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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

関ヶ原-15 八丈島で83歳まで生き延びた西軍副大将・宇喜多秀家

2011年10月16日 | 戦国時代

 関ヶ原戦では西軍副大将をつとめた宇喜多秀家は、1万7千の兵を配して中山道をおさえた。午前8時頃、東軍福島勢の猛攻から戦いは始まり、秀家の前衛明石全登の隊との激突となりました。宮本武蔵が奮戦したのもこの辺りといわれています。秀家は敗走中、池田郡白樫村の矢野五右衛門に助けられ、その後八丈島へ流され、83才まで生き延びています。(現地説明板より)

 宇喜多秀家1572-1655は備前の大名・宇喜多直家1529-1582の嫡子として生まれた。 直家は戦国大名の中でも権謀術数の達人で、始めは毛利家に味方をしていたが織田信長の勢力が強まるに連れて織田家に乗り換えることとした。 当時の織田軍中国方面司令官は羽柴秀吉である。 秀吉とともに 毛利戦を演じていたが病に倒れ宇喜田家の行く末を秀吉に託したのである。 当時10歳の嫡男・秀家に、織田信長は難色を示したが秀吉が後見をするという条件で信長を説得する。 秀家の母は備前一の美女といわれた女性で円融院1549-といい、一時は秀吉の側室であったという説もあるが定かではない。 秀吉には秀次、秀秋などの養子が何人かいたが、優秀なのは秀家のみであったということもあって秀家を特にかわいがったという。 秀吉には養女もたくさんいて、そのうち最もかわいがっていた前田利家4女・豪姫を秀家の妻としている。 秀吉の晩年には、秀家を五大老の一人に抜擢するほど頼りにしていた。 残りの五大老は徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝といったそうそうたるメンバーである。 秀吉の死後1600年に起こった関ヶ原の戦いでは、宇喜田秀家は石田三成側の西軍についた。西軍の中核である宇喜田秀家勢の奮闘により始めは西軍の優勢状態が続いた。 とこるが、多くの武将が日和見状況の中、西軍から東軍に寝返った小早川秀秋の軍勢が宇喜田秀家勢に襲い掛かったのである。 これをみた日和見勢も西軍に襲い掛かったことから、この合戦は一気に勝敗がきまった。 宇喜田秀家は小早川秀秋に対して激怒し、単騎敵陣に突っ込もうとしたが家来に制止されて落ちたという。 小早川秀秋は秀吉の甥であり、一時秀吉の養子になっていた男である。 養子でもない自分が秀頼のために家康を討つべく戦っているのに、秀秋が裏切るとは何事だ!という怒りである。 

 関ヶ原の戦いに敗れた宇喜田秀家は領国、岡山城は取り上げられ大名としての宇喜田家は滅び、 新しく岡山城の城主となったのは皮肉にも小早川秀秋であった。 宇喜田秀家は薩摩の島津家を頼って潜伏していたが、徳川の天下が確立すると、秀家を匿いきれなくなり、島津の当主・家久は秀家夫人・豪姫の実家である前田家の当主・利長と相談して自訴助命嘆願をすることとなった。 これにより秀家は息子とともに八丈島に流罪となり、最愛の夫人・豪姫とは二度と再会することなく在島50年の永木に渡る生涯を終えた。 

宇喜田直家1529-1582
 ┣三浦桃寿丸?-1584
 ┣宇喜田秀家1572-1655(八丈島に配流)
 ┃ ┣秀高1598-1641
 ┃ ┣秀継高1599-1657
 ┃ ┣娘
 ┃ ┃┣邦尚親王1615-1654
 ┃ ┃伏見宮貞清親王1596-1664(伏見宮10代当主)
  ┃豪姫1574-1634(前田利家の4女) 
  ┣忠家1533-1609
  ┣春家?
円融院1549-?(三浦氏)

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関ヶ原-14 西軍・小西行長はキリシタン大名

2011年10月15日 | 戦国時代

 小西行長といえば加藤清正目線から紹介することとする。 加藤加藤清正は1562年、尾張の鍛冶屋・加藤清忠の子として生まれる。 幼名は夜叉丸。 父は清正が幼いときに死去したが、母・伊都が羽柴秀吉の生母である大政所の従姉妹であったことから血縁関係にあった秀吉に仕え、1576年に170石を与えられると清正はこれに応えて生涯忠義を尽くし続けた。 1582年に織田信長が死去すると、清正は秀吉に従って明智光秀打倒の山崎の戦いに参加し、1583年の柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取るという武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石の所領を与えられたことで一気に武名を轟かせた。 1585年、秀吉が関白に就任すると同時に従五位下に叙され、1586年からは秀吉の九州征伐に従い、肥後に入った佐々成政が失政により改易される(秀吉により切腹させられる)と肥後の半国のおよそ19万5,000石を与えられ、熊本城を居城とし、治水以外にも商業政策で優れた手腕を発揮した。

 1592年からの文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵する。 文禄の役では二番隊主将となり鍋島直茂、相良頼房を傘下に置き、別路の先鋒を務め、一番隊の小西行長と釜山上陸後の首都漢城の攻略を競ったという。 漢城攻略後は小西行長(一番隊)、黒田長政(三番隊)と共に北上し臨津江の戦いで朝鮮軍を破る。 その後一番隊、三番隊と別れて、海汀倉の戦いで韓克誠の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定すると朝鮮二王子(臨海君・順和君)を生捕りにした。 更には朝鮮の国境豆満江を越えて兀良哈へ進攻するなど数々の武功を挙げている。 1593年の第二次晋州城の戦いでは北面からの攻城を担当し、配下の森本儀太夫、飯田覚兵衛が、黒田長政配下の後藤基次と一番乗りを競い城を陥落させた。 しかしその後1596年には、石田三成と明との和睦をめぐる意見の対立から秀吉の勘気を受けて一時は京に戻され、 小西行長との対立も深刻化していた。 1597年・慶長の役でも再び小西行長とは別路の先鋒となり、朝鮮軍の守る黄石山城を陥落させ、 全羅道の全州を占領し西生浦倭城‎に駐屯し、 城の東方に浅野幸長や毛利家家臣・宍戸元続が清正支配下の蔚山倭城‎を築城した。 しかし完成間近に明の大軍が攻め寄せてきたために清正は急遽側近のみ500人ほどを率いて蔚山倭城に入城し、毛利秀元や黒田長政の援軍の到着まで城を守り抜いたことで、 清正は朝鮮の民衆から「犬、鬼上官」と恐れられたという。 1598年秀吉が死去すると、五大老の徳川家康に接近し、家康の養女を継室として娶った。 1599年前田利家が死去すると、福島正則や浅野幸長ら6将と共に石田三成暗殺未遂事件を起こした。

 1600年石田三成が家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いでは九州に留まり、黒田如水と共に家康ら東軍に協力して行長の宇土城、立花宗茂の柳川城などを調略、九州の西軍勢力を次々と破り、勲功行賞で、肥後の行長旧領を与えられ52万石の大名となる。 本来武断派として家康につくはずのない清正が結果的には徳川についたのは、文治派の石田三成と肌が合わなかったにすぎない。 1605年従五位上・肥後守に叙され、1610年、徳川氏による尾張・名古屋城の普請に協力し、1611年には二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋したが、帰国途中に発病し、6月24日に熊本で死去した。 清正の死後、家督は子の忠広が継いだが、加藤家が豊臣氏恩顧の最有力大名だったため 1632年改易になった。

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関ヶ原-13 急に西軍となった島津義弘

2011年10月14日 | 戦国時代

 1600年、徳川家康が上杉景勝を討つべく軍を起こすと、島津義弘は家康援軍要請により1,000の軍勢を率いて家康家臣・鳥居元忠が籠城する伏見城参じるが、元忠は援軍要請を聞いていないとして入城を拒否した。 これにより島津義弘は意志を翻して西軍への味方をすることとなる。 しかし石田三成はわずかな手勢の島津義弘を軽視し、義弘主張の夜襲を採用せず、島津義弘は戦意を失うこととなる。9月15日の関ヶ原戦では兵を動かさず、援軍要請に来た三成の家臣・八十島助左衛門の態度に義弘や豊久は激怒し、完全に戦意喪失したと云われている。 

