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広島-8 桜尾城跡

2020年08月13日 | 戦国時代

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広島-7 山陰の大大名となった尼子晴久の墓

2020年08月13日 | 戦国時代

 1541年には経久の後継者である尼子晴久率いる2万の尼子軍は、毛利の本拠地・吉田郡山城を攻めるが(吉田郡山城の戦い)、元就はわずか3000の寡兵で籠城して尼子氏を迎え撃った。家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏らの協力、そして遅れて到着した大内義隆の援軍・陶隆房の活躍もあって、この戦いに勝利し、その武名を天下に知らしめた。元就は1544年に、強力な水軍を擁する竹原小早川氏の養子に三男・徳寿丸を出した。そして1547年、妻・妙久の実家である吉川家に 吉川国経の外孫に当たる次男・元春を吉川氏に養子として送り込んだ。これにより「毛利両川体制」が確立し、毛利氏の勢力拡大を支えることになるのである。

  1551年、周防長門の大大名・大内義隆が家臣の陶隆房の謀反によって殺害された。毛利は陶隆房との対決を決意した。1554年、出雲では尼子氏新宮党の尼子国久・誠久らが尼子晴久に粛清されるという内紛は元就にとって好都合であった。陶晴賢(隆房より改名)の家臣・江良房栄が『謀反を企てている』というデマを流し、本人の筆跡を真似て内通を約束した書状まで偽造し、晴賢自らの手で江良房栄を暗殺させた。1555年、反旗を翻した吉見氏の攻略に手間取っている陶晴賢に対して反旗を翻した。激怒した陶晴賢は、今度は自身で20,000の大軍を率いて山口を出発した。途中、重臣・弘中隆兼の反対にも関わらず、交通と経済の要衝である厳島に築かれた毛利氏の宮尾城を攻略すべく、厳島に上陸した。しかしこれは元就の策略であり、大軍ゆえに身動きの取れない陶軍に奇襲を仕掛け、一気に殲滅してしまったのである。陶晴賢は自刃し、大内氏はその勢力を大きく弱めていくことになる(厳島の戦い)。 1557年、大内氏の内紛を好機とみた元就は、晴賢に傀儡として擁されていた大内氏の当主・大内義長を討って、大内氏を滅亡に追い込んだのである。

  1556年に粛清の混乱から立ち直った尼子氏当主・尼子晴久は、山吹城を攻略し石見銀山の支配権を維持していたが、1560年にその尼子晴久が死去する。そして尼子氏の弱体化を見て取った元就は周到に準備を重ね、ついに1562年より出雲侵攻を開始する。これに対して晴久の跡を継いだ尼子義久は、難攻不落の名城・月山富田城に籠城し尼子十旗と呼ばれる防衛網で毛利軍を迎え撃ったが、1563年に、元就は尼子氏の支城である白鹿城を攻略する。こうして元就は一代にして、中国地方11ヶ国を支配する大大名にのし上がったのである。

  乃美大方殿-1601        高橋興光┓
    ┣               高橋久光娘
  毛利弘元1466-1506(安芸吉田郡山城主) ┣幸松丸1515-1523   
      ┣毛利興元1492-1516(大内興元傘下)   
      ┣毛利元就1497-1571  ⇔ 武田元繁
      ┣女  ┣毛利隆元1523-1563
  福原広俊娘┃  ┃      ┣輝元1553-1625      
       ┃  ┃      ┃┗萩藩初代・毛利秀就1595-1651      
       ┃  ┃      ┃ ┗2綱広-3吉就1668-1694                
       ┃  ┃      ┃      ┣4吉広-5吉元1677-1731
       ┃  ┃      ┃      亀姫     ┣6宗広-7重就1725-1789 
       ┃  ┃      ┃          品姫   ┣8治親-9斉房1782-1809  
       ┃  ┃      ┃                 登代姫  ┣10斉熙-11斉元1794-1836
       ┃  ┃      ┃                   幸姫       ┣12斉広-13敬親-14元徳
       ┃  ┃      ┃                                     由美姫
       ┃  ┃      ┃            
        ┃  ┃大内義興┏尾崎局(養女)1527-1572      
        ┃  ┃  ┗大内義隆1507-1551 ⇔ 陶隆房(晴賢) ⇔ 相良武任     
        ┃  ┃     ┣-     (義隆討つが厳島の戦で元就来島水軍に敗れる)
        ┃  ┃   万里小路秀房娘貞子      
        ┃  ┣長女(高橋氏の養女)      
        ┃  ┣五龍局(宍戸隆家室)-1574      
        ┃  ┣吉川元春1530-1586      
吉川経基    ┃  ┃  ┣吉川元長1548-1587    
 ┃(藤原南家)┃  ┃  ┣毛利元氏1556-1631    
 ┣吉川国経  ┃  ┃  ┣吉川広家1561-1625     
 ┃┣元経1459-1522┃新庄局(熊谷信直娘)-1606       
 ┃┣経長     ┣小早川隆景1533-1597    
 ┃┗妙玖 1499-1546  ┣小早川秀包1567-1601     
 ┃           ┣小早川秀秋1582-1602   
 ┗長女        ┏正平娘     ┣羽柴秀行     
   ┃        ┗繁平1542-1574 毛利輝元養女
   ┣政久1488-1518 
   ┃ ┗晴久1514-1561(1540年毛利征伐で敗走)    
   ┣国久 ┣義久1540-1610     
   ┃ ┗娘    
   ┣塩治興久     
 ┏尼子経久1458-1541(宇多源氏)        
尼子清定-1478(出雲守護代) 

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広島-6 山陰の覇者・尼子経久と家臣・山中鹿之助

2020年08月13日 | 戦国時代

 ここは島根県出雲、足立美術館のすぐ近くにあるのは山陰の覇者尼子氏の本拠地である。尼子経久1458-1541の時代に基盤を作り、嫡男政久およびその次男晴久の時代に大大名となり、山陰の覇者となった。北条早雲と並ぶ下剋上の人で、毛利元就や宇喜多直家と並ぶ謀略の天才とも云われる。大内義興との戦で尼子氏の領地をひろげ基礎を作ったことから、経久、元就、直家は中国の三大謀将と称される。

