「自由意志」という言葉を口にすると、すぐにそんなものはないという反論が返ってくるものだ。しかし、私は物理系の人が語る、この世界は決定論的に変化しているとのかどうかという議論には関心がないし、神経科学が生体に刺激を与えてその反応を見るという実験手法をとっている限り、未だ自由意志を研究対象として扱えていないと感じる。
重要なことは、現に我々は自分の意志で自由に振る舞えるという感覚を持っていることである。Libetらの実験が示すようにその感覚には脳の活動が先行しているとしても、生体が自ら活動を開始できることには変わりがない。このことを指して私は「生物学的自由意志」と呼ぼうと思う。
ほ乳動物における体温の恒常性、脳を厳重に保護する頭蓋骨などを見ても、進化の過程を通じて生物が環境からの独立性を発達させてきたのは疑いようがないと思われる。これは究極的には体内の連鎖的酵素化学反応を安定に進行させることに寄与している。その体内で安定に進行している酵素化学反応を介し、作動器(筋肉)を用いて外界に作用を及ぼすこと、これが生物学的自由意志である。
重要なことは、現に我々は自分の意志で自由に振る舞えるという感覚を持っていることである。Libetらの実験が示すようにその感覚には脳の活動が先行しているとしても、生体が自ら活動を開始できることには変わりがない。このことを指して私は「生物学的自由意志」と呼ぼうと思う。
ほ乳動物における体温の恒常性、脳を厳重に保護する頭蓋骨などを見ても、進化の過程を通じて生物が環境からの独立性を発達させてきたのは疑いようがないと思われる。これは究極的には体内の連鎖的酵素化学反応を安定に進行させることに寄与している。その体内で安定に進行している酵素化学反応を介し、作動器(筋肉)を用いて外界に作用を及ぼすこと、これが生物学的自由意志である。
>重要なことは、現に我々は自分の意志で自由に振る舞えるという感覚を持っていることである。
全く同意です。そしてその感覚を支えているのは決定論的な物理現象になります。
未来を変えるという意味での選択の自由はこの世に存在していませんが、
仰るとおり、選択している自由感があります。
日常的な意味であれば、意識は選択していない瞬間はありません。
常に選択の連続であり、それが意識の流れになっています。
グラスの中で揺れる水のように、外部から作用がない限り、
時と共に決定論的に波打つことしかできません。
選択に理由があるならば、同じ状態の中で何度やっても同じ選択をするでしょう。
理由のある選択の意志を保証するのが決定論です。
選択に理由があっても、その意志が因果的物理作用に関係なく勝手に変えられてしまうのが、
非決定論です。 非決定論の世界では自由意志が妨害されます。
自由意志は、それが未来において決まっているかどうかは無関係で、その意志が妨害されないことが重要です。
なので、
決定論(自由と秩序) vs 非決定論(不自由と混沌)
という図式になり、
非決定論の非決定性は、自由意志を妨害する敵になると思います。