 関ヶ原の戦いが始まってから数時間は東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続いたが、14時頃小早川秀秋の寝返りにより西軍の中で奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり敗走を始めた。 300人にまで減り、退路を遮断され敵中に孤立した島津隊・義弘は切腹を覚悟するが、甥・島津豊久の説得により正面の伊勢街道からの撤退を目指して先陣を豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘という陣立で敵軍中の突破を開始した。 東軍前衛部隊の福島正則隊を突破したとき、福島正則は無理な追走を家臣に禁じている。 島津軍が家康の本陣に迫り伊勢街道の南下に対して井伊直政、本多忠勝、松平忠吉らが追撃、追撃隊の大将だった直政は重傷を負い、この傷がもとで後年死去している。 戦場離脱しようとする島津軍に対して徳川軍は執拗に追撃し、島津軍は捨て奸と言われる壮絶な戦法により、甥・島津豊久や家老・長寿院盛淳の犠牲をだすものの、まもなく家康から追撃中止の命が出され、島津義弘自身はかろうじて敵中突破に成功して海路から薩摩に逃れ、生き残りはわずか80数名だったと云われ、この退却戦は全国に轟かせた。

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関ヶ原-12 関ヶ原合戦に散った武将の供養塚・東首塚

2011年10月13日 | 戦国時代

 関ヶ原の合戦終了後に、徳川家康は陣場野で部下が取ってきた首を実検して東西二ヶ所に埋めた。 ここ東首塚は徳川家康の命によって、この地の領主・竹中家が造ったもので、多くの人々が通る北国街道や中山道沿いに首塚を造らせ、戦乱の恐ろしさを世の人々に知らしめようとしたものと云われている。  家康によって実検された将工の首をはじめ、討ち死にした雑兵に至るまで、約1万2000の首が「東・西首塚」に葬られ眠っている。 また、首塚手前に首洗いの井戸があり、慶長五年九月十五日の合戦が終わった後東西両軍兵の屍は数知れず誰か不明の士多く近くの村民はその様を憐れみこの井戸水で首を洗い懇ろに供養したと伝わる。 ここ東首塚は、かつて松平忠吉・井伊直政が陣を張った場所あり、先に紹介した陣址の碑と並んでいる。

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関ヶ原-11 開戦の地

2011年10月12日 | 戦国時代

 関ヶ原の合戦の開戦の地にあった案内板によると 「慶長5年9月15日、霧が薄くなり視界も広がった午前8時。先鋒の福島正則は井伊隊の旗の動くのを見て、先陣の手柄を取られてなるものかと、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせました。一方井伊隊も福島隊におくれまいと、家康四男・松平忠吉とともに島津隊の陣に向かって攻撃を開始し、合戦の火蓋が切って落とされたところです。(標柱の位置は北寄りに移動) 関ヶ原町 」とあります。 豊臣方だった福島正則が先陣で功を上げることを防ぐ目的で、徳川方から戦端を開く必要性があると判断して井伊直政がとった行動であるといわれています。 

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関ヶ原-10 石田三成挙兵の経緯

2011年10月11日 | 戦国時代

 時の右大臣菊亭晴季の娘・一の台局は三条顕実に嫁いで美耶姫をもうけたが顕実と死に別れて秀吉の妾になっていた。 もちろん政略結婚であり菊亭晴季は秀吉の関白昇進に骨を折り、自らも右大臣となった。 その頃に秀吉の側室となって現れたのが茶々である。 ゆうまでもなく茶々の母・お市の方の遺言により織田と浅井の血を残すべく秀吉に嫁いだのである。 豊臣秀吉の血を残すためではなかった。   茶々と同様に秀吉の側室になりながら秀吉を恨んでいる人に京極局がいる。 京極局こと竜子は浅井長政の姉・京極マリアと近江源氏の佐々木高吉との間に生まれ、武田元明と結婚したが、その美貌に目をつけていた秀吉は 元明が明智光秀に加担して秀吉を攻めたとして謀殺し、妻を奪ったのである。 竜子の兄に京極高次がおり、茶々の妹・お初と結婚している。 高次は本能寺の変のとき光秀に味方して長浜城攻めに加わり失敗すると秀吉に追われることとなる。 しかし竜子の取立てにより罪を免れて一万石の城主にまでなっている。 茶々はそんな竜子を唯一の味方と考えていた。

  聚楽第では公家と武家の合同歌会や、後陽成天皇の行幸が行われ、秀吉が天皇の代理として天下を統率することが公認されたのであるが、これは一の台局の父・晴季の功績といってよい。 そんな父を称えるように秀吉は一の台局を労うと、一の台局は茶々の鋭い視線を感じた。 一の台局は側室ではあるが、ほとんど秀吉の相手をしていない。 20歳も年の離れた秀吉に抱かれたいなどと思うこともなかったが・・・。  茶々は母お市の方のような絶世の美人ではなかったが秀吉は寵愛した。 一の台局も京極局も華奢な体つきであったが茶々は父親似の大柄で豊満である。 小柄な秀吉はそういう 豊満な茶々に惹かれたのである。 しばらくして茶々が身篭ったことに秀吉は狂気して喜んだという。 というもの秀吉には南殿との間に秀勝という男子がいたが、7歳でなくなった。 以来子供に恵まれることはなく、その後養子の何人かに秀勝の名を与えていることから余程最初の男子をかわいがったようである。 それから12年、待ちに待っていた男子が誕生したから狂喜したのも無理はない。

  懐妊の噂は一の台局の耳にもはいった。 秀吉に子胤がないと経験から確信を持っていた一の台局は、茶々の秀吉に対する復讐ではないだろうかと感じた。 1589年5月、茶々は淀城で鶴松を産んだのである。  鶴松誕生の宴が聚楽第で催されたとき、一の台局は侍女の楓が言った「茶々は他の子胤を宿したのでは・・」という言葉を思い出しながら落ち着かなかった。 このとき近江八幡城主の秀次も出席しており、こともあろうにその夜二人は情事に耽った。 翌日、一の台局は秀吉から二度目の暇を告げられている。 侍女の楓は秀吉の動きを探るために家康の腹心・本多正信が送った密偵であり、秀次との情事を正信に報告していたのである。  鶴松4ヶ月のときに、秀吉につれられ大阪城へくると北の政所や大政所と対面したが、その顔は秀吉にそっくりで、一の台局と同じような疑問を抱いていた一同はまぎれもない嫡子であると思ったようである。

  1590年、秀吉は天下統一の締めくくりとして小田原の北条氏を征伐するため、三万二千の軍勢を率いて京都を出陣すると、伊豆の山中城、韮山城を押さえ、北条氏正・氏直親子を小田原城に囲んだ。 この頃鶴丸は聚楽第の北の政所のもとに滞在し、茶々は淀城でわびしく過ごしていた。 小田原攻めが長期包囲戦にはいったため秀吉は北の政所を通じて茶々に小田原へ向かわせている。 茶々は箱根山の山中では嫌悪感なく、約二ヶ月を秀吉と暮らした。 7月、小田原城が開城となると氏正・氏照兄弟は切腹し、功労者である家康には関東八州を与え、家康は早速江戸を中心に関東八州を定め、これが後の江戸幕府開設の本拠地になったのである。 奥州伊達政宗も軍門にくわわり秀吉の天下統一は完了したのである。  翌年の1591年、異父妹の朝日姫、異父弟・秀長と相次いで亡くすと鶴松は病気になり、いったんは回復を見せたが、秋には息絶えてしまった。 跡継ぎをあきらめた秀吉は、養子の秀次に関白を譲ると、秀次は聚楽第で一の台局と久しぶりの再会をするのであるが、秀次は正妻・栄を清洲城においたまま、一の台局の父・晴季も心配するほどの情事を繰り返した。  1592年、鶴松の死を忘れるためかのように朝鮮を制圧していたが、母・大政所を失い、死に目にも会えなかった自分を悔いた。 丁度その頃養子の秀勝 (信長の四男でお江と結婚していた) が24歳で戦死したのである。 その頃茶々は自分のからだに再び異変を感じた。 まぎれもなく妊娠の兆候である。 1593年、淀君は男子を産んだ。 捨て子は元気に育つと信じて鶴松には「捨」と名付けたが、こんどは「お拾」と名付けた。 後の秀頼である。