 守護代の地位につき、出雲大社の造営を行ったうえで宍道氏との婚姻関係を進め、出雲の統治者となる。しかし、抵抗する出雲国内の動きもあり、出雲国内を完全に掌握したのはそれから10年以上を経ている。1537年、経久は家督を嫡孫の詮久(尼子晴久)に譲り、同年には大内氏が所有していた石見銀山を奪取している。東部への勢力を更に拡大すべく播磨守護の赤松政祐と戦い大勝。1539年、別所氏が籠城する三木城に尼子方へと寝返らせる。しかし大友氏が大内氏と和解、尼子氏との和睦を破棄され石見銀山を奪回され、詮久は出雲国へと撤退した。これにより大内氏との和睦は完全に破綻し、1540年大内氏との早期決戦を目指し大内氏勢力下にある毛利氏の討伐のため詮久は出陣。尼子氏有利の状況下で大内との決戦に備えるが、激戦の末に敗北して尼子氏は安芸での基盤を失った。(吉田郡山城の戦い)

  乃美大方殿-1601        高橋興光┓
    ┣               高橋久光娘
  毛利弘元1466-1506(安芸吉田郡山城主) ┣幸松丸1515-1523   
      ┣毛利興元1492-1516(大内興元傘下)   
      ┣毛利元就1497-1571  ⇔ 武田元繁
      ┣女  ┣毛利隆元1523-1563
  福原広俊娘┃  ┃      ┣輝元1553-1625      
       ┃  ┃      ┃┗萩藩初代・毛利秀就1595-1651      
       ┃  ┃      ┃ ┗2綱広-3吉就1668-1694                
       ┃  ┃      ┃      ┣4吉広-5吉元1677-1731
       ┃  ┃      ┃      亀姫     ┣6宗広-7重就1725-1789 
       ┃  ┃      ┃          品姫   ┣8治親-9斉房1782-1809  
       ┃  ┃      ┃                 登代姫  ┣10斉熙-11斉元1794-1836
       ┃  ┃      ┃                   幸姫       ┣12斉広-13敬親-14元徳
       ┃  ┃      ┃                                     由美姫
       ┃  ┃      ┃            
        ┃  ┃大内義興┏尾崎局(養女)1527-1572      
        ┃  ┃  ┗大内義隆1507-1551 ⇔ 陶隆房(晴賢) ⇔ 相良武任     
        ┃  ┃     ┣-     (義隆討つが厳島の戦で元就来島水軍に敗れる)
        ┃  ┃   万里小路秀房娘貞子      
        ┃  ┣長女(高橋氏の養女)      
        ┃  ┣五龍局(宍戸隆家室)-1574      
        ┃  ┣吉川元春1530-1586      
吉川経基    ┃  ┃  ┣吉川元長1548-1587    
 ┃(藤原南家)┃  ┃  ┣毛利元氏1556-1631    
 ┣吉川国経  ┃  ┃  ┣吉川広家1561-1625     
 ┃┣元経1459-1522┃新庄局(熊谷信直娘)-1606       
 ┃┣経長     ┣小早川隆景1533-1597    
 ┃┗妙玖 1499-1546  ┣小早川秀包1567-1601     
 ┃           ┣小早川秀秋1582-1602   
 ┗長女        ┏正平娘     ┣羽柴秀行     
   ┃        ┗繁平1542-1574 毛利輝元養女
   ┣政久1488-1518 
   ┃ ┗晴久1514-1561(1540年毛利征伐で敗走)    
   ┣国久 ┣義久1540-1610     
   ┃ ┗娘    
   ┣塩治興久     
 ┏尼子経久1458-1541(宇多源氏)        
尼子清定-1478(出雲守護代) 

 

 山中鹿之助は尼子氏の家臣で、池波正太郎や童門冬二などが小説でよく取り上げている。本名を山中幸盛といい鹿介は通称である。尼子三傑の1人で、「山陰の麒麟児」の異名を取る。尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという逸話があるからか、三日月の前立てに鹿の角の脇立ての冑をした姿で知られていて、月山富田城跡に建つ、幸盛の銅像もこの姿である。

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広島-5 岩国吉川家墓所

2020年08月09日 | 戦国時代

 岩国藩は、現在の山口県岩国市を本拠地に江戸時代を通じて長州藩毛利家一門の吉川家が領主を務めた。

長州藩の支藩ではあるが、幕府にはその届けを出していないにもかかわらず、幕府からは3万石の外様大名格として扱われ、岩国藩が認められたのは明治新政府による。

毛利元就の次男・吉川元春を祖とし、元春の次男吉川広家が初代領主となる。1600年、関ヶ原の戦いで毛利輝元は西軍大将に祭り上げられ敗戦したことで、毛利家は取り潰しとなるところであったが、、吉川広家は事態収拾のために奔走し、毛利家は改易は免れ、大大名から2カ国の国持ち大名クラスへと大幅に減封された。かくして吉川広家は、毛利東の守りとして、岩国に3万石を与えられ着任した。輝元庶家の1つでしかない岩国藩吉川家が冷遇された感がある。岩国3代藩主・吉川広嘉1621-1679は1621年吉川広正の長男として萩に生まれ、1663年、父の隠居により家督を継ぎ、後年の錦帯橋架橋にも繋がる人脈を構築した。

