先日のこと、紀ノ川を下り“西行像”の前を通過して紀国一之宮である“伊太祁曽神社”へ向かった。
“伊太祁曽神社”は、日本に木種を播き施し緑豊な国に造り上げたと『日本書紀』に記される木の神様”五十猛命”を、お祀りする神社。
また『古事記』には五十猛命が大国主神の命を救った神話が記されており、「いのち神」「厄除け・病気平癒の神」としての信仰も古くからあるという。
私は全国に有る“一之宮”をいくつ巡ることができるんやろか?
@伊太祁曽神社
“伊太祁曽神社”についての具体的な年号の初見は「続日本紀」の文武天皇大宝2年(西暦702年)。
神代のことはわかりませんが、伊太祁曽神社が現在の社地に静まります以前には、日前神宮・国懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかがすじんぐう=通称:日前宮にちぜんぐう)の社地にお祀りされていたようです。
日前宮のご鎮座が垂仁天皇16年と伝えられていますので、その頃に山東(さんどう=現在の伊太祈曽)に遷座せられたようです。
しかしその場所は現在の社殿のある場所ではなく、南東に500mほど離れた「亥の森」と呼ばれる所でした。現在も田んぼの中にこんもりした森が残っており、いかにも神奈備の様相を呈しています。
亥の森は旧社地として、小さな祠を祀っており毎年旧暦十月初亥日に「亥の森祭」が執り行われます。
「寛永記」には「伊太祁曽明神ハ和銅六年十月初亥ノ日当所に遷リ給フ」と記されており、現在の社地への鎮座は和銅6年(西暦713年)ということになります。
つまり太古より祀られていた伊太祁曽神社は日前宮の鎮座とともに山東に遷り、大宝2年の官命によって社殿の造営がはじめられ、約10年後の和銅6年に現在の地にご鎮座になられたというのが通説です。
延喜式神名帳に所載の神社(式内社)で、明神大・月次・新嘗・相嘗に預かると記載されており、平安期には朝廷の崇敬が篤い大社であったことがわかります。紀伊国(木国)の一ノ宮として朝野の崇敬を受けてきました。
“伊太祁曽神社”は、日本に木種を播き施し緑豊な国に造り上げたと『日本書紀』に記される木の神様”五十猛命”を、お祀りする神社。
また『古事記』には五十猛命が大国主神の命を救った神話が記されており、「いのち神」「厄除け・病気平癒の神」としての信仰も古くからあるという。
私は全国に有る“一之宮”をいくつ巡ることができるんやろか?
@伊太祁曽神社
“伊太祁曽神社”についての具体的な年号の初見は「続日本紀」の文武天皇大宝2年(西暦702年)。
神代のことはわかりませんが、伊太祁曽神社が現在の社地に静まります以前には、日前神宮・国懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかがすじんぐう=通称:日前宮にちぜんぐう)の社地にお祀りされていたようです。
日前宮のご鎮座が垂仁天皇16年と伝えられていますので、その頃に山東(さんどう=現在の伊太祈曽)に遷座せられたようです。
しかしその場所は現在の社殿のある場所ではなく、南東に500mほど離れた「亥の森」と呼ばれる所でした。現在も田んぼの中にこんもりした森が残っており、いかにも神奈備の様相を呈しています。
亥の森は旧社地として、小さな祠を祀っており毎年旧暦十月初亥日に「亥の森祭」が執り行われます。
「寛永記」には「伊太祁曽明神ハ和銅六年十月初亥ノ日当所に遷リ給フ」と記されており、現在の社地への鎮座は和銅6年(西暦713年)ということになります。
つまり太古より祀られていた伊太祁曽神社は日前宮の鎮座とともに山東に遷り、大宝2年の官命によって社殿の造営がはじめられ、約10年後の和銅6年に現在の地にご鎮座になられたというのが通説です。
延喜式神名帳に所載の神社(式内社)で、明神大・月次・新嘗・相嘗に預かると記載されており、平安期には朝廷の崇敬が篤い大社であったことがわかります。紀伊国(木国)の一ノ宮として朝野の崇敬を受けてきました。
>大木の木の俣をくぐらせて・・
木の穴といえば、やっぱり東大寺大仏殿の柱の穴をイメージしてしまいます。
最近太ったから通れるかなぁ?