 秀頼の出現によって一気に身の危険を感じたのが関白秀次である。  秀吉に実の子ができたとなると、約束されていた後継ぎの権利が剥奪されるのは目に見えているからである。 秀次は一の台局の後押しもあってか、秀吉に、秀頼が実の子であるというのは疑わしいと進言したのである。  秀吉が逆上したのは言うまでもないことであるが、それ以来秀次は別人のように酒をあおり、何かに怯えるようになった。 そして女あさりが始まったようである。 関白となった秀頼の関心を得ようと各地の豪族や公家が自分の娘を差し出そうとしていたが、一の台局を除いて25人いた。 秀頼はその女達に閨の伽を申し付けたのである。 閨には一の台局も一緒に寝かせ、彼女の目の前で女を抱いた。 苦労知らずで18歳にして近江八幡城主となり、秀吉の栄達とともに関白の座につき、聚楽第の主となった秀頼の弱さがでている。  その後まもなく秀頼は高野山の青厳寺で謹慎の末、自害させられている。 また石田三成の処刑奉行により、秀次の側室や子供三十数名も三条河原にて打ち首になった。 考えてみれば、秀吉の恨みをかったのは秀次と一の台局だけであり、他の者は巻き添えを食ったに過ぎない。 一の台局の父・晴季は娘と孫・実耶姫の助命を秀吉に嘆願したが、聞き入れられず、晴季は右大臣の官位を奪われ、越前に流罪となっている。

  秀次が亡くなった後の秀吉は、自分を見失うかのように秀頼を寵愛し、体調を崩していった。 いよいよ家康が長年の我慢の成果がでてきた。 明智光秀征伐を秀吉に許したばかりに、天下取りの先を越された家康は、この日を待っていた。 秀吉が62歳で亡くなると、尾張出身の加藤清正、福島正則を推す北政所と、近江出身の石田三成、長束正家を推す淀殿との対立は周知のこととなるが、家康は尾張勢に接近することとなる。 北政所の淀殿も家康が次の担い手であることは認めていたが、淀殿は三成によって家康を阻み、秀頼の安泰を図り、北政所は家康に飛び込むことにより豊臣家の永続を考えていた。   淀殿は石田三成の忠誠に心強く思うが、家康の勢力に勝てるはずもなかったが、前田利家の秀頼に対する忠義により、豊臣家と家康はかろうじて均衡を保っていた。 ところが前田利家の病死により一気に展開が変わるのである。

 三成が昵懇にしている常陸水戸城主 佐竹義宣が火急を告げてきた。 加藤清正、黒田長政、浅野幸長、福島正則、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明の七将が三成襲撃を企てているというのである。 このとき三成は家康のふところに飛び込むと、家康は保護し、息子の結城秀康の警護の元、近江佐和山城へ送り届け、石田三成の地位は失墜し発言権もなくなった。 徳川家康は伏見城から大阪城へ入城して政務を指揮することとなった。  石田三成が挙兵したのはそれから1年半後のことである。天下分け目の関ヶ原の合戦である。 結局、小早川秀秋の寝返りにより家康側の勝利となると、家康は大阪城に入り、淀殿と秀頼親子と会見を持ち、危害は加えない旨を伝えた。 家康の孫・千姫7歳が大阪城に入り、秀頼11歳と結婚の儀をかわしたのは、それから3年後のことである。 家康は征夷大将軍となり、秀頼は内大臣が約束され、家康の孫・千姫が嫁になったことで、淀殿は、秀頼が成人すればいずれは天下を譲ってくれるのではないかとの望みを捨てきれないでいたのであるが、家康は征夷大将軍を辞し、秀忠に譲ると徳川家の世襲として代々天下の政権を握ることを表明した。 千姫が嫁いできたことによって秀頼の将来が保証されたと思い込んでいた淀殿は衝撃を覚えた。 それ以降、淀殿は鬱状態になり暗雲立ち込めるようになる。

 家康の三男・秀忠の娘・千姫を秀頼に嫁がせると、江戸へ戻り諸大名の負担により大都市への改造を行った。 1605年、将軍就任後二年にして息子秀忠に将軍職を譲ると、秀忠を二条城に入らせ、大阪城の淀殿・秀頼に二条城に上洛するように命じる。ところが淀殿の強硬姿勢により、家康は豊臣家を滅亡に導く決意を固めるのである。 淀殿の姿勢を和らげようと奔走したのは加藤清正、浅野幸長である。 1611年、家康が居城である駿府を出発し上洛したとき、清正らの説得でやっと秀頼は家康との対面を果たす。 ところが対面直後に清正は肥後熊本への帰国の途中で病死するのである。 また対面に奔走した浅野幸長も1613年に38歳で亡くなった。 秀吉派のこれらの勇士が次々と亡くなったことで豊臣家の滅亡が現実のものとなっていったのは云うまでも無い。

 またこの頃、家康は膨大な豊臣家の資産を浪費させている。 つまり秀吉の供養と称して多くの寺院を復活させ、方広寺の再建や、大仏殿の鐘である大梵鐘も鋳造され、1614年にはほぼ完成していた。 梵鐘に刻まれた「国家安泰君臣豊楽」の銘文が問題となり、弁明の使・片桐旦元が結果的には徳川家の陰謀にはまって豊臣家から10月退去したのであるが、 家康にとってのこの契機が大阪攻めを決断させることになる。 大阪冬の陣である。 この戦いで大阪側に味方した大名は一人もおらず、味方は所領を失った関ヶ原の敗者のみである。 ところが徳川の総攻撃にもかかわらず落城する気配は無く、逆に真田幸村の巧みな防戦により豊臣方が勝っていたのであるが、大阪方からの講和申し出により豊臣家は命取りとなる。 1614年12月から翌年にかけて秀忠の指揮の下に大阪城の堀が全て埋められたのである。 淀殿は家康の要求を断固受け入れなかったことから5月になって本格的な戦い・大阪夏の陣が始まった。 このときは流石の真田幸村も奮闘するものの、数に勝る徳川連合軍におされて討死を遂げたのである。 燃え上がる大阪城から奇跡的に助け出された千姫が祖父家康のもとに辿りついたのは有名である。 やがて淀殿と秀頼は最後まで付き添ったわずかな近臣とともに自害した。 秀頼には二人の子がいたが、男子は捕らえられ六条河原で首をはねられたが女子は後に東慶寺の住持となった天秀尼である。 

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関ヶ原-9 陣場野の徳川家康陣址

2011年10月10日 | 戦国時代

 徳川家康は初め桃配山に陣を置いたが、午前十時頃にここ陣場野に移った。 ここは石田三成の陣から西へ約1km離れたところである。 、写真中央奥は「御床几場」と呼ばれており、二回目の首実検場である。 因みに一番首は桃配山。 

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関ヶ原-8 石田三成を討ち取った田中吉政

2011年10月09日 | 戦国時代

 田中吉政陣跡は徳川家康の本陣横にあります。 田中吉政といえばもともと秀次の筆頭家老でありながら石田三成を最後に討ち取って功を挙げた人物である。 近江出身ということでその地理の明るさを武器としたのでしょう。 田中吉政1548-1609の先祖は近江源氏高島氏の一族で1582年頃、5000石を与えられて秀吉の甥の羽柴秀次の宿老となる。 秀次が自害させられたとき、多くの家臣が賜死(主君から死を賜る)、処分を受けたが、吉政にはお咎めはなかった。 それどころか関白殿一老であった吉政に対して切腹を勧める者もいたが 「秀次によく諌言をした」ということで、加増されて三河国岡崎城主10万石の大名となっている。

 秀吉の死後は徳川家康に接近し関ヶ原の戦いでは東軍に属し、勝利後は三成の居城佐和山城を落城させるとともに、伊吹山中で逃亡中の石田三成を捕縛する大功を挙げた。 腹痛で病む三成にニラ粥を勧め、三成はそれを食し、太閤から給わった脇差しを吉政に授けたという。 合戦後は勲功が認められて、筑後一国柳川城32万石を与えられ国持ち大名となった。 