  乃美大方殿-1601        高橋興光┓
    ┣               高橋久光娘
  毛利弘元1466-1506(安芸吉田郡山城主) ┣幸松丸1515-1523   
      ┣毛利興元1492-1516(大内興元傘下)   
      ┣毛利元就1497-1571  ⇔ 武田元繁
      ┣女  ┣毛利隆元1523-1563
  福原広俊娘┃  ┃      ┣輝元1553-1625      
       ┃  ┃      ┃┗萩藩初代・毛利秀就1595-1651      
       ┃  ┃      ┃ ┗2綱広-3吉就1668-1694                
       ┃  ┃      ┃      ┣4吉広-5吉元1677-1731
       ┃  ┃      ┃     亀姫     ┣6宗広-7重就1725-1789 
       ┃  ┃      ┃        品姫  ┣8治親-9斉房1782-1809  
       ┃  ┃      ┃             登代姫  ┣10斉熙-11斉元1794-1836
       ┃  ┃      ┃               幸姫       ┣12斉広-13敬親-14元徳
       ┃  ┃      ┃                             由美姫
       ┃  ┃      ┃            
        ┃  ┃大内義興┏尾崎局(養女)1527-1572      
        ┃  ┃  ┗大内義隆1507-1551 ⇔ 陶隆房(晴賢) ⇔ 相良武任     
        ┃  ┃     ┣-     (義隆討つが厳島の戦で元就来島水軍に敗れる)
        ┃  ┃   万里小路秀房娘貞子      
        ┃  ┣長女(高橋氏の養女)      
        ┃  ┣五龍局(宍戸隆家室)-1574      
        ┃  ┣吉川元春1530-1586      
        ┃  ┃  ┣吉川元長1548-1587    
        ┃  ┃  ┣毛利元氏1556-1631    
        ┃  ┃  ┣吉川広家1561-1625岩国領主初代     
        ┃   ┃新庄局    ┣吉川広正1601-66岩国領主2代(正室:高玄院)   
        ┃  ┃(熊谷信直娘)┃  ┗吉川広嘉1621-79 3代(母:竹姫) 
        ┃  ┃   若林藤兵衛娘 ┗吉川広紀1658-96 4代(母:天長院) 
        ┃  ┃                               ┃ ┗磯姫 
        ┃  ┃                               ┗吉川広逵1695-15 5代(母:喜井) 
        ┃  ┃                                    ┗吉川経永1714-64 6代(母:多喜) 
        ┃  ┃                                  ┣佐久姫
        ┃  ┃                     ┣益姫 
        ┃  ┃                     ┣三千菊姫 
        ┃  ┃                                  ┗吉川経倫1746-03 7代(母:?、正室:華厳院)
        ┃  ┃                       ┣吉五郎  
        ┃  ┃                       ┣万千代姫
        ┃  ┃                       ┣順姫  
        ┃  ┃                       ┣勝姫 
        ┃  ┃                                    ┗吉川経忠1766-03 8代(母:多芽、正室:悌 - 喬松院)病死
            ┃  ┃                       ┣吉川経賢1791-07 9代(母:?)
        ┃  ┃                       ┣吉川経礼1793-37 10代(母:?、正室:円成院、後妻:成豊院) 
        ┃  ┃                                    ┃ ┗憲太郎
            ┃  ┃                       ┗吉川経章1794-44 11代(母:?)
        ┃  ┃                         ┗吉川経幹1829-67 12代(母:清操院)芸州口戦で幕府軍を撃退
        ┃  ┃                                            ┗数姫
吉川経基    ┃  ┃   
 ┃(藤原南家)┃  ┃
 ┣吉川国経  ┃  ┃    
 ┃┣元経1459-22  ┃       
 ┃┣経長      ┣小早川隆景1533-1597    
 ┃┣妙玖 1499-1546   ┣小早川秀包1567-1601     
 ┃┗経世          ┣小早川秀秋1582-1602   
 ┗長女┗経高1525-1601 ┏正平娘     ┣羽柴秀行     
   ┃          ┗繁平1542-1574 毛利輝元養女
   ┣政久1488-1518 
   ┃ ┗晴久1514-1561(1540年毛利征伐で敗走)    
   ┣国久 ┣義久1540-1610     
   ┃ ┗娘    
   ┣塩治興久     
 ┏尼子経久1458-1541(宇多源氏)        
尼子清定-1478(出雲守護代)

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広島-4 毛利家、福島家、浅野家が入城した広島城

2020年08月07日 | 戦国時代

 広島城は毛利輝元が築城した名城であったが、第二次世界大戦で倒壊。現在の城は戦後復興によるものである。もともと中国地方は毛利輝元が治め、広島城を築城したが、関が原の戦いで総大将として参戦し大敗した毛利輝元は周防、長州の2国に減封されて、安芸・備後の2国は福島正則が入封した。しかし福島正則は大阪夏の陣がおわった1619年に広島城を無断で改修したことで武家諸法度違反の罪で大幅に減封の上、信濃川中島藩に転封となった。これに代わって紀州藩より豊臣政権下で五奉行の浅野長政(秀吉の正妻・ねねとは兄妹で、父・長勝は浅野宗家・広島藩主で安芸藩主である)の次男・浅野長晟が入封することとなった。長晟は福島氏政策を踏襲する一方、土豪に対しては厳しく臨み、統治の近代化を目指したという。長晟の次男・光晟は第2代藩主となって街道整備に尽力するなどして松平姓を名乗ることを許されている。光晟の長男・綱晟は第3代藩主となり、正室、継室にいずれも左大臣・九条道房の娘を迎えた。道房の母は豊臣秀勝の娘・豊臣完子であり、浅野宗家は豊臣氏の血を女系で受け継ぐ事になるのである。綱晟の長男・綱長が第4代藩主の時代1701年に、分家の赤穂藩主・浅野長矩が刃傷事件を起こす。この時、宗家への連座を避けるべく色々と働いたが、この頃から財政は悪化に転じたために藩制改革に取り組んだが失敗している。

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広島-3 岩国藩主・吉川広嘉と城下町

2020年08月06日 | 戦国時代

 岩国第3代藩主・吉川広嘉1621-1679は錦帯橋をかけた人物ということでここ岩国の藩邸跡には吉川広嘉の銅像が立っている。一帯には岩国藩家老・香川家の長屋、吉川資料館、吉川家墓所のほかに岩国シロヘビの館があり、岩国でのシロヘビ伝承を説明しているらしい。白蛇を神として崇める風習が岩国各地に残っており、白蛇の脱け殻を財布に入れておくと金運が舞い込むとか、納屋や家屋に住み着くとその家は栄えると言われている。

