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平安時代中心の歴史紹介とポートレイト

古代史から現代史に至る迄(日本史/世界史)の歴史散策紹介とポートレイト

ユダヤ-22 1000年王国の前触れ第一次世界大戦

2019年02月11日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

 いよいよ終末の日が近づき、メシア(キリスト)が直接地上を支配するとき、その国を千年王国という。千年王国に入るための条件を「悔い改め」といい、10ほどの条件があるという。その条件の一つ、つまり前兆が第一次世界大戦であるらしい。オーストリアの王・フランツ・ヨーゼフ1世(1830年-1916年)の子・ルドルフ皇太子は男爵令嬢マリー・フォン・ヴェッツェラと謎の死を遂げた。そこで、フランツ・ヨーゼフ1世の弟・カールの子・フランツ・フェルディナントは次の王継承権を握った。

 1914年6月28日、オーストリアのフランツ・フェルディナントは共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエボを訪問した。このときボスニア出身のボスニア系セルビア人の民族主義者によってフランツ・フェルディナントと妻・ゾフィーが暗殺された。この暗殺事件(サラエボ事件)により、オーストリア=ハンガリーは7月23日にセルビアに対し最後通牒を発し、セルビアとの外交関係を断絶、1914年7月28日、オーストリア=ハンガリーはセルビアに宣戦布告したのである。

 当時最大の工業国であったドイツはオーストリアに協力し、セルビアはロシアに協力を求めたが、ロシアのニコライ2世は日露戦争の敗北で信用を失っていた。また、グリゴリー・ラスプーチンという帝政ロシアの祈祷僧が、ニコライ2世の息子の血友病を治癒させたから、皇帝夫妻から絶大な信頼を勝ち取り、クレムリン宮殿内の貴婦人や、宮廷貴族の子女から熱烈な信仰を集めるようになる。彼が女性たちの盲目的支持を得たのは、彼の巨根と超人的な精力によるという。かくして本来セルビアに協力するはずもないロシアが、ラスプーチンの判断によってセルビア協力を承認したことで、第一次世界大戦は勃発するのである。因みにこの祈祷僧の孫が現在のロシア大統領・ウラジーミル・プーチンである。

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ユダヤ-21 バベルの塔建設は神への反逆

2019年02月08日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

【人間の堕落と神の怒り】   アダムとイヴの子はカイン、アベル、セツ。カインはアベルを殺し放浪の旅をするなかで妻を娶ってエノクを産む。一方セツの子孫が延々と続くうちに人間は堕落して、神は人間を創造したことを悔いる。そして洪水を起こして絶滅をはかった。しかし善人のノアは身内何人かとすべての生き物のつがいを、方舟(全長約150m:300キュビト)に乗せ、救助した。以降人間は堕落しなくなったかといえば、そうではなく、ノアの曾孫の時代に神の怒りをかう。それがバベルの塔の話。

【神を冒涜したバベルと塔】   ノアの家族は大洪水の危機を逃れた後、1年後にアララテ山(今のトルコ)に到着した。この西側にシヌアルの地(シュメールという平地)にたどり着いた。ここはメソポタミア(現在のイラク・クウェート)南部を占めるバビロニアの南半分の地域である。地上で最初の勇士、バビロンの征服者・ニムロデ王は、もし神が再び地を浸水させることを望むなら、神に復讐してやると威嚇し、水が達しないような高い塔を建てた。これがバベルの塔である。バビロンは当時世界の中心地、ユダヤ人の奴隷がバビロンには数多く居た。

 (紀元前6世紀頃)煉瓦とアスファルトを使って天、つまりシャマイール迄届くようなものを建てて名を上げようとした。しかし神ははるかに見下ろす塔まで降り立って「人間は言葉が同じなため、このようなことを始めた。人々の言語を乱し、通じない違う言葉を話させるようにしよう」と言った。このため、人間たちは混乱し、塔の建設をやめ、世界各地へ散らばっていった。