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関ヶ原-7 東軍 井伊直政・松平忠吉陣址

2011年10月08日 | 戦国時代

 松平忠吉は徳川家康の四男で関ヶ原の合戦当時は20歳の若武者、井伊直政は生涯徳川家康に仕え、徳川四天王の一人としてその名を馳せた武将である。 直政が組織した赤備えは戦国屈指の精鋭部隊で、もちろん甲斐武田軍の代名詞にあやかったものである。 初代彦根藩主である直政は当時39歳で、松平忠吉の後見役として中仙道と北国街道の間であるこの地に6000の兵で陣を構えた。 つまり忠吉は直政に守られ、中仙道の敵を目標とする福島・藤堂・京極隊、北国街道の敵を目標とする黒田・竹中・細川等の隊に挟まれた形となる。 午前八時頃、軍艦・本多忠勝より開戦を促されると、井伊直政・松平忠吉は前進して西軍の孟将・宇喜多秀家の全面に出たが、先鋒は福島正則であると咎められ、方向を転じて島津義弘隊に攻撃し開戦の火蓋が切られたという。

 ところで、井伊直政は関ヶ原の戦いにおいて3600の兵で家康本軍に随行し、諸大名を東軍につける工作を行い合戦地においても家康の四男松平忠吉を後見する。 家康から岐阜在陣の諸将に宛てた書状には 「井伊直政をそちらに遣わすから、何事も彼の指示を仰いでほしい」 と記されているほど信頼されていた。 関ヶ原の合戦に際しては、先鋒の福島正則軍の脇を抜け駆け、正則の家臣・可児才蔵に、先陣の指名は井伊勢ではないと牽制されるが、「忠吉様の物見なり」と返答して敵陣に突撃したといわれる。 徳川氏に仕え、先陣を務めてきた井伊直政は、本多忠勝とともに 「秀吉の遺臣ばかりが敵を討てば、関ヶ原の勝利は徳川のものではなくなる」 と家康に進言していたことによる突撃ともいう。 そしてその敵陣に放つ銃声が、関ヶ原の合戦開始の合図となったのである。 決戦後に退却する島津義弘勢を猛追して義弘の身代わりとなった島津豊久を討ち取った。 この時、井伊直政は肩に銃弾を受けたことでもわかるように自ら先陣に立って戦うことを好み、その全身は傷だらけであったという。  毛利輝元との講和や山内一豊の土佐入国援助など、関ヶ原の合戦の戦後処理にも尽力して石田三成の佐和山18万石を与えられている。 

  松平広忠 ━━徳川家康1543-1616年 ┓幼名:竹千代
(八代当主) ┏松平忠政1580-1614  ┃
  ┃    ┣徳川家元1548-1603  ┃
 於大の方  ┣樵臆恵最      ┃ 
(伝通院)  ┣内藤信成      ┃
       ┗市場姫 矢田姫   ┃
   ┏━━━━━━━━━━━━━━┛
正室・篠山殿━┳長男・松平信康(1559年 - 1579年)(母:築山殿 関口親永娘・瀬名)       
       ┃ ┣登久姫1576-1607
       ┃ ┣熊姫  1577-1626(本多忠勝の嫡男・忠政室)
       ┃ 徳姫1559-1636
       ┃ 
正室・朝日姫 ┣長女・亀姫(盛徳院1560年 - 1625年)(母:築山殿)
側室・お津摩 ┃ 
側室・お万  ┣次女・督姫  (1565年 - 1615年)(母:西郷局)池田輝政室
側室・小督局 ┣次男・結城秀康(1574年 - 1607年)(母:小督局)
       ┃    ┣松平忠直1595-1650   (母:中川一茂娘・清涼院) 
       ┃    ┃ ┣松平光長1616-1707
       ┃    ┃ ┃┣国姫-1671
       ┃    ┃ ┃┃┣布与、市
       ┃    ┃ ┃┃松平光通1636-1671
       ┃    ┃ ┃土佐(毛利秀就娘)
       ┃    ┃ ┣亀姫1617-1681(宝珠院寧子)
       ┃    ┃ ┃┣明子女王1638-1680(後西天皇女御)
       ┃    ┃ ┃高松宮好仁親王
       ┃    ┃ ┣鶴姫(家光養女)
       ┃    ┃勝姫1601-1672(天崇院 徳川秀忠三女) 
       ┃    ┣松平忠昌1598-1645   (母:中川一茂娘・清涼院)
       ┃    ┣松平直政1601-1666   (母:三谷氏・月照院) 
       ┃    ┣松平直基1604-1648   (母:三好長虎娘・品量院) 
       ┃    ┃ ┣松平直矩1642-1695
       ┃    ┃堀氏 
       ┃    ┗松平直良1605-1678   (母:津田信益娘・長寿院)
側室・西郷局 ┣三男・徳川秀忠(1579年 - 1632年)(母:西郷局)━━┓幼名:長松
       ┣四男・松平忠吉(1580年 - 1607年)(母:西郷局)  ┃
       ┣次女・良正院 (1565年 - 1615年)(母:西郡局)  ┃
       ┣三女・振姫   (1580年 - 1617年)(母:お竹 )    ┃ 
       ┣徳川義直1601-1650(初代徳川尾張藩主)(母:お亀)  ┃
       ┃┣光友1625-1700(2代藩主)             ┃
       ┃┣京姫┣綱誠1652-1699(3代藩主)          ┃
       ┃歓喜院┃    ┣吉通1689-1713(4代藩主母本寿院) ┃
       ┃   ┃    ┃ ┣五郎太1711-1713(5代)    ┃
        ┃    ┣松平義行┃九条輔姫            ┃
        ┃    ┣松平義昌┣継友1692-1732(6代藩主 母は和泉)┃
        ┃    ┣松平友著┣義孝1694-1732(母は唐橋)    ┃
       ┃ 千代姫(家光娘)┣宗春1696-1764(7代藩主 母は梅津)┃   
        ┃        ┃ ┣勝子              ┃
        ┃        ┃伊予                ┃
        ┃        ┗松姫(綱吉養女)           ┃
       ┣徳川頼宣1602-1671(初代徳川紀伊藩主)(母:お万)    ┃
        ┃ ┣徳川光貞1627-1705(生母 中川氏)         ┃
        ┃ ┃ ┣徳川綱教1665-1705(3代尾張藩主)      ┃
        ┃ ┃ ┃ ┣徳川頼職1680-1705(養子)        ┃
        ┃ ┃ ┃鶴姫1677-1704(徳川綱吉娘)         ┃
        ┃ ┃ ┣徳川頼職1680-1705(4代尾張藩主 母真如院) ┃
        ┃ ┃ ┣徳川吉宗1684-1751(5代藩主8代将軍 母浄円院┃
        ┃ ┃ ┃ ┣徳川家重1712-1761(9代将軍)       ┃
        ┃ ┃ ┃ ┃┣徳川重好1745-1795(徳川清水家初代) ┃
        ┃ ┃ ┃ ┃安祥院                  ┃
        ┃ ┃ ┃ ┣徳川宗武1716-1771(徳川田安家初代)   ┃
        ┃ ┃ ┃ ┃┣徳川治察1753-1774(徳川田安家2代)  ┃
        ┃ ┃ ┃ ┃┣松平定国1757-1804(伊予松山藩主)   ┃
        ┃ ┃ ┃ ┃┗松平定信1758-1829(陸奥白河藩主)   ┃
        ┃ ┃ ┃ ┃                     ┃
        ┃ ┃ ┃ ┗徳川宗尹1721-1765(徳川一橋家初代)   ┃
        ┃ ┃ ┃  ┗徳川治済1751-1827(徳川一橋家2代)  ┃
        ┃ ┃瑞応院                      ┃
        ┃ ┣因幡姫1631-1709(鳥取藩主池田光仲正室)     ┃
        ┃八十姫1601-1666(加藤清正娘)              ┃
       ┗徳川頼房(1603年 - 1661年)十一男・(母:お万)    ┃
            ┣松平頼重1622-1695(讃岐高松藩主初代)     ┃
            ┃ ┣綱方1648-1670(水戸藩主となる前に死亡)  ┃
            ┃ ┣綱條1656-1718(水戸3代藩主)        ┃
            ┃土井利勝娘                  ┃
            ┣亀丸                     ┃
            ┣徳川光圀1628-1701(水戸藩2代藩主)       ┃
          谷重則娘・久子┃┣松平頼常1652-1704(讃岐高松藩主)   ┃
                ┃┣綱方1648-1670            ┃
後陽成天皇        ┃┣綱條1656-1718            ┃
  ┣近衞信尋(近衛家当主)┃側室・玉井氏              ┃
近衛前久娘・前子   ┗尋子(泰姫)                 ┃
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
正室・於江与の方                        池田光政1609-1682
  ┗┳千姫1597-1666(天樹院):豊臣秀頼室、のちに本多忠刻室      ━━┓┣綱政  
  ┃本多忠高?-1549                        ┣勝姫
  ┃ ┣本多忠勝1548-1610(本多宗家初代)              ┃1618-1678 
  ┃ ┃   ┣小松姫1573-1620(母:乙女 真田信之室)       ┃
  ┃上村氏義娘┣もり姫(奥平家昌室)                ┣幸千代
  ┃     ┣本多忠政1575-1631(母:阿知和右衛門娘 姫路城主)   ┃ 
  ┃     ┗本多忠朝┣本多忠刻1596-1626(室は徳川秀忠娘・千姫)┛  
  ┃     1582-1615  ┣本多政朝1599-1638(室は本多忠朝娘)
  ┃     ┣本多政勝┣本多忠義1602-1676(室は森忠政娘)┗政長1633-1679(宗家5代) 
  ┃     ┗千代  ┣国姫               ┗忠国1666-1704(養子)
  ┃          ┣亀姫                ┣忠孝1698-1709
  ┃         松平信康娘・熊姫            池田綱政娘
  ┣徳川家光1604-1651三代将軍 福・春日局に養育 幼名:竹千代 
  ┣徳川忠長1606-1634                         
    ┣徳川和子1607-1678(東福門院):後水尾天皇中宮           
  ┣珠姫    1599-1622(天徳院) :前田利常室             
  ┣勝姫  1601-1672(天崇院) :松平忠直室             
    ┗初姫  1602-1632(興安院) :京極忠高室                         
側室・お静(浄光院)
 ┗保科正之1611-1673(会津松平藩主)    
      ┃┃┣幸松                      
    ┃┃菊姫 
    ┃┣媛姫(米沢藩主・上杉綱勝室)
    ┃┣正経1647-1681(2代会津藩主)
    ┃お万
     ┣摩須姫(加賀藩主・前田綱紀室)
  おしほ

