | 戦国時代

 1600年の関ケ原の戦いでは真田信繁と父・真田昌幸は西軍に、真田信繁の兄・真田信之は東軍、徳川家康側についた。結果、家康軍が圧勝し、真田家は改易。真田信繁と父・真田昌幸は高野山のふもとの九度山に幽閉された。それから十五年後、大坂の陣では徳川家康が豊臣家の滅亡を図って大阪城に攻め入った。この時真田信繁(幸村)は豊臣側について、鉄壁の真田丸を築いて徳川に対抗したことで一気に名声を世に轟かせたのであるが、関ケ原の勝者となった兄の真田信之は、いささか影が薄い。大坂の陣では中風を患って参戦せず、代わりに一族の真田信吉、信政が出陣したのである。真田信之は晩年自らを大鋒院と称して長野県松代町で過ごしたが、川中島の古戦場跡や山本勘助の墓などのすぐ近くの大鋒寺では真田信之の菩提を弔っている。 真田信之は真田家をいかに存続させていくかということに人生を費やしたといえる。

真田庵は、真田昌幸、真田幸村父子の屋敷跡に建てられたお寺

真田古墳(真田の抜け穴)

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松丸殿、秀頼の子・国松丸の五輪塔

2019年04月23日 | 戦国時代

 松丸殿とは、豊臣秀吉の側室・京極殿のことで、京極高次の妹で名は龍子である。武田元明室であったが、夫が山崎の戦後、秀吉に殺されたことで、秀吉の側室となった。1594年大坂城西丸に住み、西丸殿、伏見城に移ってからは松丸殿と呼ばれた。秀吉の寵愛を受け淀殿に次ぐ権勢を誇った。秀吉死後は兄高次のもとで生活し、関ヶ原の戦以後は京に住んだ。

 豊臣国松1608 - 1615は、豊臣秀頼の庶子。母は秀頼の側室の伊茶で、妹に天秀尼がいる。生後すぐに若狭京極家に預けられた後、乳母の兄である若狭の砥石屋弥左衛門の養子となった。大坂夏の陣のおり、国松は秀頼と5月8日に盃を交わし、田中六郎左衛門(京極家)・乳母と共に城を落ち延びた。しかし、徳川方の捜索により国松は京都所司代板倉勝重のもとに連行され、5月23日、市中車引き回しの後、六条河原で斬首。享年8。墓所は京都市中京区の誓願寺にあったが、後に東山区の豊国廟に移された。

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阿弥陀ヶ峰・豊国廟

2019年04月23日 | 戦国時代

 豊国神社の西側、京都女子大学の隣に豊国廟と言って豊臣秀吉の墓所がある。豊臣秀吉の死後間も無く作られた豊国廟は、阿弥陀ヶ峰の中腹に位置する。豊臣秀吉の死後に徳川家康に破壊され、300年ほど放置されていたという。豊国廟は、拝殿から563段の石段を登ったところ、墓所には大きな石塔がある。

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細川ガラシャ殉節の地は大阪天満橋の近く 越中井

2019年04月09日 | 戦国時代

 ここは大阪城の南、難波宮の東に位置する細川忠興の屋敷跡、そして忠興の妻・細川玉子の殉節の地である。細川玉子の父は織田信長を討った明智光秀である。討つと同時に玉子は逆臣の娘となり不遇の人生を背負うこととなる。この時19才、二人の子とともに丹後の味土野に幽閉される。信長の死後は秀吉の計らいもあって忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻した。その地が大阪城の南隣のここである。それまでは出家した舅・藤孝とともに禅宗を信仰していた珠だったが、忠興が高山右近から聞いたカトリックの話に心惹かれていく。そして洗礼を受けようと願うが、大名の妻に対するカトリックの警戒は強く、神父はその願いを聞き入れなかった。ガラシャは夫の監視を出し抜いて、洗礼を受けることに成功する。侍従の清原いとが先に洗礼を受けてもらい(清原マリア)、神父の代理となる。その後清原マリアがガラシャに洗礼を授けたのである。このガラシャという洗礼名はラテン語のグラーティア「恩寵」に由来する。1587年頃にガラシャという洗礼名を受けたが、やがて秀吉はバテレン追放令を発布。夫である忠興は受洗を棄教させようとしたが、珠は頑としてきかず、ついに忠興も黙認することになった。

1600年7月、忠興は徳川家康に従い上杉征伐に出陣する。この隙に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川忠興屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶する。そして侍従の清原いとなどを逃がした後、家来に自分の胸を突かせ、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、屋敷に火をつけて自刃、家来たちも皆後を追って切腹して果てた。これが世に言う関ケ原の戦いの始まりとも言えるのである。ガラシャの死を知った細川忠興陣は、関ヶ原の戦いでは勇猛果敢に戦いを繰り広げたというから、東軍勝利に多大な影響を与えたに違いない。