 16世紀半ばに描かれたブリューゲル(1526-1569 アントワープ出身)のバベルの塔は有名。サグラダ・ファミリアのよう。

【再び怒った神は人間を言語でバラバラにする】   散らばった世界は10カ所。それは、インドヨーロッパ語族、アフロ・アジア語族(西アジアから東・北アフリカにかけて分布する)、ドラビダ語族(南インドとスリランカ)、チャイナチベット語族(中国、東南アジアなどアジアの民族によって話される)、ウラルアルタイ語族、日本語族、マレーポリネシア語族、オーストロアジア語族(東南アジアからインド東部・バングラデシュに散在する)、バントゥー語族(アフリカの広い範囲)、バスク語族(スペインとフランスにまたがるバスク地方を中心に分布)。世界には約4000の言語があると言われているが、大別すると10言語で、その文法体系には共通性はないという。 

【日本語族ではなく・・・】  日本語は孤立語と言われていたが、源流があった。それはツングース語族(ユーラシア大陸から北方領土樺太、北海道を経由 日本語と文法が同じ)とオーストロネシア語族(インドネシアなど東南アジアから九州を経由 接頭語が日本語に酷似)

また、日本人のY染色体D1bは日本人固有のもので、朝鮮半島、中国大陸の民族には見られないDNAらしい。また成人T細胞白血病ウイルス(ATウイルス)は母乳を介して母親から感染する。このATウイルスが大陸や朝鮮半島の人からは発見されていない。つまり日本人のルーツは朝鮮半島からの渡来人ではないということである。そしてATウイルスのキャリアはツングース語族とオーストロネシア語族に多くみられる。これは日本の源流がツングース語族とオーストロネシア語族であるという証明である。

これらは1990年代からDNA研究が進化して発見されたものである。しかし歴史学者は、これらの科学的研究から判明したことを受け止める必要があると思うが、どうやら意固地のようである。これらも典型的なセンメルベイス反応である。

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ユダヤ-20 ギザピラミッド群とオリオン座

2019年02月07日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

 ギザの大ピラミッドは、エジプトのギザに建設された世界の七不思議で唯一現存する建造物である。紀元前5世紀にギリシャの歴史家・ロドトスによって報告されているが、この時点で建設から2000年以上経過していた。ギザピラミッド群とはクフ王、カフラ王、メニカフラ王のピラミッドを言う。クフ王の50年間統治が終わると、兄弟のカフラーが王となった。カフラー王の統治56年間の後はその息子メンカウラーが王位を継承し、メンカウラーは父親よりも小さなピラミッドを残した。エジプト第4王朝のファラオ、クフ王の墳墓は紀元前2560年頃に20年前後かけて建築されたと考えられ、完成時の高さ146.6mは、14世紀迄は世界で最も高い建造物であった。

 王の間のシャフト(通気口)はオシリスを表すオリオン座の3つ星を、女王の間のシャフトはイシスを表すシリウスの方向を示し、これは古代エジプト人のオシリス信仰によるものであるとされている。またクフ王、カフラー王、メンカウラー王のピラミッドの配置はオリオン座の三ツ星(アルニタク、アルニラム、ミンタカ)の配置と相似である。また三個のピラミッドの底面積の比は地球、金星、水星の体積の比と同じである。さらにクフ王の墓の高さは146.7m(現在は138.7m)周囲の長さは921.4mである。これは高さに円周率の二倍を乗じた数値である。

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ユダヤ-19 古代の世界商業都市フェニキア-3 ツロ完全滅亡

2019年02月07日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

 先に紹介したダレイオス1世(ダーラヤーウ1世)が建設した宮殿群であった。は王になる3年前の22歳の時にペルシャ王国(現在のイラン)を征服した。紀元前331年、アレクサンドロス軍47,000は、チグリス川上流のガウガメラで20万とも30万ともいわれたダレイオス3世指揮下のペルシア軍を破った(ガウガメラの戦い)。ペルシャ王・ダレイオスはこの時、妻・妃・子供たちを放置してがカスピ海東岸に逃れたという。ペルシャ王国の中枢に乱入したマケドニア軍は、バビロン(バビロニア王国の頃からずっと首都)やスーサの主要都市を略奪した。