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広島-2 岩国藩主・吉川広嘉が建造した岩国の錦帯橋

2020年08月05日 | 戦国時代

 初代岩国領主・吉川広家の治世以来、岩国城と錦川を挟んだ城下町をつなぐ橋は、洪水のたびに流失していたという。そこで3代領主の広嘉は、洪水に耐えられる橋を造ることに着手する。橋脚がない跳ね橋を川幅200mの錦川にかけるのは困難であった。が、弓なりに反ったかき餅を見て橋の形のヒントを得たという。1673年、錦帯橋は完成、以降補強工事を伴って250年以上その姿を保ったという。補修費用のために身分を問わず税徴収されたが、武士や商人だけでなく、一般の人が渡れるようになるのは明治に入ってからである。

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広島-1 毛利輝元を支え、中国一帯を支配した小早川隆景

2020年08月04日 | 戦国時代

 広島県三原市の人物といえば、1567年にこの地に三原城を築いた戦国武将・小早川隆景。中国地方の覇者として君臨した毛利元就の三男に生まれ、豊臣秀吉、黒田官兵衛などからも知将と称えられ重用された賢人である。毛利氏のルーツは名門・大江広元(鎌倉幕府を開いた源頼朝に仕えた重臣)で、現在の安芸高田市吉田町付近に移住してきたのがはじまりだという。当時の中国地方は、山陰方面を支配する尼子氏と瀬戸内海側を支配する大内氏に挟まれていた。大内氏と手を組んだ元就は、1540年に尼子氏から攻撃を受けるが、これを撃退(郡山合戦)したことで勢力を拡大していった。かくして瀬戸内海に強力な水軍を持っていた小早川氏に三男の隆景を、安芸・石見を拠点にしていた吉川氏へ次男の元春を送り込み、山陽・山陰方面を固めていく。

 厳島合戦で陶氏を破った毛利元就は、家督を長男・隆元に譲るが、1563年に隆元が急死したことで隆元の子・輝元が毛利の家督を継ぎ、次男の吉川元春と三男の小早川隆景の二人が、甥の輝元をバックアップする。武勇に優れた元春と、知略の才を持つ隆景を「両川」と呼んだ。両川体制の活躍により、毛利氏は中国地方を統一し120万石の大大名となる。隆景は12歳で安芸の竹原小早川家の養子となり、1551年には19歳で小早川本家である沼田小早川家の家督を継ぐ。1567年、瀬戸内海の交易路としての有用性に気づいた隆景は、三原の湾内に浮かぶ大島、小島をつなぐ三原城を築いた。築城以来一度も兵火の経験を持たなかった三原城は、小早川氏以降、福島氏、浅野氏の支城として栄えた。

  乃美大方殿-1601        高橋興光┓
    ┣               高橋久光娘
  毛利弘元1466-1506(安芸吉田郡山城主) ┣幸松丸1515-1523   
      ┣毛利興元1492-1516(大内興元傘下)   
      ┣毛利元就1497-1571  ⇔ 武田元繁
      ┣女  ┣毛利隆元1523-1563
  福原広俊娘┃  ┃      ┣輝元1553-1625      
       ┃  ┃      ┃┗萩藩初代・毛利秀就1595-1651      
       ┃  ┃      ┃ ┗2綱広-3吉就1668-1694                
       ┃  ┃      ┃      ┣4吉広-5吉元1677-1731
       ┃  ┃      ┃     亀姫     ┣6宗広-7重就1725-1789 
       ┃  ┃      ┃        品姫  ┣8治親-9斉房1782-1809  
       ┃  ┃      ┃             登代姫  ┣10斉熙-11斉元1794-1836
       ┃  ┃      ┃               幸姫       ┣12斉広-13敬親-14元徳
       ┃  ┃      ┃                             由美姫
       ┃  ┃      ┃            
        ┃  ┃大内義興┏尾崎局(養女)1527-1572      
        ┃  ┃  ┗大内義隆1507-1551 ⇔ 陶隆房(晴賢) ⇔ 相良武任     
        ┃  ┃     ┣-     (義隆討つが厳島の戦で元就来島水軍に敗れる)
        ┃  ┃   万里小路秀房娘貞子      
        ┃  ┣長女(高橋氏の養女)      
        ┃  ┣五龍局(宍戸隆家室)-1574      
        ┃  ┣吉川元春1530-1586      
        ┃  ┃  ┣吉川元長1548-1587    
        ┃  ┃  ┣毛利元氏1556-1631    
        ┃  ┃  ┣吉川広家1561-1625岩国領主初代     
        ┃   ┃新庄局    ┣吉川広正1601-66岩国領主2代(正室:高玄院)   
        ┃  ┃(熊谷信直娘)┃  ┗吉川広嘉1621-79 3代(母:竹姫) 
        ┃  ┃   若林藤兵衛娘 ┗吉川広紀1658-96 4代(母:天長院) 
        ┃  ┃                               ┃ ┗磯姫 
        ┃  ┃                               ┗吉川広逵1695-15 5代(母:喜井) 
        ┃  ┃                                    ┗吉川経永1714-64 6代(母:多喜) 
        ┃  ┃                                  ┣佐久姫
        ┃  ┃                     ┣益姫 
        ┃  ┃                     ┣三千菊姫 
        ┃  ┃                                  ┗吉川経倫1746-03 7代(母:?、正室:華厳院)
        ┃  ┃                       ┣吉五郎  
        ┃  ┃                       ┣万千代姫
        ┃  ┃                       ┣順姫  
        ┃  ┃                       ┣勝姫 
        ┃  ┃                                    ┗吉川経忠1766-03 8代(母:多芽、正室:悌 - 喬松院)病死
            ┃  ┃                       ┣吉川経賢1791-07 9代(母:?)
        ┃  ┃                       ┣吉川経礼1793-37 10代(母:?、正室:円成院、後妻:成豊院) 
        ┃  ┃                                    ┃ ┗憲太郎
            ┃  ┃                       ┗吉川経章1794-44 11代(母:?)
        ┃  ┃                         ┗吉川経幹1829-67 12代(母:清操院)芸州口戦で幕府軍を撃退
        ┃  ┃                                            ┗数姫
吉川経基    ┃  ┃   
 ┃(藤原南家)┃  ┃
 ┣吉川国経  ┃  ┃    
 ┃┣元経1459-22  ┃       
 ┃┣経長      ┣小早川隆景1533-1597    
 ┃┗妙玖 1499-1546  ┣小早川秀包1567-1601     
 ┃            ┣小早川秀秋1582-1602   
 ┗長女        ┏正平娘     ┣羽柴秀行     
   ┃        ┗繁平1542-1574 毛利輝元養女
   ┣政久1488-1518 
   ┃ ┗晴久1514-1561(1540年毛利征伐で敗走)    
   ┣国久 ┣義久1540-1610     
   ┃ ┗娘    
   ┣塩治興久     
 ┏尼子経久1458-1541(宇多源氏)        
尼子清定-1478(出雲守護代)  

