将軍・足利義輝を殺害し、晩年には織田信長に仕えた松永久秀1510-1577は、京から阿波にかけて勢力を誇った大名・三好氏の家臣であった。 出自は極めて不明で、三好家の京都駐在の家臣として歴史に登場したときには壮年を迎えていた。 主君・三好長慶の右筆から次第に頭角を現し、三好家の外交を担い、最終的には信貴山城を預けられて大和侵攻の先駆を務めるようになった。 大和は極めて統治しにくい国であり、興福寺・東大寺の荘園などの興福寺領が主な領地であったからだ。 鎌倉幕府も室町幕府も、守護を置くことは無かったこの土地で着々と勢力を拡張していた寺侍が筒井順昭であり、後に名を残す筒井順慶の父である。 羽柴秀吉と明智光秀が天王山の戦いを繰り広げていたとき、大和の大名であった筒井順慶は洞ヶ峠に布陣をして、両者の戦いをじっくり見ていたという。 ここから、日和見のことを洞ヶ峠などと言うのであるが、 実はこの故事は真実ではないらしい。 順慶は父に早くに先立たれたために、大和に乗り込んできた人物が松永久秀である。 かくして順慶は大和を追い出されて放浪のたびにでることとなった。 一方、久秀は順慶を大和から追い出して実質的な領主となり野望を抱くようになる。 主君・三好家を没落させて自分が大大名にあるという謀反である。 こうしたとき三好長慶の後継者である義興の突然死に始まり、長慶、三好一族が次々と怪死を遂げたのである。 こうして大和を手中に収めた松永久秀は居城の信貴山城を修復し、日本城郭史上初めて天守閣を作ったといわれている。 こうして野望を果たした久秀は次の野望を果たすことになる。 それは剣の達人でもあった室町13代将軍・足利義輝の暗殺である。 このとき二条城を襲った久秀に対して自ら剣をふるって応戦したものの多勢に無勢であったために義輝はついに斬られてしまった。 後に傀儡の将軍を立てて権勢を思いのままにしようと画策してしてが、久秀を襲った思いもかけない人物がいた。 それが織田信長である。 義輝の弟・足利義昭を奉じた信長が入京したときに久秀はあっさりと降伏し、このとき信長に仕えて三好家の残党狩などを行っている。 しかし上杉謙信が打倒織田信長を表明したと聞くや反旗を翻すのであるが、謙信の上洛はならず久秀は大和で孤立するのである。 このときに追い詰められた久秀に対して織田信長は天下の名茶器との交換条件で助命を言ってきたが、久秀は天守閣に火を放って死んでいる。 実は松永久秀の家臣には柳生一族の創始者である柳生宗厳がいる。 柳生宗矩の父であり柳生十兵衛こと三厳の祖父にあたる。
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