ZAMACのフォト日誌

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自然環境の変化と地域社会の関係

2013-01-12 22:21:26 | うんちく・小ネタ

 新年のご挨拶をと考えている中に1月も中旬になってしい、その声は小さくなりそうだ。原因はネタ切れにもある。

 正月早々少し硬いテーマになってしまったが、たまたま続けて自然環境問題についての講座を受ける機会があったので記しておきたい。
正直、次元が高いというか、わが世界とちょっと違う感じもしているが、聞いてみて無関心ではいられない「なるほど」「大きな問題だ」ということがたくさんあった。

 力不足でとても講義の再現はできないので、印象的だったことだけを書いてみたい。まず受講した講座とテーマだ。

Ⅰ2012年12月6日 森の力で甦れ ~ 自然と調和する復興と再生 (会場:仙台国際ホテル)

Ⅱ2013年1月9日   空から見た東北 ― 動く森、動く集落 (会場:東北芸術工科大学)

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Ⅰ 森の力で甦れ

(要約) 大震災の以前から世界各地で説得と実践を展開してきた「横浜国立大学名誉教授 宮脇昭氏」の講演。この迫力がすごい。
 アフリカをはじめとする世界各国の政府に招聘されたり、物申したりして、実際に植林をやらせて、その後について追跡研究している。 机上の教育者ではない、実業の人のようだ。
 宮脇先生の切り口は今回の震災の場合、復興植林では意味がない。最低でも100年、200年先を見据えて科学的?に森の防波堤を作らなければならない。として種々データと堤防の位置や構造の提案があった。
主催者にこの内容のように「やるの!?  やらないの!」と、先生が約束を迫るシーンなどは、すごいものがあった。

Ⅱ  空から見た東北

 こちらは東北芸術工科大学の公開講座だが、民俗学の赤坂憲雄教授の転出を受けて、東北文化研究センター所長に就任した田口洋美教授が講師だった。

 研究テーマにもとづき立ち上げたプロジェクトの初仕事として、2012年11月10~11日にセスナ機から撮影した、東北の植生と町(人の生活圏をさしている)の写真を見せてくれた。先生は29才の時から長野県栄村秋山郷小赤沢集落に通って以来、秋田県森吉のマタギはもとより全国の集落を足しげく通い、研究を続けているとのこと。赤坂先生とは一味違う民俗学の立場からの提案だった。

 まずはこの脳ミソのヒダのような写真はどこの何か。どんな問題が見えるか。との問題提起から始まった。

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2012.11.10  田口先生撮影 右下のキャプションに「北上山地の里山化する国有林」とある。

 気仙沼から花巻空港に戻る途中の山並みで、最初のパンフレットの集落写真(1枚目の写真)と同じところだという。そして

① 濃い緑が植林された「杉」、黄色や褐色が「落葉広葉樹」で、「人工林」と「自然林」が明瞭にわかる。
② 「人工林」の部分が開拓による人の営みのために加工された地域(集落)の一部だ。
③ したがってこの隈どりの手前や付近に、1枚目の写真のように集落がある。

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2013.1.9  芸工大でZAMAC撮影 唐桑半島などの時系列比較の写真を説明する田口教授と受講生。

 ここまでは私も頭で「そうだよな」と納得した。さて、ここから先は解ったとはいえないまでも「フムふむ…」とイ・チ・オ・ウ納得。そして本論だが、ZAMAC自身が訳がわからないことになっても困るし、迷惑をかけるので印象深かったことだけを拾い書きするだけとする。

 *育成複層林施策 (いくせいふくそうりんしさく) とは

 人の営みのために植林したり、また自然林のままにして山菜や獲物を獲る、などの計画的な管理・育成を「育成複層林施策」というのだそうだ。

1.育成複層林はなぜできたのか

 育成複層林らしき活動は古(いにしえ)からあったが、近代になって急激かつ短期間に展開し、その変化は著しい。特に1960年代からめまぐるしい変化を遂げた。
  ・時代の用に呼応した国の政策。
  ・地域民の生活のための工夫や努力。
  ・何も手を加えない自然の変化。       …の複合要因による。

 *これを補足すると…
 1955年ころで焼畑耕作はなくなった(ごく一部に残っているが) → 炭焼きなどの雑木利用が減り、代わりに造林運動がおこる。→ 利用するのは主として建築材などに。 → 自然林も山菜採りくらいで手入れをしなくなる。→ 植林材も外材や他の建材に押されて、経済的に成り立たず。→ <現状> 管理・保全者はなく、森の林は生えっぱなしで荒れ放題。森は広がり町をのみ込みはじめた。

2.人工的集落は3世代で消滅

 中でも開拓による集落は3世代で終わるという。その例として前出した「栄村秋山郷」の10年ごとの航空写真を示して解説があった。

・1947年ころ。自然林利用のために伐採し、ゴルフ場のような裸の山となり、山道が見えるようになった。
・1957年ころから。植林の奨励で緑を取り戻した。しかし
・1967年ころになると、植林と自然林の区別がわかるようになってきた。
・1977年ころには、さらに田畑の区別も明瞭になり人口が増える。(例:1枚目の写真)
・1987年ころ以降。 前項の「補足する」のような経緯をたどり、森は活用されず荒れはじめた。人口は減少し田畑の不耕作地が増えた。若者は離村し高齢者だけになり、集落の生産性は急激な下落をたどる。(山村の魅力がなくなった)
・2005年ころになり、ついに「限界集落」となった。森は里まで降りて田畑は荒れ、クマの出没が増えた。(集落は寿命迎えたといえる。注:ZAMAC)

 この間約60余年。3世代で消滅したことになり撤退の風景だ。

3.むすび      先生はつぎのように結んだ。

① 限界集落に人を入れても「伝承のないところに人は住めない」。(農耕、山林技術を代々受け継がないところに人は定着できない。注:ZAMAC)
② 国の政策、時代の要請、人の価値観…の変化や条件分析が必要。この講座もその取り組みの一つだ。
③ 普通の風景から変化は分かりにくい。学生とともに空撮によって問題点を明確にしたい。問題意識を持つ人が増えることで、対策の方向が見えてくると思う。

そしてプロジェクターで映し出された文字は ……  撤退の風景=攻めてくる森

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2013.1.9  ZAMAC撮影 芸工大の正門から見た講座当日の山形市内の夜景


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