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三好長慶と筒井順慶の拠点となった大和郡山城

2020年07月31日 | 戦国時代

【三好長慶年表】

1532 細川晴元に仕えた「三好長慶1522-1564の父元長」が自害(謀反の罪)

1540 越水城@西宮を本拠地とし優秀な家臣を集め、本興寺ネットワーク(貿易ルート)構築 

   琉球、明、種子島貿易

1549 江口の戦い 対する細川晴元は敗走、14歳の義輝を連れて坂本に逃走。

   三好長慶は将軍と対立することとなる

1550 足利義晴が病死 義輝は三好長慶を暗殺計画するが六角氏が両者の和睦をすすめる

   朝倉義景、長尾景虎、尼子晴久などの地方大名を栄転する一方で晴元を排除

1553 反三好派は晴元、義輝と連携 義輝挙兵@京霊山城

   三好長慶は霊山城を包囲 義輝は援護もなく晴元と近江へ逃亡

   三好長慶政権が誕生する@芥川城

1556 明の使節が来日 三好長慶は後奈良天皇とともに対面

1558 正親町天皇と三好長慶は改元 これが問題発展し義輝挙兵(朝倉、六角、斎藤、織田、毛利)

   かくして三好長慶政権は終焉 

 

 

 1559年久秀は長慶の命により大和へ兵を進めた。大和は極めて統治しにくい国であり、興福寺・東大寺の荘園などの興福寺領が主な領地であったからだ。鎌倉幕府も室町幕府も、守護を置くことは無かったこの土地で着々と勢力を拡張していた寺侍が筒井順昭であり、後に名を残す筒井順慶の父である。羽柴秀吉と明智光秀が天王山の戦いを繰り広げていたとき、大和の大名であった筒井順慶は洞ヶ峠に布陣をして、両者の戦いをじっくり見ていたという。ここから、日和見のことを洞ヶ峠などと言うのであるが、実はこの故事は真実ではないらしい。順慶は父に早くに先立たれたために、大和に乗り込んできた人物が松永久秀である。かくして順慶は大和を追い出されて放浪のたびにでることとなった。一方、久秀は順慶を大和から追い出して、東大寺や興福寺を見下ろすことができる漆喰で固められた四階櫓の多聞城を築くと実質的な領主となった。寺社の時代は終わり、武士の時代が始まったことを奈良の民に見せつけたのである。城内にある茶室では千利休を迎えて茶会が催され、茶入付藻茄子が使われている。

 こうしたとき三好長慶の後継者である義興の突然死に始まり、長慶、三好一族が次々と怪死を遂げたのである。こうして大和を手中に収めた松永久秀は居城の信貴山城を修復し、日本城郭史上初めて天守閣を作ったといわれている。こうして野望を果たした久秀は次の野望を果たすことになる。それは剣の達人でもあった室町13代将軍・足利義輝の暗殺である。長い間実権を三好長慶に奪われていた足利義輝は、三好一族の怪死に乗じて実権を取り戻そうと図った。不穏な空気が漂う中、先手を打ったのは三好側であった。1565年5月、三好、松永ら(三好長慶の甥と松永久秀の息子)はおよそ1万の大軍を率いて将軍御所を攻めて義輝を暗殺した。ところが三好家の中で内紛が勃発する。1567年久秀と対立する三好家の武将たちが1万の軍勢を率いて大和に侵攻、興福寺や東大寺に陣を構えて久秀と対峙した。半年後久秀はこれを打ち破るが、このとき大仏殿は全焼している。

 この年、後に傀儡の将軍を立てて権勢を思いのままにしようと画策していたが、久秀を襲った思いもかけない人物がいた。それが織田信長である。1568年、義輝の弟・足利義昭を奉じた信長が入京したときに久秀はあっさりと降伏。これによって宿敵筒井順慶に奪われた城を、信長の援軍を得て奪還している。久秀は信長との同盟によって大和の支配をさらに強固なものにしていく。ところがこの3年度久秀の大和支配を脅かす事態が起こった。織田信長とは友好関係にあった足利義昭(以前は興福寺の一条院門跡であった)は、娘をが久秀の宿敵筒井順慶に嫁がせ姻戚関係を結んだのである。さらに順慶は信長の家臣になることを認められた。怒った久秀は筒井順慶の家臣を攻撃したが、これは信長に対する反逆でもあった。久秀が信長軍と小競り合いをしていた、こうしたとき甲斐の武田信玄は信長打倒に乗り出した。信玄軍は三方が原で徳川織田連合軍と激突すると大勝利を収めた。喜んだのは久秀、時を同じくして将軍義昭も信長に反旗を翻した。窮地に陥った信長は信玄の上洛を待つのみだったが、信玄は都に現れることはなかった。病死していたのである。勢いを取り戻した信長は将軍義昭を追放し、久秀の多聞城を取り囲んだ。厳しい降伏条件に屈したことで久秀の大和支配は終わった。