 スーサからペルセポリス(ペルシャ帝国にあるダレイオス1世が建設した宮殿群)に向かう途中、ウクシオンの戦い、ペルシス門の戦いを経由してペルセポリスに入城した。ペルセポリスでは一般民衆に対して凄惨な虐殺と強姦を行い、徹底的に破壊した。ペルセポリスの徹底した破壊は、ペルシア戦争時にペルシアがアテナイのアクロポリスを焼き払ったことへの復讐の意味もあった。翌年、ダレイオス3世が王族で側近であったベッソスによって暗殺されると、アレクサンドロスはダレイオスの遺骸を丁重に葬った。そして、ベッソスはアレクサンドロスにより捕らえられ公開処刑された。

 その後にアレクサンドロスはキュロス国のツロに入り降伏を促すがツロは拒んだ。というのもツロはヘラクレス(父:ゼウス 母:将軍の妻・アルクメネ)と同一視されていたバアルの偶像というカナン人の高位の神の偶像を持っていたからである。アレクサンドロスはヘラクレスの神殿に行って偶像の礼拝をしたいと言ったが、ツロはこれを受け入れなかった。いよいよアレキサンドロスは、ネブカデネザルが滅ぼした陸のツロを破壊すると、その瓦礫で海を埋め立てることによって1km先の海のツロに渡った。しかしツロの抵抗は強くなかなか陥落できなかった。その時傲慢なツロに不満を持っていたフェニキアのシドンやビブロスが裏切ってアレクサンドロスについた。これにより最強の海軍は、最強の海軍により滅ぼされ、ツロの民1万人がなくなり3万人は奴隷となった。

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ユダヤ-18 古代の世界商業都市フェニキア-2 ツロ滅亡

2019年02月06日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

 ツロは、バビロニアのネブカデネザル王(紀元前634年 - 紀元前562年)に包囲され、13年間に渡って抵抗して沖合にある自然の要塞岩礁島は死守した。(紀元前585年)この戦いにはペルシャ人、ルデ人、プテ人が参加しているが、ツロは外部から戦力を雇ったのである。やがてバビロニアがペルシャのクロスによって滅ぼされるのが前530年頃であるから、自然の要塞岩礁島死守はこの50年ほど前の事になる。それから約240年後の紀元前332年、自然の要塞岩礁島も総攻撃を受けて滅亡する。その相手はギリシャ帝国(ギリシャ北部のマケドニアが覇者となった)のアレキサンダー大王である。

 このマケドニア帝国はフィリポス2世王がギリシャ人とベルベル人を纏めることによって強国・ギリシャに成長させた。しかし紀元前336年45歳の時に暗殺され、その事業は子のアレクサンドロス3世に継承された。アレクサンドロス3世には兄が居たが、知的障害を持っていたという。アレクサンドロス3世前356年-前323年は、マケドニア王国の王である。また、エジプトのファラオ(古代エジプトの君主)も兼ねた。ヘーラクレースとアキレウスを祖に持つ王は、旧約聖書やコーラン、ゾロアスター教、シャー・ナーメなど多様な民族の教典にも登場する。またソクラテスの弟子プラトンの弟子アリストテレスはアレクサンドロス3世の家庭教師であったことは有名である。アリストテレスがエミザ学園で教えていた生徒及びその息子たちは、アレクサンドロス3世が王になったときの側近になっている。

 

バビロンの遺跡 By ルーブル美術館Ⅰ

 アッシリアの過酷な制圧は支配下民族の怨念を生み出し、BC6世紀になるとアッシリア帝国の各地で反乱が起き、やがて倒れた。カルディア人の国家・新バビロニア王国がアッシリアの大部分を占めた。ネブカデネザル王の時代が黄金時代である。バビロンの空中庭園は、王がメディアから迎えた王妃アミティスの為に造ったものである。

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ユダヤ-17 古代の世界商業都市フェニキア-1 ツロ

2019年02月06日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

 フェニキアは、古代の地中海東岸に位置した世界商業の一大中心地として知られていた。北は現シリアから、南はパレスチナに至る海岸沿いの南北に細長い地域で、現在のレバノンの領域にあたる。フェニキア人の建設した主な主要都市には、ツロ、シドン、ビュブロス、ベリュトス(現在のベイルート)などがある。フェニキア人は海上交易に活躍し、紀元前15世紀頃から紀元前8世紀頃に繁栄を極めた。さらに、カルタゴなどの海外植民市を建設して地中海沿岸の広い地域に広がった。船材にレバノン杉を主に使用した。しかし紀元前9世紀から紀元前8世紀に、内陸で勃興してきたアッシリアの攻撃を受けて服属を余儀なくされる。アッシリアの滅亡後は新バビロニア、次いでペルシア帝国に服属するが、海上交易では繁栄を続けた。しかし、アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス大王によって征服された。

