初めて戦国大名になったとされる北条早雲、500年前小田原を攻め取り5代に渡って拠点とした様子が記載されているのが北条五代記といって小田原城に残されている。家臣が記した軍記物語である。元々は浪人、初陣は56歳といわれていたが、これはあやまりで32歳のようである。最近の研究では浪人ではなく、幕臣であったと考えられる。早雲の元々の名は伊勢新九郎。伊勢氏は鎌倉幕府以来の名門で室町幕府では財政をつかさどる政所のトップを代々務めた。伊勢新九郎盛時の名が将軍側近の要職申し次衆として記されている。これは守護と将軍の仲立ちをするような要職である。
元々伊勢氏の出身で実力でのし上がってきた戦国大名の筆頭である。早雲は出家号であり、伊勢長氏、盛時との説があるがはっきりはしていない。早雲の父は伊勢盛定、母は伊勢貞国 (室町幕府の執事で子に伊勢貞親がいる。室町将軍の足利義教・義勝・義政の3代に仕える)の娘である。北条氏は鎌倉時代に執権を世襲する勢力であったが、足利氏に滅ぼされた後は伊豆の地方豪族に没落した。伊勢氏は関西地方を基盤としたが関東へ進出する際に北条の姓を得るために婿入りしたと考えられる。 関東・駿河に名を上げようと下ったのは1490年頃で、早雲の妹が駿河守護の今川義忠の側室(北川殿という)として竜王丸(後に今川氏親)を産んでいたためである。今川家に食い込もうと駿河へ下ったときに、今川家では御家騒動が起こっており、当主義忠は亡くなり妹・北川殿との間の嫡男・竜王丸が残っていたが幼少ということもあり小鹿範満を跡継ぎにする動きがあった。つまり妹と竜王丸を排除する動きに対して待ったをかけたのである。早雲は揉め事の調停役である関東管領上杉家の家老・太田道灌をも後ろ盾にして、竜王丸を後嗣とする(この時元服して今川氏の当主・氏親と名のる)とその功により駿河に興国寺城をもらいうけ、今川氏親を補佐する。
この頃、管領・細川政元が足利義澄を立てて河内にいた将軍義稙を追放すると宣言し、1493年4月にクーデターを起こした。そして足利義澄を新将軍として擁立した。義澄にとって茶々丸は母と弟を殺した敵である。かくして早雲は隣国の伊豆を狙う(伊豆討ち入り)ことになる。早雲はこの決断をきっかけに出家し、伊勢新九郎盛時あらため早雲庵宗瑞となった。伊豆では関東堀越公方の相続争いが起こっていた。先の公方・足利政知(足利義教の子)には茶々丸という名前に似ず気の荒い息子がいたが、家督を奪うために義母・円満院とその子・潤を殺害していた(1491年)。茶々丸は主君になっていたものの真の従者はいなかったのであろう。早雲は今川氏親からも兵を借りて総勢500の軍勢で挙兵し、興国寺城を出撃すると堀越御所の茶々丸を奇襲攻めて追放したのである。一見容易く追放し滅ぼしたようにも見えるが、茶々丸追討に5年もの歳月を要したという説もある。この時早雲が恐れていた上杉の援軍は来なかった。この頃上杉家は山内上杉家と扇谷上杉家とに分裂し勢力争いを繰り広げていた。早雲は扇谷上杉家と同盟を結び、茶々丸支持派だった山内上杉家の動きを封じ込めていたのである。こうして早雲は伊豆をも領国とし一気に関東領土を手中にしようと目論んだ。さらには隣の相模・小田原を狙ったのである。当初小田原の大森氏は勢力もあり手を出せない状態であったが、小田原城主大森氏が急死し、藤頼という若い城主が後を継いだときに、早雲は贈り物をして親交を深めることに努力をした。これにより大森氏の隙を突いた早雲は、一気に小田原城に攻め入り落としたのである。小田原城は後に豊臣秀吉に滅ぼされるまで5代に渡って栄えることになる。
早雲が次に狙ったのは三浦半島一帯を勢力圏に持つ三浦氏である。三浦氏といえば、鎌倉時代からの名族であり、上杉氏の一族である当主・三浦義同(道寸)とその息子・義意は三浦半島一帯の豪族である。そして新井城という難攻不落の名城を持っていた。三浦同寸は相模を拠点に太平洋の海運を取りしきっていた。大森氏と姻戚関係にある三浦氏は将来の禍根になりかねないと考え、この難攻不落の三浦氏に対して海上、陸上を封鎖することによって三浦氏の篭城作戦に対抗した。1513年早雲58歳の時、新井城に籠城する同寸を包囲するがなんせ難攻不落である。おりしも八丈島の代官が三浦半島に来ると聞きつけ、生け捕りにすると、早雲は代官の弟を説得し、代官を寝返らせることに成功した。八丈島との繋がりを絶たれた同寸は次第に勢いをなくし、やがて1516年早雲は同寸を滅ぼし、八丈島を支配下に置いた。この時早雲61歳であったという。八丈島では桑が群生し、蚕の要職が盛んであり、絹織物が発達した。絹織物の長さが八丈であったことから、八丈島の名が残っているという。三浦氏滅亡の3年後の1519年8月に早雲はその生涯を閉じた。後に早雲の曾孫の氏政は江戸に新たな宿場町を置き街道を整備し、世田谷を自由に商いができる楽市とした。そして現在の「ボロ市」に続くという。これらをうまく引き継いだのが徳川家康であり、徳川300年の礎になったのである。