 その後大和の支配を任されたのは筒井順慶、多聞城の解体を久秀の息子に命令した。その4年後、久秀に再びチャンスがやってきた。足利義昭の呼びかけにより大阪本願寺、上杉、武田、毛利、宇喜多など各地の大名が妥当信長のために立ち上がった。このとき久秀は織田軍の一武将として本願寺攻めの最前線にいた。かくして久秀は謀反の方向に進み、信貴山城に立てこもる。上杉謙信が打倒織田信長を表明したと聞くや反旗を翻すのであるが、謙信の上洛はならず撤退、武田も徳川家康と国境で攻めあって進めず、久秀は大和で孤立するのである。このときに追い詰められた久秀に対して織田信長は謀反の真意を聞こうと使者を送るが、久秀は会おうともしなかった。信長は大軍で信貴山城を包囲して攻撃した。挙兵から一か月半後の1577年10月10日、久秀は天守閣に火を放って自害した。

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赤穂-4 花岳寺にある森家の墓

2020年06月16日 | 戦国時代

 森家系は清和源氏の一家系、河内源氏の棟梁・八幡太郎義家の7男・陸奥七郎義隆の子孫にあたる。森氏は義隆の3男・若槻頼隆の次男・森頼定に始まる。可成の家系は頼定の次男・森定氏の子孫が美濃に住んで代々土岐氏に仕え、弟忠政の孫・長直が初代赤穂藩主となる。元々赤穂藩は池田恒興の子孫である池田政綱が1615年に藩主となったが、その子・輝興が正妻(黒田長政の三女・亀子姫)及びその侍従を殺害という狂気に走ったことで1645年に改易となった。赤穂城の明け渡し手続きで入った浅野長直が1649年に赤穂藩主となった。ところがその孫・浅野内匠頭長矩が江戸城にて刃傷事件を起こしたことで、その日の内に切腹。浅野家も改易となりお家断絶となる。次に1706年、赤穂にはいったのが森長直。備中西江原藩の第2代藩主であったが、このとき播磨赤穂藩の藩主となる。西江原藩で積極的に行っていた新田開発を赤穂でも行い、2万石の赤穂藩(浅野家のときは5万石)を盛り上げようとするが、藩財政は早くも悪化したため、今度は塩田開発に積極的に取り組んだ。播州赤穂の東浜塩田では「差塩」という"にがり"を多く含ませた塩づくりの手法(差塩製法)を秘伝としており、当時から「赤穂の塩」として全国に名を馳せていた。天塩は、この赤穂の「にがりを含んだ塩」づくりを基本姿勢とし、日本食文化が築いてきた伝統の味わいを守り続けている。江戸から明治にかけて赤穂産の塩は海路で全国各地へ搬送された。千種川の河口、市街地に面した海は遠浅のため大型船が入港できず、代わって坂越港が玄関口として栄えたという。高瀬舟で千種川を下ってきた内陸からの物資も、川沿いの船着場で一度降ろされ、坂道を通って坂越浦へ運ばれていた。1905年塩専売法が施行され、赤穂の塩の回船は衰退して行くこととなる。 

森可成1523-1570(祖は河内源氏・源義家)娘(徳寿院) 宇佐山城の戦いで討死
┣森可隆1552-1570 朝倉方の籠もる越前敦賀・手筒山城攻めで討死

┣森長可1558-1584小牧・長久手の戦で討死
┃  ┣-    
┃┏━池田せん
池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死
┃                    
┣森蘭丸1565-1582(長利)本能寺の変で討死 
┗森忠政1570-1634 美作津山藩の初代藩主
 ┗森長継1610-1698 美作津山藩の2代藩主
  ┗①森長直1673-1722(播磨赤穂初代)
   ┗②森長孝1694-1723(森長直の娘婿)
    ┗③森長生1698-1731(赤穂藩重臣の各務利直の長男 養子として家督を継)
     ┗④森政房1710-1747(各務利直の六男 養子として家督を継)
      ┗⑤森忠洪(家老・森正典の子 文人による学問的な藩政改革を行なった)
       ┗⑥森忠興1752-1784(第5代藩主・森忠洪の長男 明和・安永期の飢饉などで塩田が大被害)
        ┗⑦森忠賛1758-1837(第5代藩主・森忠洪の三男 質素倹約や塩田開発、御用金調達、「国産塩専売仕法」による塩の専売
         ┗⑧森忠哲1788-1807(第7代藩主・森忠賛の四男) 
          ┗⑨森忠敬1794-1824(第7代藩主・森忠賛の十男 塩問屋との関係強化 博文館) 
           ┗⑩森忠貫1816-1827(第9代藩主・森忠敬の長男)   
            ┗⑩森忠徳1818-1881(第9代藩主・森忠敬の三男)   
             ┗⑪森忠典1848-1883(第10代藩主・森忠徳の次男 長州征伐では幕府方として大坂警備)   
              ┗⑫森忠儀1850-1885(第10代藩主・森忠徳の三男 戊辰戦争では新政府に与して姫路藩攻撃)   
               ┗森忠恕 廃藩置県    

森家霊廟は1759年第5代藩主・森忠洪が建立したことに始まる

 

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宇喜多-3 天王原合戦古戦場跡

2020年06月13日 | 戦国時代

 この森の松は足利尊氏ゆかりの松で、その昔(1331年)新田義貞に破れ九州に落ちる途中、この地で再起を祈願した尊氏が後に願いが叶った御礼に九州日向から持ち帰り寄進した松の子孫とされ、昔から日向松と呼ばれています。森の西側は旧山陽道(現国道2号線)に接し吉井川の水運と相まって、交通の便に恵まれ、往時は刀の産地「備前長船」として栄え、その規模は「鍛冶屋1千軒打つ槌の音に西の大名が駕籠とめる」と謳われたほどで多くの名刀を産出しましたが、現在は古跡としてのみ侘びしくその名をとどめています。この森は鎮守の森として地域の人々に親しまれているだけでなく、国道を行き交う現代の旅人達の疲れた目を癒してくれています。(By 案内板)

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宇喜多-3 高尾山城跡にある宇喜多一族の供養塔

2020年06月13日 | 戦国時代

 宇喜多直家の生誕地から車で登る事数分、大雄山にある大賀島寺には宇喜多一門の供養塔がある。訪問した2020/6/11は整備中であったが、大雄山山頂には街を一望できる櫓がある。