 フェニキアの中でもツロという地中海沿岸の町は、航海によって繁栄した町で、当時としては世界商業の一大中心地として知られていたようです。また、アッキ貝から取れる高級な紫色の染料は有名でした。エルサレム崩壊後、ツロの王はエルサレムが仕切っていた道路税などを支払う必要が無くなったとして喜んだという。ところが紀元前6世紀頃、バビロニアのネブカデネザル王(紀元前634年 - 紀元前562年)に包囲され、13年間に渡って抵抗した後、バビロニアに従属する。実はツロの国は陸と海の二か所にあったが、滅ぼされたのは陸の方で、バビロニアのネブカデネザル王は本土と1キロほど離れた沖合にある岩礁島、ヒラム王(在位:紀元前969年 – 936年)が築いた自然の要塞は難攻不落の砦として陥落は免れた。

木材輸送図 By ルーブル美術館Ⅰ

レバノン山岳地帯に生育する良質の杉材は、壮大な宮殿を建設したアッシリアの王にとっては欠かせない資材であった

 

サルゴン2世とその高官 By ルーブル美術館Ⅰ

 BC9世紀頃アッシリアが古代オリエントの表舞台に登場する。北メソポタミアのアッシリアは元々BC18世紀からチグリスの大地にあったセム系の国家であった。BC9世紀頃から騎馬民族に学んで軍隊を強化した。鉄の武器をまとったアッシリアの力はエジプトまで及んだ。アッシリアの王は西アジアを征服し、中央集権体制を敷き、帝国内の治安維持をはかった。

 尚、BC23世紀頃、シリアの草原にルーツを発するセム人出身の王がシュメールの都市国家を征服し、全メソポタミアを統一した。王の名はサルゴン。アッカド王朝の誕生である。サルゴンはペルシャ湾まで進出するに至るが、首都アガデは未だ発見されていない。

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ユダヤ-16 第一次世界大戦前のユダヤ人

2019年02月06日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

 第一次世界大戦は、フランス、イギリス、ロシアを含む27カ国連合軍とオーストリア、ドイツ、オスマン、ブルガリアの4か国同盟国が戦った。全世界で50の国があったが、残る19ヵ国は中立国である。敗戦国ドイツは処罰されベルサイユ条約を調印する。兵器開発禁止、産業解体、賠償金支払いは現在も続いているという。そうした中でヒトラーが出現した。ゲルマン民族主義、アーリア人第一主義の元にユダヤ人を追放した。追放されたユダヤ人は近隣諸国へ移動したが、ヒトラーはこれら近隣のチェコ、ポーランド、オランダ、ベルギー、フランスを制圧したため、その結果追放したユダヤ人を再び抱えることとなる。かくして600万人のユダヤの大虐殺が始まるが、他に障碍者、ジプシー、反政府者も400万人虐殺している。

 この時、近隣のヨーロッパは虐殺されるユダヤ人を助けることはなかったため、ユダヤ人の多くは不価値論者になったという。1948年5月14日にイスラエルが誕生し、初代首相はダヴィド・ベングリオンが就任した。彼はイスラエルの労働党・つまり社会主義の無神論者なのである。


 ジプシー
 ・由来はエジプト
 ・蔑視の対象:売買の対象
 ・東方から来た人 :@6-7世紀インド西北部(パキスタン)

 ・ロマ族     :クリントン、チャップリン、ユルブリンナー
 ・特定宗教は無い

 ・アーティスト、世俗的活動中心

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ユダヤ-15 偽ユダヤ人の噂

2019年02月06日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

 紀元後70年にイスラエルを脱出したユダヤ人は1948年にイスラエルに戻った。そのユダヤ人にはアシュケナージと言われるヨーロッパ系とスファラジーと言われるスペイン、ポルトガル系に大別できる。

