子供のころ、親戚・家族に映画関係の仕事に携わる者が多く近隣の映画館は窓口パスで出入りしていた。おかげで昭和25年前後から映画全盛の30年代にかけての名画の多くを見てきた。今は、当時の映画を有料専門チャンネル放送で見ることができ、日々楽しんでいる。
これらの中でも黒澤作品の面白さや迫力は素晴らしい。目まぐるしく展開する緻密な画面、作品の時代背景を滲ませる音楽、見る側の肌をあわ立てる効果音などなど。これらが絶妙に組み合わさって、多くはない作品のどれひとつとっても後世に残る名作ぞろいと評価される所以だろう。
こういう作品群にあって「七人の侍」のあるシーンが強く印象に残る。それは、三船敏郎演じる農民出身の菊千代が、“板木(バンギ)”を打ち鳴らすシーンだ。板木は、仲間達へ合図するために叩き鳴らす板。昔は寺院の集会合図や火災の警報に用いられたとある(大辞泉)。今日のアラームである。
この板木が突然鳴り響き、驚いた村人はうろたえながら広場に駆けつけ右往左往する。これを見た七人のリーダー格・島田勘兵衛(志村喬)がやおら高みに立ちこう叫ぶ。「盗賊はどこだ」、「誰が見た」。村人はお互い顔を見合わせるだけで誰も出て来ない。そこで勘兵衛は「では板木を叩いたのは誰だ」と続けるが名乗り出る者がいない。
そこに菊千代が飛び出し「俺が叩いた」と名乗り出て農民に向かってこう叫ぶ。「われわれ七人が村に来た時は一斉に家に逃げ込み、板木が鳴ると今度は一斉に飛び出して来る」。さらに「お前ら、いつもこうだ」と叫ぶ。
この場面は次の事を示唆している。この村の農民は、“侍は何をするか分からない権力者集団”、“板木が鳴ると武装した盗賊が襲撃して来る”と生活体験から学習している。そのため、それらが現れると無条件に反応してしまう。ここでの侍姿や板木の響きは彼らにとってのアラームなのだ。
これら農民のとった行動は、現代人にも通じないか。板木の発するアラームの真偽を確かめもせず、この農民同様思い込みだけで行動していないだろうか。少なくともせっかちを自認する自らには“他山の石”である。
現代の板木はいたる所で鳴り響いている。ただ映画のように生活範囲に板木が一つだけならまだいい。また叩き手も大方限られている。ところが現代は、板木に相当する通信機器が新聞、雑誌の紙媒体からテレビ、ラジオの電波媒体さらにはパソコンや携帯電話など限りなく存在する。
また板木の叩き手は、現代では“社会の木鐸”といわれる新聞記者や報道記者など職業叩き手が特定の板木をみんなで叩いている。さらに映画では村人でない菊千代が勝手に叩いて騒ぎをもたらしたが、今日はパソコンや携帯電話のブログ、ツイッターで個人の誰もが叩き手になっている。
これだけの板木と叩き手が、政治の混迷、経済不況、健康不安、老後の心配から隣の芝生の青さや晩飯のメニューまで騒ぎ立てる・・・。こうまで懇切丁寧に響き渡らせられると耳にする側は不安と焦燥で農民ならずとも走り出したくなる。―近年、ウツの増加が問題となっているが、案外、板木の争鳴も原因のひとつかも?―
そうかといって、板木と叩き手は増えこそすれ減る気配はない。避けえない板木の大合唱ならせめて菊千代に「お前ら、いつもそうだ」といわれないためにも、自分の目と耳でしっかり聞きたい。そして板木とその叩き手の真意に迫りたい。
これらの中でも黒澤作品の面白さや迫力は素晴らしい。目まぐるしく展開する緻密な画面、作品の時代背景を滲ませる音楽、見る側の肌をあわ立てる効果音などなど。これらが絶妙に組み合わさって、多くはない作品のどれひとつとっても後世に残る名作ぞろいと評価される所以だろう。
こういう作品群にあって「七人の侍」のあるシーンが強く印象に残る。それは、三船敏郎演じる農民出身の菊千代が、“板木(バンギ)”を打ち鳴らすシーンだ。板木は、仲間達へ合図するために叩き鳴らす板。昔は寺院の集会合図や火災の警報に用いられたとある(大辞泉)。今日のアラームである。
この板木が突然鳴り響き、驚いた村人はうろたえながら広場に駆けつけ右往左往する。これを見た七人のリーダー格・島田勘兵衛(志村喬)がやおら高みに立ちこう叫ぶ。「盗賊はどこだ」、「誰が見た」。村人はお互い顔を見合わせるだけで誰も出て来ない。そこで勘兵衛は「では板木を叩いたのは誰だ」と続けるが名乗り出る者がいない。
そこに菊千代が飛び出し「俺が叩いた」と名乗り出て農民に向かってこう叫ぶ。「われわれ七人が村に来た時は一斉に家に逃げ込み、板木が鳴ると今度は一斉に飛び出して来る」。さらに「お前ら、いつもこうだ」と叫ぶ。
この場面は次の事を示唆している。この村の農民は、“侍は何をするか分からない権力者集団”、“板木が鳴ると武装した盗賊が襲撃して来る”と生活体験から学習している。そのため、それらが現れると無条件に反応してしまう。ここでの侍姿や板木の響きは彼らにとってのアラームなのだ。
これら農民のとった行動は、現代人にも通じないか。板木の発するアラームの真偽を確かめもせず、この農民同様思い込みだけで行動していないだろうか。少なくともせっかちを自認する自らには“他山の石”である。
現代の板木はいたる所で鳴り響いている。ただ映画のように生活範囲に板木が一つだけならまだいい。また叩き手も大方限られている。ところが現代は、板木に相当する通信機器が新聞、雑誌の紙媒体からテレビ、ラジオの電波媒体さらにはパソコンや携帯電話など限りなく存在する。
また板木の叩き手は、現代では“社会の木鐸”といわれる新聞記者や報道記者など職業叩き手が特定の板木をみんなで叩いている。さらに映画では村人でない菊千代が勝手に叩いて騒ぎをもたらしたが、今日はパソコンや携帯電話のブログ、ツイッターで個人の誰もが叩き手になっている。
これだけの板木と叩き手が、政治の混迷、経済不況、健康不安、老後の心配から隣の芝生の青さや晩飯のメニューまで騒ぎ立てる・・・。こうまで懇切丁寧に響き渡らせられると耳にする側は不安と焦燥で農民ならずとも走り出したくなる。―近年、ウツの増加が問題となっているが、案外、板木の争鳴も原因のひとつかも?―
そうかといって、板木と叩き手は増えこそすれ減る気配はない。避けえない板木の大合唱ならせめて菊千代に「お前ら、いつもそうだ」といわれないためにも、自分の目と耳でしっかり聞きたい。そして板木とその叩き手の真意に迫りたい。
高田昌史(シンクタンク、ニュース・アナリスト)