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四国全土を統一した長宗我部元親

2010年05月09日 | 戦国時代

 ゴールデンウイークに強行した高知・土佐の史跡 桂浜の次は戦国の武者・長宗我部元親公の紹介です。 四国の覇者といえば、愛媛は河野氏、香川・徳島は三好氏、そして高知は長宗我部氏が支配していました。 長宗我部元親は、戦国時代の土佐の大名で、長宗我部氏第19代当主・長宗我部国親の長男にあたり、第20代当主となります。 母は美濃斎藤氏の娘。 正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹で、「元親」は管領・細川晴元の偏諱を受けたものです。 側室に明智光秀の妹の娘がいます。 土佐の国人から戦国大名に成長し、阿波・讃岐の三好氏、伊予の西園寺氏・河野氏らと戦い1575年に四国の覇者となりますが、織田信長の手が差し迫り、その後は信長の後継となった豊臣秀吉に敗れ1585年に土佐一国に減地となっています。

土佐・桂浜近くにある長宗我部元親公墓所

  

 高縄寺は、河野氏の祈願所、菩提寺として建立された寺で、河野氏が湯築城に移るまでは、高縄城があったところでもあります。  河野氏の祖は、伊予の越智氏とされ、饒速日命から出て越智国造となった小致命の子孫とされています。 藤原純友の乱の時には、純友討伐軍に加わり、その功あって越智郡の押領使となり、武士団として成長することになります。 越智氏が伊予地方における初期の土着勢力であったのに対して、河野氏は北条高縄地方にその発祥のルーツがあります。 河野氏が急成長することになるのは、頼朝による平家討伐に源氏軍として参加してからです。 義経の壇ノ浦合戦での勝敗を決定する要因になったのが義経の軍として壇ノ浦で活躍した河野氏配下の河野水軍です。 来島海峡など瀬戸内海有数の瀬戸での船の扱いに長けた河野水軍は、壇ノ浦での潮の流れをうまく活用し功績を挙げることとなります。 こうして北条地方を根拠にして、河野氏は伊予の豪族として発展していきますが、承久の乱では宮方についたため、一族は没落離散する悲運に見舞われます。 この一族悲運に出会い、一族の菩提を弔うために全国を行脚した人物こそ、鎌倉時代の新しい宗派を作り出した一遍上人そのひとで、河野通信の孫にあたります。 鎌倉幕府から足利幕府へとかけて、再び動乱の中に巻き込まれた河野通盛(通信の孫)は終始宮方と戦い、この頃に河野氏の本拠地を高縄城から平地の湯築城に移したと見られます。  湯築城に移った河野氏を待ち受けていたのは、戦国時代末期に四国統一を果たした土佐の長曽我部元親の攻撃と秀吉による四国征伐軍でした。 1585年豊臣秀吉による四国上陸作戦が敢行されると、伊予方面から小早川隆景の軍が上陸。ときの河野氏の当主は河野通直、22歳。毛利元就の厳島合戦に支援したことから河野氏と毛利氏とは深い関係になり、小早川隆景とは親戚関係に当たっていました。隆景は通直に書面で降伏を勧め、通直は家臣との合議の上即刻開城します。 小早川隆景は伊予平定の功として伊予国35万国を、安国寺恵瓊は和気郡の2万3千石を秀吉より宛がわれます。河野通直は、隆景がそのまま湯築城に留まったため、湯築城に留まりますが、隆景が筑前に配置換えになると、河野氏の行く末を心配した毛利氏は、河野通直を小早川氏と縁が深い竹原に移します。かくして河野通直は譜代の家臣50余名を引き連れて竹原に移り住みます。 竹原市にある長生寺は、河野通直が竹原に移り住んで2年後に死亡したため、その菩提を弔うために小早川隆景が建てたものです。 

 織田信長が明智光秀に本能寺にて暗殺された1582年であるが、三男の信孝に任せるつもりで四国征伐が計画されていた。 当時四国の統一を図っていたのは長曾我部元親である。 もともと土佐の領主であった長曾我部元親は三好氏を圧倒し織田信長とは同盟を結んでいた。 ところが織田信長はこの同盟を破棄して四国を織田領とする意思を固めたのである。 このときに織田政権において長曾我部元親との外交を担当していたのが明智光秀であり、重臣・斎藤内蔵助利三の妹を長曾我部元親に嫁がせており、信親を生んでいた。 かくして斎藤利三は光秀をたきつけて暗殺に持ち込んだという説がある。 この黒幕は織田信長に追放されていらい信長打倒に暗躍していた足利義昭という説や、天皇家を危うくする信長を朝廷が主導して光秀を操り織田信長を滅ぼしたという説などあるが真実は定かではない。

長宗我部国親1504-1560
 ┣長宗我部元親1539-1599
 ┃┣長宗我部信親1565-1587
 ┃┃┣娘(長宗我部盛親正室)
 ┃┃石谷頼辰娘
 ┃┣香川親和1567-1587
 ┃┣津野親忠1572-1600
 ┃┣長宗我部盛親1575-1615
 ┃┃┣盛恒、盛高
 ┃┃長宗我部信親娘
 ┃┣長宗我部右近大夫-1615(加藤清正に出仕)
 ┃石谷光政娘(明智光秀の家臣・斉藤利三妹)
 ┣吉良親貞  1541-1576(一条兼定追放)
 ┣香宗我部親泰1543-1593(安芸城主) 
 ┣島親益       -1571
斉藤氏娘

長宗我部元親公 初陣の像

   

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