 ところで、イスラエルの初代首相デイビッド・ベングリオンは以下のような発言をしていた。「モロッコから来たユダヤ人は何の教育も受けていない。彼らの習慣はアラブ的である。私が好きではないモロッコ文化がここにある。私たちはイスラエル人がアラブ的になって欲しくない。私たちは個人と社会を破壊してしまう『レバント(東地中海沿岸地方)精神』と戦い、ディアスポラ(離散)のなかで作り上げて来た本当のユダヤ的な価値を維持しなければならない」 イスラエル第4代首相ゴルダ・メイアは、スファラディ系ユダヤ人に対して人種差別的な傲慢さを明らかにした。「私たちはモロッコ、リビア、エジプトその他のアラブ諸国からのユダヤ移民を抱えている。私たちはこれらのユダヤ移民たちを適切な文化レベルまで引き上げてやらなければならない」イスラエル外相を務めたアバ・エバンは、スファラディ系ユダヤ人とアラブ世界に対する偏見をはっきりと言い表していた。「私たちが自分たちの文化的状況を見るにつけ、心痛むことが一つある。それはアラブ諸国からやってきたユダヤ移民たちが、やがて優位に立ってイスラエル政府に圧力をかけることになり、隣国すなわちアラブ諸国の文化レベルにまで落としてしまわないかということである」

 つまり、アシュケナージと言われるヨーロッパ系ユダヤ人は偽ユダヤ人だと言う。そしてこれらをカザール人だとした。これは本当のことなのか? カザールというのは、7世紀から10世紀にかけてカスピ海の北からコーカサス、黒海沿いに栄えた遊牧民族およびその国家である。西は東ローマ帝国に、南はイスラムの国に、東はロシア・モンゴルに挟まれていた。8世紀、カザールのプーラン王はユダヤ教に改宗し、支配貴族全員に改宗をすすめたが、10世紀になると滅亡し、ロシア・モンゴルに攻められた為に、北上し西ヨーロッパへ移動した。故にアシュケナージと言われるヨーロッパ系ユダヤ人の先祖はカザールだというが、まったく根拠に欠けるという。1976年にアーサー・ケストラーというハンガリー出身のユダヤ人哲学者は著書「第十三支族」でアシュケナージと言われるヨーロッパ系ユダヤ人の先祖はカザール人だと言ったが、その論拠はダグラスダンロップというオリエント学者が1967年に書いた「ユダヤ人カザール人の歴史」の中で匂わしてはいるが、結論付けはしていない。

 言語から調べると、アシュケナージの言語はイーディッシュ語で、文字はヘブライ文法はドイツ語である。一方カザール語は文字はチルク語、文法はアルタイ諸語である。従ってアシュケナージと言われるヨーロッパ系ユダヤ人はカザール人だとする説は信じがたい。

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ユダヤ-14 税収人マタイという人

2019年02月06日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

 マタイとは、新約聖書の福音書に登場する人物でイエス・キリストの十二使徒の1人で、イエスの弟子となる以前はローマ帝国の収税人であった。イエスはこの後に預言者となるマタイと出会ったのは収税所である。当時の収税人が一般に人気を博すことは無く、ユダヤの地方に住んでいたユダヤ人の間では特にそうで、付加税が課せられるかもしれないと伝えられるだけで反乱が起きるほどであった。歴史家ヨセハスなどは、『ローマ人に屈服して税を払う者は憶病者だ』と言って,抵抗することを同胞に勧めたという。ユダヤ人が課税に対しで憎しみをいだいていた理由には、外国の国家権力に対する服従を認めることになるという理由があった。

 収税人は往々にして道徳的にもいかがわしい投機家であった。物品の価値を偽って課税し,次いで得たお金を税金を払えない人に,しかも高い利率で貸してはゆすりを働く者も少なくなかった。それら収税人は、持ち物全部を地面に投げ出させて検査し、自分たちの気に入ったものを何でも取り、よく肥えた荷物運搬用の家畜を連れ去っては劣った自分たちの家畜と入れ替えたという。ゆえに、ユダヤ人の収税人がさげすまれていたのも当然で、収税人はローマの権力のために働き、“汚れた”異邦人と緊密な関係を持っていただけに、そばにいるだけで人々は不快であった。