宇喜多能家-1531(浦上氏家臣) ✖⇔〇 島村盛貫1509-1559(浦上氏家臣)
┗宇喜多興家-1536(浦上氏家臣) 
  ┣忠家1533-1609(病死)
  ┣春家?
  ┃
  ┃中山信正1510-1559(浦上氏家臣)
  ┃ ┗娘
  ┃  ┣-
  ┗宇喜多直家1529-1582 〇⇔✖ 中山信正
  ┣三浦桃寿丸?-1584
  ┣容光院?-1591
  ┃ ┣
  ┃ 吉川広家1561-1625
  ┃吉川元春┛
  ┣宇喜多秀家⑥1572-1655(八丈島に配流)
  ┃ ┣秀高⑦1598-1641@八丈島(妻:八丈島奉行奥山忠久の娘)
  ┃ ┃┗秀正⑧1648-1682(母:奥山忠次の娘)
  ┃ ┃ ┣正忠 1673-1712(母:奥山忠次の娘)浮田忠平家初代
  ┃ ┃ ┃┗正寿②-正道③1704-1750
  ┃ ┃ ┃ ┗正平④-正生⑤1740-1825
  ┃ ┃ ┃  ┗⑥正寂-⑦正定-⑧正矩-⑨正平-⑩鷹一-⑪佐武郎-⑫洋一-⑬洋志
  ┃ ┃ ┗秀親⑨1669-1712(母:奥山忠次の娘)
  ┃ ┃  ┗秀保⑩1706-1743(母:マス)
  ┃ ┃   ┗秀徳⑪?-1768(母:?)
  ┃ ┃    ┗秀道⑫?-1823(母:?)
  ┃ ┃     ┗秀美⑬?-1840(母:?)
  ┃ ┃      ┗秀邑⑭1795-1844(母:宇喜多秀徳の娘・ヤス)
  ┃ ┃       ┗秀種⑮1828-?(母:百助の娘・リカ)
  ┃ ┃        ┗秀監⑯1813-?(母:モト)
  ┃ ┣秀継1599-1657
  ┃ ┃┣秀律(半助)1638-1689 
  ┃ ┃┃┗秀真1661-1713
  ┃ ┃┃ ┗秀心-秀繁-秀玄-秀誉-秀仲?-1787
  ┃ ┃┃            ┗秀音-秀涼1782-1833-秀典-秀升-秀嗣
  ┃ ┃┃    
  ┃ ┃┃        
  ┃ ┃┣マツ1640-
  ┃ ┃┗藤松1646-
  ┃ ┣娘
  ┃ ┃┣邦尚親王1615-1654
  ┃ ┃伏見宮貞清親王1596-1664(伏見宮10代当主)
   ┃豪姫1574-1634(前田利家の4女)
  円融院1549-?(三浦氏) 

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宇喜多-2 宇喜多直家の生誕地と砥石城

2020年06月13日 | 戦国時代

 1523年隠居生活を砥石城で送っていた宇喜多能家だが、1534年高取山城主・島村豊後守に夜襲をかけられ、病床にあった能家は防戦できず自決、興家と孫直家は落ち延びた。宇喜多氏の本領を横領した島村氏だが砥石城は浦上氏によって浮田大和守に与えられた。1559年成長した宇喜多直家は主君浦上宗景の命により高取山城主島村豊後守を討ち取り舎弟の浮田春家を砥石城主とした。直家が石山城を奪い岡山城を築城すると春家は後に沼城へと移り備前平定後は廃城となった。

宇喜多能家-1531(浦上氏家臣) ✖⇔〇 島村盛貫1509-1559(浦上氏家臣)
┗宇喜多興家-1536(浦上氏家臣) 
  ┣忠家1533-1609(病死)
  ┣春家?
  ┃

  ┃中山信正1510-1559(浦上氏家臣)
  ┃ ┗娘
  ┃  ┣-
  ┗宇喜多直家1529-1582 〇⇔✖ 中山信正
  ┣三浦桃寿丸?-1584
  ┣容光院?-1591
  ┃ ┣
  ┃ 吉川広家1561-1625
  ┃吉川元春┛
  ┣宇喜多秀家⑥1572-1655(八丈島に配流)
  ┃ ┣秀高⑦1598-1641@八丈島(妻:八丈島奉行奥山忠久の娘)
  ┃ ┃┗秀正⑧1648-1682(母:奥山忠次の娘)
  ┃ ┃ ┣正忠 1673-1712(母:奥山忠次の娘)浮田忠平家初代
  ┃ ┃ ┃┗正寿②-正道③1704-1750
  ┃ ┃ ┃ ┗正平④-正生⑤1740-1825
  ┃ ┃ ┃  ┗⑥正寂-⑦正定-⑧正矩-⑨正平-⑩鷹一-⑪佐武郎-⑫洋一-⑬洋志
  ┃ ┃ ┗秀親⑨1669-1712(母:奥山忠次の娘)
  ┃ ┃  ┗秀保⑩1706-1743(母:マス)
  ┃ ┃   ┗秀徳⑪?-1768(母:?)
  ┃ ┃    ┗秀道⑫?-1823(母:?)
  ┃ ┃     ┗秀美⑬?-1840(母:?)
  ┃ ┃      ┗秀邑⑭1795-1844(母:宇喜多秀徳の娘・ヤス)
  ┃ ┃       ┗秀種⑮1828-?(母:百助の娘・リカ)
  ┃ ┃        ┗秀監⑯1813-?(母:モト)

  ┃ ┣秀継1599-1657
  ┃ ┃┣秀律(半助)1638-1689 
  ┃ ┃┃┗秀真1661-1713
  ┃ ┃┃ ┗秀心-秀繁-秀玄-秀誉-秀仲?-1787
  ┃ ┃┃            ┗秀音-秀涼1782-1833-秀典-秀升-秀嗣
  ┃ ┃┃    
  ┃ ┃┃        

  ┃ ┃┣マツ1640-
  ┃ ┃┗藤松
1646-
  ┃ ┣娘
  ┃ ┃┣邦尚親王1615-1654
  ┃ ┃伏見宮貞清親王1596-1664(伏見宮10代当主)
   ┃豪姫1574-1634(前田利家の4女)
  円融院1549-?(三浦氏) 