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真田家存亡の危機から救った真田信之

2019年02月10日 | 戦国時代

 1600年の関ケ原の戦いでは真田信繁と父・真田昌幸は西軍に、真田信繁の兄・真田信之は東軍、徳川家康側についた。結果、家康軍が圧勝し、真田家は改易。真田信繁と父・真田昌幸は高野山のふもとの九度山に幽閉された。それから十五年後、大坂の陣では徳川家康が豊臣家の滅亡を図って大阪城に攻め入った。この時真田信繁(幸村)は豊臣側について、鉄壁の真田丸を築いて徳川に対抗したことで一気に名声を世に轟かせたのであるが、関ケ原の勝者となった兄の真田信之は、いささか影が薄い。大坂の陣では中風を患って参戦せず、代わりに一族の真田信吉、信政が出陣したのである。

 真田信之は晩年自らを大鋒院と称して長野県松代町で過ごしたが、川中島の古戦場跡や山本勘助の墓などのすぐ近くの大鋒寺では真田信之の菩提を弔っている。 真田信之は真田家をいかに存続させていくかということに人生を費やしたといえる。

大鋒院、長野県松代町は川中島の古戦場跡のすぐ近く

 1600年7月、豊臣家に反旗を翻した上杉家の征伐の途中で真田一族に石田三成から密書が届いた。家康不在の隙を突いて三成が反徳川の兵をあげたという。ついては三成の西軍につくように依頼する内容であった。真田一族は三成、家康のどちらに就くかを迫られた。信之の正妻は家康の重臣・本田忠勝の娘であり、弟信繁の正妻は西軍の首謀者・大谷吉継の娘である。昌幸は西軍に就くことを表し、弟・信繁も賛同した。しかし信之は異を唱え東軍家康側についた。関ケ原の戦いはわずか一日で東軍の勝利となり、父・昌幸、弟・信繁は敗者となった。勝者となった信之は約10万石の大名となり、敗者となった昌幸(第二次上田合戦では秀忠は昌幸に足止めをくらった)には徳川秀忠が怒りを表し処刑すべしとした。しかし真田信之は徳川家に命懸けの嘆願を行い処刑は免れている。かくして父と兄は罪を減じられて九度山に幽閉となったのである。

信繁の正妻は西軍の首謀者・大谷吉継の娘

 以降真田信之は江戸幕府を支えていくこととなる。しかし信之の大名としての領国経営は浅間山噴火、江戸幕府普請、父・弟の幽閉性格をさせるなど困難を極める中、1611年に幕府から赦免されることなく父昌幸は幽閉先で亡くなった。江戸幕府開府した家康にとって豊臣家の排除は必要。かくして1614年方広寺正鐘銘事件が起こり大坂冬の陣に突入した。九度山から呼び戻された信繁は信濃一国を与えるといった信之の説得にもかかわらず1614年10月大阪城に入城した。大阪城に集まった浪人は10万人、対する幕府軍は20万で大阪城を包囲、大坂冬の陣が始まったのである。幕府に許可を得た信之は真田信吉、信政に従軍させている。ここで信繁は徳川の大軍勢を破る。これは真田丸によるものと考えられている。

真田丸ゆかりの地

 しかし大砲による集中砲火によって豊臣方は動揺し、1614年12月一時的な講和が成立。講和から半年後、真田丸は撤去、外堀は埋められ大坂夏の陣が始まると、家康の本陣を目指した信繁は壮絶な死を遂げた。弟の名声が高まる中、信之には嫌疑がかけられたが、将軍秀忠は信之の忠義を認めたという。かろうじて真田家の存続は保たれたのである。しかしながら実際には徳川を裏切って信繁の加勢をしたものが信之の配下には居たという。それらは家族とともにことごとく京都に送られて処刑された。信之はかくして真田の家名を守るために、幕府からの疑念を振り払っていたのである。

真田信繁の子・真田幸昌は秀頼の切腹に殉じた

 

真田弾正忠幸隆 1513-1574(武田二十四将)     
  ┣真田信綱1537-1575(武田二十四将 長篠合戦で戦死)  
  ┣真田昌輝1543-1575(武田二十四将 長篠合戦で戦死)
  ┣真田信尹1547-1632(分家である旗本真田家を興した) 
 ┃山手殿?-1613 
  ┃  ┣真田信之1566-1658(信濃上田藩の初代藩主)  
  ┃  ┃ ┣真田信吉1595-1635(清音院殿?-1619(真田信綱の娘)大坂の陣で敗走)      
  ┃  ┃ ┣真田信政1597-1658(大坂の陣で敗走 信濃松代藩の第2代藩主)
  ┃  ┃ ┣真田信重1599-1648
  
┃  ┃本多忠勝の娘・小松姫1573-1620 
      

  ┃  ┃
  
┃  ┣真田信繁1567-1615(大坂夏の陣で戦死) 

  ┃  ┃ ┣ 真田幸昌1600-1615(秀頼の切腹に殉ずる)     
  ┃  ┃竹林院?-1649(側室 大谷吉継の娘) 
      
  ┃  ┃
  ┃  ┃
  
┃  ┣村松殿1565-1630 
      
  ┣真田昌幸1547-1611(九度山幽閉中に没す)

  ┃  ┣真田信勝 ?-1609(母は不詳)
  ┃  ┗真田昌親1583-1632(母は不詳 関ケ原では信之側の東軍)
  ┃  
河原隆正の妹・恭雲院?-?

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