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関ヶ原-6 東軍・本多忠勝

2011年10月07日 | 戦国時代

 関ヶ原の戦いでは本多忠勝は家康先発隊として病に倒れた井伊直政に代わって臨時に参戦したため500程度の軍勢であった。本多家の本体は徳川秀忠の軍勢に配属されていた。 前回紹介した本多正信の子・政重は前田家家老として徳川将軍家の目付役として活躍したが、なんと言っても忘れてはならないのは本多忠勝である。 本多忠勝ゆかりの御廟へ訪れたこともあって、実は以前に少しだけ触れていたのであるが、すっかり忘れていたので改めて紹介する。 とにかく徳川四天王のひとりとしてその武勇を全国に轟かせ、織田信長や豊臣秀吉も一目置いた武将であることは良く知られているが、忠勝の子・本多忠政は池田家の後を継いで、天下の名城・姫路城主となっているのである。

  本多氏の出自は、藤原氏北家・兼通流の二条家綱まで遡り、豊後国の本多郷を領した事から本多氏と称したことによる。 古くから松平氏に仕えた三河国の譜代の家系で、三河三奉行の一人本多重次(作左家)、徳川家康の参謀となった本多正信(三弥家)、徳川四天王の本多忠勝(平八郎家)のほかにも彦八郎家、彦次郎家、弥八郎家がありいずれも譜代大名であるが、宗家については忠勝の家系とも正信の家系とも言われている。 正信の家系では次男の政重が前田家の宿老となるなど徐々に徳川家より重用されたが、忠勝系(徳川四天王の一人である本多忠勝の家系)は本多一門の中で忠勝が最も家康から厚遇され、特に忠勝の子や孫は家康血縁者との婚姻があった。 忠勝が勲功を得たのは関ヶ原の戦いで、忠勝に伊勢国桑名藩10万石があたえられ初代桑名藩主になっている。また、上総国大多喜藩5万石も与えらて初代藩主になり、忠勝の次男・忠朝が継いだ。 それぞれの家系は幕末まで存続したが、宗家・村上藩主・本多忠孝は幼少で急死したため改易のところ、なんとか家名再興が許されたというのが屈指の譜代名門の行末であった。 本多忠勝の晩年は、本多正純などの若く文治に優れた吏僚派が家康・秀忠の側近となり、武功派は幕府の中枢から遠ざけられ不遇であった。

 本多忠勝は徳川四天王として顕彰されているが、生涯において参加した合戦五十七回でかすり傷一つ負わなかったという。軽装を好み、重武装な井伊直政とは対照的である。 それを象徴するのが蜻蛉切と赤備である。 1572年武田信玄の軍勢が遠江に進入した際、これを偵察にでかけた徳川家康が見破られて迫撃され、一言坂で追いつかれたとき、忠勝は殿軍を勤めて難を救った。 徳川勢の本陣の退路を遮断しようとした武田軍の動きにすばやく対応した忠勝は、黒糸の鎧に鹿角を打った兜をつけ、蜻蛉切と呼ばれる大槍を手に、見方と敵軍の間に馬をすすめ、民家を焼いた煙幕を利用し自軍の退却を待って悠然と引き上げたという。 武田の近習・小杉右近助はその仔細を観察し、家康の家臣にするにはもったいない男であると賞賛したという。 また、忠勝の働きは豊臣秀吉からも認められ、小牧の役後に家康と秀吉の和平が整い、家康と秀吉の妹・旭姫の婚姻の結納を持参した忠勝に対して秀吉からほめられ、小田原攻めの帰路、源義経の忠臣・佐藤忠信の冑を授けられてその武功を称賛されている。  