 イエス・キリストは、収税人の間にはびこっていた腐敗を大目に見ることはなかった。しかしそうした人々を霊的な面で助けたから、敵対者たちはイエスのことを「収税人や罪人らの友」と呼んだ。しかしイエスは、謙虚に自分が罪人であることを認め,悔い改めた収税人のほうが,高慢にも自分を義にかなった者とみなしたパリサイ人よりももっと義にかなっていることを示した。悔い改めたそうした収税人の中にいたのがマタイやザアカイなのである。

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ユダヤ-13 預言者エゼキエルとロシア拡大

2019年02月06日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

 預言者エゼキエルは祭司であり、捕囚民の長老たちから相談を受ける存在であったという。そして紀元前597年の最初のバビロン捕囚において強制移送された一人であり、妻はエルサレムの陥落前夜に亡くなっている。エゼキエルが2400年前に予言した内容によると、マゴクの地のゴク、つまりカフカースから北方に住むノルマン人が9世紀になるとバルト海に上陸しキエフ公国を造り、11世紀には繁栄するという。ノルマン人(海賊)は8世紀後半から活発化し、9世紀にはヨーロッパ各地を侵略し、色々な国々を建国したが、その中のロシア平原に侵入した一派はヴァリャーグと呼ばれ、彼らはこの地で「キエフ大公国」を建国した。さらに黒海に進出し、東ローマ帝国のコンスタンティノポリス侵攻も行った。ただし彼らは、商業目的も兼ねていた。

 やがてキエフ公国は13世紀頃にモンゴル帝国につぶされたが、この支配をキエフ公国から表現したのがタタールのくびきである。つまりモンゴル=タタールへの臣従を意味する。しかしロシア側はこのモンゴル支配下(モンゴルの娘を娶って生きる)に於いて要塞建設技術や騎馬民族文化を学ぶのである。鞍、鐙、くつわなどの技術によってモンゴル騎馬民族は最強の民族となった。これらを習得したロシア人のことをコサックという。やがて15世紀になるとモンゴル民族を圧倒したロシアはモンゴルに代わってユーラシア大陸を支配し、東は太平洋岸ウラジオストク迄、西は地中海迄範囲を広げた。

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ユダヤ-12 バビロン-3 ペルシャによるバビロン制圧

2019年02月06日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

 紀元前550年、メディアはその歴史は終わりを告げてキュロスの時代になる。しかしながら世界を制していたのはバビロニアである。チグリス川とユーフラテス川下流一帯を指す歴史地理的領域である。実はアッシリアの属国であったときのバビロニアは、アッシリアを制圧することで、新バビロニア王国(カルデア王国)を築き、更に紀元前539年にはペルシャの王(ハカーマニシュ朝)キュロス2世(在位紀元前550年-紀元前529年)によって征服され、その帝国の一部となった。

 当時のバビロニアの主要都市がバビロンで、今のバグダッド市の南に90kmのところに位置する。周囲が69km、高さは60m、地下11mの城壁で囲まれた要塞には、29年分の食糧が蓄えれていたという。城壁の中にはユーフラテス川が南北に流れ、さらに淵に沿って二重城壁があり8か所の門は閉ざされているから侵入は不可能なのである。キュロス率いるペルシャ軍は、ユーフラテス川から城壁の内部に入ろうと考えた。ユーフラテス川の水流を変更するためのバイパスを設け、水位が下がったところで城壁内に侵入した。またこのときは紀元前539年10月5日バビロンの偶像祭、内側の城壁の門は開放されている時を狙った。かくして要塞バビロンはペルシャ王キュロスによって倒され、バビロンはペルシャの属国となり、その後ペルシャは西はエジプト、東はインド迄拡大し発展した。

 後の世にヨセフス(BC37-100)というユダヤ人歴史家がユダヤ古代誌などの書物のなかで、キュロス王について記載している。それによると、キュロスは預言者イザヤの44章を読んだからペルシャ王国の拡大に奮い立ったのだという。バビロニアはペルシャの属国になると、ペルシャはバビロンを首都とした。キュロスは元々ゾロアスター教であったがバビロン教も引き継いだ。バビロンが廃墟になるのはAD1000年ごろというから約1500年くらいはキュロスのペルシャは繁栄したといえる。ちなみに現在もバビロンには人が住んでいて観光により収入をえているらしい。