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宇喜多-1 宇喜多直家の居城・沼城(亀山城)

2020年06月13日 | 戦国時代

 沼城は、天文年間に浦上宗景配下の中山信正が築城した。1559年、浦上宗景の命により、宇喜多直家は義父の信正を謀殺して城主となった。1602年、岡山に移封された小早川秀秋によって廃されている。当城で生まれた宇喜多秀家(直家の子)は関ヶ原の戦いに敗れた結果、八丈島に流罪となった。以降死ぬまで赦免されることなく、妻・豪姫の実家である前田家からの仕送りによって細々と生計を立てていた。子孫が赦免されたのは明治維新後であったが、その時八丈島でソテツの花が咲いた(赦免花)という言い伝えから、ここ沼城跡にはソテツが植えられている。

宇喜多興家-1536浦上氏家臣 
 ┣忠家1533-1609
 ┣春家?

 ┃中山信正1510-1559浦上氏家臣
 ┃ ┗娘
 ┃  ┣-
 ┗宇喜多直家1529-1582
  ┣三浦桃寿丸?-1584
  ┣容光院?-1591
  ┃ ┣
  ┃ 吉川広家1561-1625
  ┃吉川元春┛
  ┣宇喜多秀家1572-1655(八丈島に配流)
  ┃ ┣秀高1598-1641
  ┃ ┣秀継高1599-1657
  ┃ ┣娘
  ┃ ┃┣邦尚親王1615-1654
  ┃ ┃伏見宮貞清親王1596-1664(伏見宮10代当主)
   ┃豪姫1574-1634(前田利家の4女)
  円融院1549-?(三浦氏) 

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越中富山・前田正甫と薬売り

2020年06月01日 | 戦国時代

 越中富山の薬売り。その元祖となったのが、富山藩2代藩主、前田正甫です。1690年、江戸城において、岩城三春の藩主、秋田河内守がにわかの腹痛に苦しみ、それを見た正甫は常備している薬「反魂丹」を印籠から取り出し飲ませたところ、たちまちのうちに痛みがおさまったという。 これを見た諸国の大名が「ぜひ拙者の国にもひろめてくだされ」 と正甫に頼み、そこで正甫は、領地から出て全国どこへでも商売ができる「他領商売勝手」を発布。これにより富山の薬売りが生まれたとのことです。 反魂旦や万金旦、そして最近ではケロリンは有名な商品で、訪れた製薬会社の展示室で飾られておりました。

 春になると立山連峰からの雪解け水により洪水をおこし、山風が大火を誘い、富山藩の財政は悪化するばかりであった。これを立て直すためにも、前田正甫が行ったのは反魂丹などの薬を生産し全国に販売することであった。富山には薬の製造に適した条件が揃っていた。立山連峰からの良質な水を大きな亀に蓄えたという。富山城の南東の清水地区には500件もの製薬工房が軒をつらね、大火のときには清水地区ではほとんど被害がなかったという。また薬が発達したのには漢方薬の知識があったからだという。中国との交易が盛んで中国人が漢方薬の原料を富山で売っていた。かくして前田正甫は薬売りを富山藩財政の根本としたのである。かくして富山藩には反魂丹役所がつくられ、薬の製造販売ルートを公認化し、富山の薬売りという仲間組を結成して値段の安定、情報の共有を図ったのである。

 しかしながら薬は高価でなかなか売れない。思いついたのが薬を置いておき、使った分だけ後で徴収するシステムであった。これは立山連峰の修験道が持っているお札を買ってもらう・先用後利というものがヒントになった。そして江戸時代半ばには東北から九州までその販売範囲は広がったという。そして懸場帳といって今でいう顧客名簿を発達させることによって、どこに、どのような薬が必要なのかを詳しく見える化。このようなサービスによって益々商売は拡大していく。実は現在でも薬売りはされている。江戸時代中期から後期にかけては臨池居といって教育機関も設けられた。幼いころから薬売りになるための英才教育が行われていたのである。

 幕末になると、全国22組に分かれて活動していた薬売りの中でも薩摩組は、薩摩への出入りを禁止された。薩摩の財政悪化が原因である。薩摩は財政再建のために、昆布を中国へ輸出しようと考えたが、これは江戸幕府の許可が必要、ご法度である。一方富山は蝦夷から物資運輸の中継地点であることから、昆布を蝦夷から運輸して、同時に薬も薩摩の人々のために届けようと考えた。かくして富山の薬売りは薩摩への出入りを許され、また薩摩は昆布を中国に輸出することで財政再建を果たし、近代化を行ったという。このような薬を通じて富山と薩摩が通じていたことはとても興味深い。

在(金晴院)     
 ┣知好1590-1628     
前田利家1539-1599(金沢藩主初代)     
  ┃┃┣利長1562-1614(加賀藩主初代)
  ┃┃┃┣-
  ┃┃┃永姫1574-1623(織田信長娘)
  ┃┃┣利政1578-1533(前田土佐守家初代)
  ┃┃┃┗直之1604-1674(前田土佐守家2代)
  ┃┃┣摩阿姫1572-1605(豊臣秀吉室)
  ┃┃まつ(芳春院)1547-1617
  ┃┃  
  ┃┣利常1594-1658(加賀藩主2代)
  ┃┃ ┣光高1616-1645(加賀藩主3代) 
  ┃┃ ┃┣綱紀1643-1724(加賀藩主4代) 
  ┃┃ ┃大姫(徳川家光養女)清泰院 
  ┃┃ ┣利次1617-1674(富山藩主初代) 
  ┃┃ ┃┣前田正甫1649-1706(富山藩主2代)
  ┃┃ ┃┃ ┣利興1678-1733(富山藩主3代)
  ┃┃ ┃┃須磨
 ┃┃ ┃八尾
 ┃┃┏珠姫1599-1622(天徳院 秀忠次女)
 ┃┃┗千姫
 ┃寿福院1570-1631
  ┣利孝1594-1637
お幸和(明運院)

 

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