  松平広忠 ━━徳川家康1543-1616年 ┓幼名:竹千代
(八代当主) ┏松平忠政1580-1614  ┃
  ┃    ┣徳川家元1548-1603  ┃
 於大の方  ┣樵臆恵最      ┃ 
(伝通院)  ┣内藤信成      ┃
       ┗市場姫 矢田姫   ┃
   ┏━━━━━━━━━━━━━━┛
正室・篠山殿━┳長男・松平信康(1559年 - 1579年)(母:築山殿 関口親永娘・瀬名)       
       ┃ ┣登久姫1576-1607
       ┃ ┣熊姫  1577-1626(本多忠勝の嫡男・忠政室)
       ┃ 徳姫1559-1636
       ┃ 
正室・朝日姫 ┣長女・亀姫(盛徳院1560年 - 1625年)(母:築山殿)
側室・お津摩 ┃ 
側室・お万  ┣次女・督姫  (1565年 - 1615年)(母:西郷局)池田輝政室
側室・小督局 ┣次男・結城秀康(1574年 - 1607年)(母:小督局)
       ┃    ┣松平忠直1595-1650   (母:中川一茂娘・清涼院) 
       ┃    ┃ ┣松平光長1616-1707
       ┃    ┃ ┃┣国姫-1671
       ┃    ┃ ┃┃┣布与、市
       ┃    ┃ ┃┃松平光通1636-1671
       ┃    ┃ ┃土佐(毛利秀就娘)
       ┃    ┃ ┣亀姫1617-1681(宝珠院寧子)
       ┃    ┃ ┃┣明子女王1638-1680(後西天皇女御)
       ┃    ┃ ┃高松宮好仁親王
       ┃    ┃ ┣鶴姫(家光養女)
       ┃    ┃勝姫1601-1672(天崇院 徳川秀忠三女) 
       ┃    ┣松平忠昌1598-1645   (母:中川一茂娘・清涼院)
       ┃    ┣松平直政1601-1666   (母:三谷氏・月照院) 
       ┃    ┣松平直基1604-1648   (母:三好長虎娘・品量院) 
       ┃    ┃ ┣松平直矩1642-1695
       ┃    ┃堀氏 
       ┃    ┗松平直良1605-1678   (母:津田信益娘・長寿院)
側室・西郷局 ┣三男・徳川秀忠(1579年 - 1632年)(母:西郷局)━━┓幼名:長松
       ┣四男・松平忠吉(1580年 - 1607年)(母:西郷局)  ┃
       ┣次女・良正院 (1565年 - 1615年)(母:西郡局)  ┃
       ┣三女・振姫   (1580年 - 1617年)(母:お竹 )    ┃ 
       ┣徳川義直1601-1650(初代徳川尾張藩主)(母:お亀)  ┃
       ┃┣光友1625-1700(2代藩主)             ┃
       ┃┣京姫┣綱誠1652-1699(3代藩主)          ┃
       ┃歓喜院┃    ┣吉通1689-1713(4代藩主母本寿院) ┃
       ┃   ┃    ┃ ┣五郎太1711-1713(5代)    ┃
        ┃    ┣松平義行┃九条輔姫            ┃
        ┃    ┣松平義昌┣継友1692-1732(6代藩主 母は和泉)┃
        ┃    ┣松平友著┣義孝1694-1732(母は唐橋)    ┃
       ┃ 千代姫(家光娘)┣宗春1696-1764(7代藩主 母は梅津)┃   
        ┃        ┃ ┣勝子              ┃
        ┃        ┃伊予                ┃
        ┃        ┗松姫(綱吉養女)           ┃
       ┣徳川頼宣1602-1671(初代徳川紀伊藩主)(母:お万)    ┃
        ┃ ┣徳川光貞1627-1705(生母 中川氏)         ┃
        ┃ ┃ ┣徳川綱教1665-1705(3代尾張藩主)      ┃
        ┃ ┃ ┃ ┣徳川頼職1680-1705(養子)        ┃
        ┃ ┃ ┃鶴姫1677-1704(徳川綱吉娘)         ┃
        ┃ ┃ ┣徳川頼職1680-1705(4代尾張藩主 母真如院) ┃
        ┃ ┃ ┣徳川吉宗1684-1751(5代藩主8代将軍 母浄円院┃
        ┃ ┃ ┃ ┣徳川家重1712-1761(9代将軍)       ┃
        ┃ ┃ ┃ ┃┣徳川重好1745-1795(徳川清水家初代) ┃
        ┃ ┃ ┃ ┃安祥院                  ┃
        ┃ ┃ ┃ ┣徳川宗武1716-1771(徳川田安家初代)   ┃
        ┃ ┃ ┃ ┃┣徳川治察1753-1774(徳川田安家2代)  ┃
        ┃ ┃ ┃ ┃┣松平定国1757-1804(伊予松山藩主)   ┃
        ┃ ┃ ┃ ┃┗松平定信1758-1829(陸奥白河藩主)   ┃
        ┃ ┃ ┃ ┃                     ┃
        ┃ ┃ ┃ ┗徳川宗尹1721-1765(徳川一橋家初代)   ┃
        ┃ ┃ ┃  ┗徳川治済1751-1827(徳川一橋家2代)  ┃
        ┃ ┃瑞応院                      ┃
        ┃ ┣因幡姫1631-1709(鳥取藩主池田光仲正室)     ┃
        ┃八十姫1601-1666(加藤清正娘)              ┃
       ┗徳川頼房(1603年 - 1661年)十一男・(母:お万)    ┃
            ┣松平頼重1622-1695(讃岐高松藩主初代)     ┃
            ┃ ┣綱方1648-1670(水戸藩主となる前に死亡)  ┃
            ┃ ┣綱條1656-1718(水戸3代藩主)        ┃
            ┃土井利勝娘                  ┃
            ┣亀丸                     ┃
            ┣徳川光圀1628-1701(水戸藩2代藩主)       ┃
          谷重則娘・久子┃┣松平頼常1652-1704(讃岐高松藩主)   ┃
                ┃┣綱方1648-1670            ┃
後陽成天皇        ┃┣綱條1656-1718            ┃
  ┣近衞信尋(近衛家当主)┃側室・玉井氏              ┃
近衛前久娘・前子   ┗尋子(泰姫)                 ┃
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
正室・於江与の方                        池田光政1609-1682
  ┗┳千姫1597-1666(天樹院):豊臣秀頼室、のちに本多忠刻室      ━━┓┣綱政  
  ┃本多忠高?-1549                        ┣勝姫
  ┃ ┣本多忠勝1548-1610(本多宗家初代)              ┃1618-1678 
  ┃ ┃   ┣小松姫1573-1620(母:乙女 真田信之室)       ┃
  ┃上村氏義娘┣もり姫(奥平家昌室)                ┣幸千代
  ┃     ┣本多忠政1575-1631(母:阿知和右衛門娘 姫路城主)   ┃ 
  ┃     ┗本多忠朝┣本多忠刻1596-1626(室は徳川秀忠娘・千姫)┛  
  ┃     1582-1615  ┣本多政朝1599-1638(室は本多忠朝娘)
  ┃     ┣本多政勝┣本多忠義1602-1676(室は森忠政娘)┗政長1633-1679(宗家5代) 
  ┃     ┗千代  ┣国姫               ┗忠国1666-1704(養子)
  ┃          ┣亀姫                ┣忠孝1698-1709
  ┃         松平信康娘・熊姫            池田綱政娘
  ┣徳川家光1604-1651三代将軍 福・春日局に養育 幼名:竹千代 
  ┣徳川忠長1606-1634                         
    ┣徳川和子1607-1678(東福門院):後水尾天皇中宮           
  ┣珠姫    1599-1622(天徳院) :前田利常室             
  ┣勝姫  1601-1672(天崇院) :松平忠直室             
    ┗初姫  1602-1632(興安院) :京極忠高室                         
側室・お静(浄光院)
 ┗保科正之1611-1673(会津松平藩主)    
      ┃┃┣幸松                      
    ┃┃菊姫 
    ┃┣媛姫(米沢藩主・上杉綱勝室)
    ┃┣正経1647-1681(2代会津藩主)
    ┃お万
     ┣摩須姫(加賀藩主・前田綱紀室)
  おしほ

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関ヶ原-5 西軍・島津豊久が戦死した烏頭坂

2011年10月06日 | 戦国時代

 関ヶ原合戦の舞台で一番最初に行ったのが島津隊が陣を敷いた烏頭坂です。 島津豊久1570-1600の父は島津家久、母は樺山善久の娘である。1584年の沖田畷の戦いに初陣し、敵一人を討ち取ると翌月に元服を果たす。 父・家久は、島津氏が豊臣秀吉に降伏した年に死去したためか秀吉は豊久に特別に所領を与えるよう島津義弘に命じたという。 父の後を継いで日向佐土原城城主となり、豊臣秀吉に従い小田原の役や文禄・慶長の役など各地を転戦する。関ヶ原の戦いでは伯父・義弘と共に西軍として参陣したが、義弘提案の夜襲を聞き入れなかった西軍への不信から戦闘には参加せず、豊久も積極的な戦闘を起こさなかった。 やがて戦いが東軍優位となり、西軍敗戦の色が濃くなると、義弘を逃れさせるためにここ烏頭坂で奮戦し時間を稼ぎ戦死したとも、島津隊は家康本陣を霞める形で伊勢街道方面に撤退した後、義弘の身代わりとなって討死したとも云われている。 