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ユダヤ-11 バビロン-2 メディアに代わってペルシャの台頭

2019年02月06日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

 イザヤの予言によるとバビロンはメディアに滅ぼされると言うが、実際にはペルシャに滅ぼされている。元々アッシリアは従属者であるバビロン、メディア、ペルシアに滅ぼされた。そのバビロンも従属者に滅ぼされたのであるが、従属者メディアについて紹介する。メディア王国(紀元前715年頃 - 紀元前550年頃)は、現在のイラン北西部を中心に広がっていたメディア人の王国である。首都はエクバタナ。アッシリアが紀元前612年頃崩壊したことで、当時の大国のひとつとなった。メディア最後の王はアステュアゲス、紀元前552年にペルシアのカンビュセス1世とキュロス2世が反旗を翻したためアスティアゲスはこれと戦い、紀元前550年、メディアの将軍ハルパゴスにも裏切られ、メディアはその歴史は終わりを告げてキュロスの時代になる。

 メディア最後の王・アステュアゲスにはマンダネという娘がいたが、王のブレーンであり魔術師のマゴスは、その娘のことを不吉であるとした。そこで王・アステュアゲスは以前から見下していた田舎の国ペルシャの王・カンビュセツ1世(紀元前600年頃 - 紀元前559年頃)の元に嫁がせた。やがて二人にはキュロスが生まれるが、魔術師のマゴスはキュロスが後にこの世を支配するという風に占ったことから、アステュアゲスはマンダネ妃をペルシャからメディアに呼び寄せた。そしてアステュアゲス王は時の将軍・ハルパゴスを呼んで赤ん坊のキュロスの暗殺を命令した。そこでハルパゴスは羊飼い奴隷に殺させようとするが、その奴隷には丁度死産した子供がいたためキュロスを育て、死産の子をキュロスとした。やがて10年経つと、キュロスはリーダーシップをとって、貴族の子を奴隷扱いしたという。奴隷キュロスに奴隷扱いされた貴族の子の話を聞いた親は、王・アステュアゲスに直訴。王・アステュアゲスは羊飼い奴隷を呼んで事の詳細を白状させると、将軍ハルパゴスを呼び、将軍の子を斬殺し、その肉を将軍に食べさせたという。今までの経緯を手書きにまとめたハルパゴスはその手紙をキュロスに送ると、ペルシャ人を集めた。そしてハルパゴスとともにメディアの王・アステュアゲスに挙兵したのである。この連合軍のほとんどはハルパゴスの部下、つまりメディア人であったから、メディアの王・アステュアゲスは自軍に倒されたのである。

 この時キュロスは、メディアの王・アステュアゲスから王の座を奪うが、それ以外については遇したという。ペルシャがメディアを制圧するに際して、国民メディアの反感を減らす目的があったといえる。メディアの属国であったペルシャが台頭するのである。

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ユダヤ-10 バビロン-1 バビロンはアッシリアを滅亡

2019年02月06日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

 アモツの子・イザヤは旧約聖書に登場する預言者である。貴族の出身で国際情勢を宣告した。今から約2700年前に100年後の預言を残している。それは今栄えているアッシリアは、バビロンの攻撃によって滅亡するという。アッシリアはオリエントの世界で紀元前2500年から1900年に渡って繁栄した国である。場所は現在のイラク、メソポタミア北部にあたる。南側にはバビロニアがあり、首都は最初アッシュールであったが後、にニネヴェに遷都した。チグリス川とユーフラテス川の上流域を中心に栄え、メソポタミアと古代エジプトを含む世界帝国を築いたのである。そしてアッシリアの遺蹟はペルシア帝国に受け継がれていった。