上杉清子
┣足利直義1306-1352
┗足利尊氏1305-1358
┃┣義詮1330-1367 ┏憲忠1433-1455
┃┃┃藤原慶子 関東管領上杉氏 ↑
┃┃┃┣義持1386-1428 管領斯波義将⇔朝廷 享徳の乱1455-
┃┃┃┃ ┣義量1407-1425 ↑ ↓
┃┃┃┃日野栄子 武者小路隆光 三宝院満斎↓┏成氏1438-1497
┃┃┃┃ ┣━━━━ 娘 関東公方足利持氏 小笠原元長娘,政清娘(南陽院殿) 不要な人物は居ない
┃┃┃┃ ┗円満院 ┣細川澄之 ┣北条氏綱1487-1541(蒜山城主→小田原城主) 勝って兜の緒を締めよ
┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃ ┣北条氏康1515-1571 臆病者→算術、兵法→合理的精神
┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 小沢原戦で初陣勝利 税一本化
┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 河越夜戦→北条氏の時代へ
┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣北条氏政1538-1590
┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗北条氏直1562-1591
┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┗上杉景虎1554-1579
┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃ ┣北条為昌1520-1542
┃┃┃┃ ┃ ┃ ┃養珠院宗栄
┃┃┃┃ ┣潤童子 九条政基 伊勢盛定?-? ┣北条氏時?-1531(初代玉縄城主)
┃┃┃┃斉藤氏 ┣義澄(清晃)⇔┏茶々丸 ⇔ ┣北条早雲1456-1519
┃┃┃┃ ┣政知1435-1491関東堀越公方 ┣北川殿?-1529
┃┃┃┣義教1394-1441(義円) ⇔ 赤松満祐 ┏貞国娘 ┣竜王丸(今川氏親1471-1526)⇔┏小鹿範満(母は上杉氏、今川忠義の従兄弟)
┃┃┃┃ ┃ ┃ ┗貞親 今川義忠1436-1476駿河守護
┃┃┃┃ ┃ ┃
┃┃┃┃ ? ┣- ┣義勝1434-1443 満元┓
┃┃┃┃ ┣宗子 ┣義政1436-1490乳母伊勢氏 管領細川持之1400-1442
┃┃┃┃ ┃-1447 ┃┃┣女児 ┗細川勝元1430-1473
┃┃┃┃ ┣義資 ┃┃今参局-1459 ┃┗政元1486-1507(明応政変)
┃┃┃┃ ┃┗重政┃┣義尚1465-1489 ┣- ┣澄之(養子)
┃┃┃┃ ┃ ┣┃日野富子1440-1496 ┏春林寺殿 ┗澄元(養子)
┃┃┃┃ ┃ ┣┃日野勝光1429-1476内大臣 ┣豊久(細川養子→出家)
┃┃┃┃ ┃ ┃┃┗娘義尚夫人 山名持豊(宗全)1404-1473播磨守護
┃┃┃┃ ┃ ┃┣義視1439-1491(義尋)
┃┃┃┃ ┃ ┃┃┣義材1466-1523⇔政元 満家(山城守護)┓
┃┃┃┃ ┃ ┗┃日野美子 妙音院 管領畠山持国1398-1455
┃┃┃┃ ┣重子1411-1463⇔今参局 畠山持富⇔┗義夏(義就)義政保護
┃┃┃┃日野重光(左大臣)1374-1413 ┗政長(勝元保護)┗畠山基家
┃┃┃┃春日局 ┗義英
┃┃┃┃┣義嗣1394-1418
┃┃┃┃┃ ┗嗣俊(鞍谷氏)
┃┃┃┃┃ 日野康子
┃┃┃┃┃ ┣-
┃┃┣義満1358-1408
┃┃┃ ┣女子
┃┃┣満詮 日野業子
┃┃紀良子
┃┃藤原仲子(崇賢門院)
┃┣基氏1340-1367
┃赤橋登子
┣直冬1327-1400
越前局