16代島津義久1566-1587       
 ┣17代義弘━18代忠恒(初代薩摩藩主)━2代光久━3代綱貴━4代吉貴━5代継豊┓      
 ┗━━家久1547-1587(義弘 家久の父は貫久)               ┃        
     ┣島津豊久1570-1600                      ┃        
    樺山善久娘                           ┃        
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛        
┃        
┃        徳川宗尹1721-1764(一橋家初代当主・徳川吉宗の四男)
┃           ┗保姫1747-1769
┃            ┣悟姫
┗6代宗信━7代重年━8代重豪┓        
┏━━━━━━━━━━━━━┛        
広大院1773-1844(篤姫・茂姫)    
┃┣-                     
一橋家斉1787-1837(
治済1751-1827(一橋家二代当主)の長男)                     
┃                      
┃                     徳川宗尹┓
┗島津斉宣1774-1841(第9代薩摩藩主 母:春光院 養母:保姫)
 ┣島津斉興1791-1859(第10代薩摩藩主) 
 ┣┃┃━島津忠剛1806-1854(今泉家10代当主)     
 ┃┃┃  ┃┃     ┣忠冬1824-1859(今泉家11代当主)  
 ┃┃┃  ┃┃     ┣久敬1829-  
 ┃┃┃  ┃┃島津久丙 ┣一1836-1883 
 ┃┃┃  ┃┃  ┗お幸(島津久丙娘)-1869
 ┃┃┃  ┃┣島津忠敬1832-1892(今泉家12代当主)  
 ┃┃┃  ┃河野通記娘  
 ┃┃┃  ┣お熊1838-1842  
 ┃┃┃  ┣お龍1840-1840
 ┃┃┃ 海老原庄蔵娘  
 ┣┃┃━松平勝善1817-1856(伊予松山12代藩主)
 ┃┃┃  ┗松平勝成(聟養嗣)
 ┃┃┃              貞姫(斉彬娘)
 ┗┃┃━郁姫(島津興子)1807-1850  ┣篤麿1863-1904
   ┃┃          ┣忠房1838-1873
   ┃┃ 近衛忠熈1808-1898(安政の大獄で失脚)
   ┃┃  
   ┃┃直仁親王┓
   ┃┃   鷹司政熈(関白)┓一条忠良(公卿)┓堀利邦(旗本)┓
   ┃┃   鷹司任子(天親院),一条秀子(澄心院),お志賀(豊倹院) 
   ┃┃徳川家慶1793-1853 ┣-
   ┃┃ ┣13代徳川家定1824-1858
   ┃┃実津 ┣-
   ┃┃ ┏篤姫1836-1883(近衛忠熈養女)   
  ┃┣島津斉彬1809-1858
  ┃┃ ┃┃┣夭折  
  ┃┃ ┃┃恒姫(徳川斉敦娘)1805-1858
  ┃┃ ┃┣寛之助1845-1848
  ┃┃ ┃横瀬克己娘
  ┃┃ ┣篤之助
  ┃┃ ┣暐姫(島津忠義室)1851-1869 
  ┃┃ ┣典姫(島津珍彦室)
  ┃┃ ┣寧姫(島津忠義室)1853-1879近衛忠熈養女
  ┃┃ 伊集院寿満
  ┃┣池田斉敏1811-1842
  ┃┣候姫1815-1880
  ┃┃┣- 督姫(家康次女)
  ┃┃山内豊熈1815-1848
  ┃弥姫(周子:鳥取藩主・池田治道娘)
  ┣島津久光1817-1887
  ┃┃┣忠義1840-1897薩摩藩12代藩主
  ┃┃┣久治1841-1872宮之城家15代当主
  ┃┃┣珍彦 重富家
  ┃┃島津千百子
  ┃┗忠欣 今和泉家
  ┣唯七郎
  ┣智姫
 お由羅1795-1866斉彬廃嫡を謀略(お由羅騒動)

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関ヶ原-4 西軍・蒲生郷舎

2011年10月05日 | 戦国時代

 蒲生郷舎は尾張の坂氏出身で、柴田勝家の後に蒲生氏に仕えた。 九州攻めで戦功で蒲生郷舎の名を賜わり、主君蒲生氏郷が陸奥国会津に移封されると白石城4万石に封ぜられるが、氏郷が死亡すると重臣間での軋轢が合戦にまで発展し、蒲生家は東北諸大名の抑えとして機能することが出来ず、下野国宇都宮に減移封された。 郷舎は蒲生家を出奔して浪人となり、石田三成に仕える。 関ヶ原の戦いの後蒲生家に帰参し、後に藤堂高虎に仕える。 関ヶ原の戦いでは、島左近とともに石田三成に仕えたことから、三成の陣をはさむように左翼・左近と相対して右翼・蒲生郷舎の陣があり、織田有楽を負傷させる等の活躍を したが、討ち取られます。

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関ヶ原-3 石田三成の軍師・島左近

2011年10月04日 | 戦国時代

 島左近の通称で知られる石田三成の軍師・参謀の名は清興は、俗に勝猛ともいう。娘・珠は柳生利巌の継室で、剣豪として名高い柳生厳包は外孫にあたる。 島氏は奈良県平群町の領主で椿井城を本拠にしていたとされ、畠山氏、筒井氏の家臣であった。1600年の関ヶ原の戦いの前日には、会津の上杉景勝、北の伊達政宗の裏切りに備えた家康到着に動揺する西軍の兵たちを鼓舞するために、兵500を率いて東軍側・中村一栄・有馬豊氏両隊に挑み(杭瀬川の戦い)、宇喜多秀家家臣・明石全登隊と共に完勝した。 その夜、島津義弘・小西行長らと共に提案した夜襲は石田三成に受け入れられずに終わる。 関ヶ原の戦い最初は西軍有利に進み島左近も自ら陣頭に立ち奮戦するが、黒田長政の鉄砲隊に銃撃され一時撤退する。 小早川秀秋の寝返りを機に西軍は総崩れとなり、左近は死を覚悟して田中吉政・黒田長政らの軍に突撃するが銃撃により討ち死にする。

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関ヶ原-2 笹尾山・石田三成陣跡

2011年10月03日 | 戦国時代

 1600年9月15日、東軍大将・徳川家康 西軍大将・毛利輝元、中心人物・石田三成との戦いが行われた。古戦場関ヶ原は岐阜県不破郡関ヶ原町にあり、開戦の地をはじめとして東西両軍の陣跡の紹介です。 中でも立派な陣を構えていたのが西軍の石田三成、東軍の徳川家康陣を取り囲むように陣を敷いている。 現地へ行けば歴史的にも言われているように、東軍に勝ち目はない陣営であったというのがよくわかります。 しかし皮肉なことに人望に欠いていた石田三成側は数多くの寝返りにあって敗北します。 

笹尾山にある 関ヶ原合戦陣形図 と 石田三成陣址 

 豊臣秀吉が1598年に亡くなると、その死後の政権を巡って徳川家康派と石田三成派が戦い、勝利した家康は政権を完全に掌握し、徳川氏の覇権を確立します。 日本全国のほとんどの大名が徳川派(東軍)と石田派(西軍)に二分したことから 『天下分け目の戦い』 とも呼ばれています。  天下統一を達成した豊臣政権の内部においては、主に豊臣政権の成立に軍事面で寄与して朝鮮出兵でも前線で戦った武断派と呼ばれるグループと、行政・経済兵站・宗教管理など戦場以外の分野で活躍していた吏僚派の対立抗争が存在したが、秀吉本人や実弟の豊臣秀長などの存在により表面化は避けられていた。 1591年の秀長の死、朝鮮出兵や撤退における対立により深刻な状況となっていた。 一方、秀吉の姉・日秀の子・秀次を養子とし関白の職に就かせていたが、茶々との間に第二子・秀頼が誕生すると、次第に秀次を排除するようになっていった。 秀次は正親町上皇の崩御後の服喪期間に殺生禁断の比叡山で狩をしたということも拍車がかかったのか、秀吉から謀反の罪をかけられ高野山に追放となり切腹させられている。 尾張出身の秀次(おね派)一族が三条河原の処刑場にて惨殺されたときの立会人は石田三成、増田長盛といった近江派(茶々の出身)であった。 かくして尾張派と近江派の対立が表面的になってきたのである。 秀吉は晩年には五大老(徳川家康 前田利家 毛利輝元 上杉景勝 宇喜多秀家)・五奉行(石田三成 前田玄以 浅野長政 増田長盛 長束正家)の制度を整え、諸大名に実子の豊臣秀頼に対する臣従を誓わせて1598年8月に伏見城で死去する。 ここで両派の対立は表面化し、また、五大老の徳川家康は禁止されている大名同士の婚儀や加増を取り仕切るなど影響力を強め、これに対して同じく五大老の前田利家は家康を厳しく糾弾。 一時は伏見(徳川側)と大坂(前田側)が武力衝突する寸前まで行った。だが最終的には誓書を交換するなどして対立は避けられたが、この際に武断派諸大名や婚儀の相手となった大名がこぞって徳川邸に参集し、豊臣家内部は早くも分裂の様相を呈し始めていた。