 アッシリア人が作った文明をシュメール文明といい、 地球の地軸は23.5°傾いているというような知識を持っていた。その世界帝国がバビロンに滅ぼされたのが今から約2600年前。当時のバビロンの王の子・ネブカドネザルは旧約聖書の中にも登場することでも知られる。バビロンは300年にわたり、アッシリアへ従属し続けていたが、また、ネブカドネザルの父・ナボポラッサルはメディアやペルシアと同盟を結んで、ニネヴェを滅ぼした。つまりナボポラッサルはバビロンをアッシリアから解放したのである。

 

ハンムラビ法典碑 By ルーブル美術館Ⅰ

 バビロンはバビロン王朝の都。バビロン第一王朝第六代のハンムラビ王はBC18世紀に全メソポタミアの統一に成功。以降シュメール民族は姿を消す。碑にはアッカド語で法文が書かれ、太陽神・シュマシュとハンムラビ王の姿がある。BC1600年頃、アナトリア高原のヒッタイト王国の攻撃を受けてバビロニアは滅んだ。

 

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ユダヤ-9 ロシアにおけるユダヤ人

2019年02月06日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

 1300年ごろ、大陸ではキプチャク・ハーンという国が発展していた。ここはチンギス・ハーン1162-1227が長子ジュチに与えたイルティシュ川流域の所領が,西方に拡大発展して成立した遊牧国家である。東はイルティシュ流域から西はドニエストル川,北はブルガールから南はカフカス,シル・ダリヤ中流域に及び,ロシアでさえも属国となって貢租を支払っていた。そのロシアは当時モスクワ大公国と言ってロシア帝国の前身となる国である。17世紀になるとピョートル1世(1672-1725)がロシア皇帝となるが、子供の時の教師がユダヤ人であり、西の技術導入の重要性を教えられていたという。

 ピョートル1世は身長213センチの大男であり、銀の皿をくるくる巻いて管にできるほどの怪力の持ち主であったという。手先が器用でものづくりを愛好した。また幅広い技術的知識を持ち、どのような技術でも素早く習得したといわれる。西の技術導入のために250人もの配下をヨーロッパに派遣したが、実は自分もオランダの造船所に入って視察している。そして多くの技術者を持ち帰っているが、ほとんどがユダヤ人であったという。やがて彼は海軍の重要性を思い、サンクトペテルブルクというバルト海東部のフィンランド湾最東端に面するロシア西部の都市の近代化を推進、1917年までロシア帝国の首都であり、のちにレニングラードになった。そしてさらに西側の領土を拡大し今のポーランド、リトアニアには約120万人のユダヤ人を 隣国との防波堤かのごとく配置したのである。

 無理な近代化によって山賊のようにみなされたコサック(ロシア帝国によって編成された半農武装集団であるが、鞍、鐙、くちわを工夫することによって騎馬技術を身に着けた)が国境警備兵としての役割を担うと、ポーランド、リトアニアに集まっていたユダヤ人400万人を襲撃する。これをポグロムと言う。かくして多くのユダヤ人は斬殺されるが、約300万人はドイツへ脱出した。またアメリカへ脱出するユダヤ人も数多く居て、後にウオール街で大活躍した。これはアメリカがユダヤ人に対して友好的であったからである。また当時オスマン帝国であったパレスチナに移住して開墾を第一歩とした者もいた。因みにイスラエルの初代首相のベングリオンやゴルダメイアはロシア生まれである。

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ユダヤ-8 第一次ユダヤ戦争後のユダヤ人

2019年02月06日 | 世界史-中東.アジア・アフリカ

 第一次ユダヤ戦争66-73はユダヤの地イスラエルで、将軍バスパシアノス率いるローマ帝国とユダヤ人との戦いを言う。当時ローマ帝国の将軍ネロは68年に自殺し、他の有力候補も暗殺される中でバスパシアノスが選ばれて将軍になった。イエスの使徒たちと同時代のユダヤ教のラビ(指導者)に、ヨハナンベンザッカイが居る。彼はエルサレムで学んだのち,一時ガリラヤで活動したが,再びエルサレムに戻り「神殿の陰で教え」,ユダヤ戦争後のエルサレム神殿の破壊 以後は,ユダヤ民族宗教の保存に活躍した。バスパシアヌス帝の許しを得てヤムニアにユダヤ人子弟のための学院・聖書研究所を創設,これはユダヤ文化の中心となった。  

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