 徳川邸に参集した大名:福島正則(1561-1624)、黒田孝高・黒田長政父子、池田輝政、蜂須賀家政、藤堂高虎、山内一豊、有馬則頼・有馬豊氏父子、京極高次・京極高知兄弟、脇坂安治、伊達政宗、新庄直頼、大谷吉継など。

 前田邸に参集した大名:毛利輝元(1553-1625)、上杉景勝、宇喜多秀家、加藤清正、石田三成(1560-1600)、増田長盛、細川幽斎・細川忠興父子、加藤嘉明、浅野長政・浅野幸長父子、長束正家、前田玄以、佐竹義宣、小西行長、長宗我部盛親など。

 1599年の閏3月に前田利家が死去すると、武断派の加藤清正・福島正則・黒田長政・池田輝政・細川忠興・加藤嘉明・浅野幸長の7名により、吏僚派の筆頭である五奉行の石田三成に対する襲撃が実行された。 彼等は朝鮮出兵のときに最前線で活躍したが秀吉に評価されなかった。 治部少輔である石田三成の讒言によるものであると考えていたからである。  三成は家康の仲介で事件の責任をとらされることになり、奉行職を解任され居城の佐和山城に蟄居となる。 この時石田三成は家康の屋敷に逃げ込み保護を求め、家康は三成の隠居により七武将の矛を収めさせた。 豊臣政権の象徴である大阪城は秀頼に与えられたが、長束正家・前田玄以らが城番をしていた伏見城に徳川家康は入城して居座ったのである。 その後徳川家を強めるための婚姻、勝手な領地の加増等々を行い、ついには大阪城へ入った。 その頃大阪城西の丸にいた北の政所が京都へ去ってしまう。 家康はこの西の丸に入ると天守閣を造らせた。(本来本丸にしか許されない) 石田三成が徳川打倒を密かに狙うなか、家康は前田家の本拠地加賀征伐を策した。 前田家は利家亡き後、利長が継ぎ、姻戚関係にあった細川忠興、浅野長政らと結託して家康を狙っているという増田長盛からの情報がはいったからである。 前田家はすぐに家康に屈し、利家の妻・まつ(芳春院)は江戸に人質としていき、前田利常の娘が家康の三男・秀忠の妻となることとなる。 もともと徳川家と同格であった前田家を勢力内に取り込んだことは関ヶ原戦の勝利に大きく貢献している。 1600年上杉景勝は会津で反乱を画策しているという知らせに石田三成が呼応した。 三成とは盟友であった大谷吉継も三成の佐和山城で味方になる決意をしたが、五奉行の増田長盛により徳川側へ報告された。

 1600年7月19日、関ヶ原の前哨戦とも云える西軍による伏見城攻撃が始まった。 城攻めの大将は宇喜多秀家、副大将は小早川秀秋である。 宇喜多秀家は備前の大名・宇喜多直家の子で、豊臣秀吉から「秀」の字が与えられ元服する。 関ヶ原では最後まで勇敢に戦った武将として知られている。 また、小早川秀秋は北の政所の兄・木下家定の五男にあたり、一時秀吉の養子となったが後に毛利家に養子にだした。毛利元就の三男・小早川隆景の小早川家である。 小早川隆景が亡くなった後は秀秋が小早川家を掌握していた。 朝鮮出兵のときに総大将になったこともあったが失敗が続き領地も減らされていたのであるが、秀秋はこれを三成の讒言によるものであると考えていた。 ところが家康は減らされた領地を秀秋の下に返還したために、家康は秀秋にとっては恩人とも云える存在になった。 しかし秀秋は西軍に参加したのは、毛利輝元が西軍の総大将となったからである。 石田三成が小早川秀秋に伏見城の攻撃を依頼したのは、秀秋の態度を明確に確認するためのものであったとも云える。 ところが困ったことに、伏見城には秀秋の兄・木下勝俊が篭城しており北の政所に相談したという。  7月25日、伏見城攻撃を受けた徳川勢は小山に集結して軍議を開いた。 徳川家康は福島正則の攻略も行った。 福島正則は賤ヶ岳七本槍のひとりとして有名な名将であり、その説得には黒田如水の子・長政があたった。おかげで長政は異例ともいえる52万石の大名となっている。 本来秀吉の手中にあり、秀頼を守る立場にあった福島正則、加藤清正が石田三成とは朝鮮出兵以来反りが合わなかったことを巧に利用して調略したと考えられる。 これまでの豊臣秀吉の調略を家康が取り入れた効果が関ヶ原の戦い以前から始まっていたのである。 こうして小山軍議では福島正則は東軍の名乗りを上げた。 そして福島正則とともに先鋒となった武将に池田輝政がいる。 池田輝政は小牧・長久手の戦(秀吉と家康が戦い家康が勝利する)で討死した池田恒興の子であるから、本来家康は輝政にとって父の仇である。 戦後、輝政は秀吉の計らいで家康とも和解したが、そのときに家康の次女・督姫を妻としていために家康側についたのである。  小山軍議が開かれた一週間後の8月1日に伏見城は落城し前哨戦は西軍の勝利となる。 いよいよこれから本戦に突入していくのであるが、その戦場として選ばれたのは関ヶ原であるから、美濃領主の岐阜城が重要となってくるが、このときの岐阜城主は織田信長の孫・三法師、つまり織田秀信である。 秀吉に操られ13万石の領地しか与えられなかった秀信は秀吉に恨みがあるはずで、家康側についてもよさそうであるが、西軍に味方したことで東軍家康の攻撃目標は岐阜城と定まったのである。かくして先鋒福島正則と池田輝政は岐阜城を攻略して織田秀信を出家させた。  秀信は出家すると高野山に登るとすぐに病死した。

 9月15日関ヶ原の本戦は始まろうとしていたが、家康本陣に加勢するはずの三男秀忠軍が到着しない。 実は信州城主真田昌幸が秀忠軍を信州で10日に渡って釘付けにしていたのである。 かつて北条氏と手を組んだ家康が真田家の上州沼田城を奪おうとしたとき真田昌幸はわずかな手勢で徳川軍を撃退したことがあった。 その後秀吉の仲介で徳川、真田は和解し、昌幸の長男・信幸は徳川重臣の本多忠勝の娘を娶っていたので長男は家康側、次男・信繁は石田側を推していたが結局三成を応援したのである。 約三万の軍勢を率いた秀忠軍を待たずして、先鋒・福島正則は宇喜多秀家・小西行長軍に襲い掛かった。 宇喜多秀家ゆうする三成側は終始優勢に戦をすすめており、充分な勝算はあった。 しかし小早川秀秋の裏切りにより1万6千の勢力が徳川に加わり、これが引き金になって裏切る部隊も現れ、西軍は総崩れのかたちとなった。 この戦いで毛利輝元は大阪城に篭り参戦しなかったのであるが、実は合戦の前日、毛利の吉川広家は家臣を東軍におくりこみ、密約を交わしていたのである。 参戦しないかわりに毛利の本領安堵を約束させるというものであり、書面はかわされ戦争不参加は守られた。 ところが合戦が終わり毛利輝元が大阪城を撤退し家康に明け渡すが、毛利輝元の領土は百二十万から三十六万石に減らされ、輝元は隠居させられた。 毛利家は完全に騙されたのである。 こうして徳川家康は政権確立の基礎を固めたのである。

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関ヶ原-1 激戦地 「決戦の地」

2011年10月02日 | 戦国時代

 天下分け目の戦いとして名高い関ヶ原の合戦は、1600年徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍による戦いである。 合戦の中でも最大級の激戦が繰り広げられたのが、笹尾山を背にするここ決戦地である。 付近一帯の各武将の陣跡には石碑や幟が立っていて、視界が開けていることから松尾山や南宮山を一望することができる。 説明板によると、 「 西軍有利な陣形で臨んだ戦いであったが、小早川と脇坂ら4隊の裏切りは、たちまちにして戦況を一変させた。 小早川勢の大谷隊への突入と同時に、西軍の配色が濃くなり、各軍の兵士の浮足立つなか、石田隊は集中攻撃を受けながらも、最後まで頑強に戦った。笹尾山を前にしたこの辺りは、最大の激戦のあったところです。 」 

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