● 新しい元号となって5日目となる令和元年5月5日(こどもの日)。10日間という特別連休国家事業も終わりに近づくにつれて、新時代「令和」はどうありたいかなどと、客観論が少しづつ増えてきたように思う。
そんな中、ZAMACは快晴に誘われて植物園散策をしようと考えた。きっと「ここはいいぞ!」と思いついたのが、「昭和万葉の森」。新元号は万葉集を元にして検討されたと聞くので、それに乗っただけなのだが。
● その「昭和万葉の森」は自宅から北へ約25Km。車で約17分 (Googl) のところの大衡村(おおひらむら)にある。仙台北部中核テクノポリス開発区(仙台北部工業団地)として位置づけられ、仙台市の高度な都市機能を活用する一大工業団地を形成しているところだ。
その団地に隣接している「昭和万葉の森」は、昭和30年全国植樹祭の会場となった御成山に、昭和天皇陛下御在位60年を記念して整備された。万葉集関連の植物を主体に23ヘクタールの広さを持つ、全国でも有数の森林公園の一つだという。
<昭和天皇御製歌の碑と御手植えの松。>
● 園内は万葉集をテーマとして植物が集められ、散策路には48基の歌碑と解説板を散りばめて、その総延長は5.6km にもなる。ZAMACはこの園内をカメラ片手に、1年に2、3回は訪れるようになって20年以上になる。だか恥ずかしながら散策路の歌碑には関心がなく、もっぱら草花の撮影が目的だった。それがきょうは和歌なる「短歌の世界」を覗いてみようというわけだ。これらの体験を備忘録としてまとめておきたい。
● なるほど「万葉集」の目で見てみると、森全体がここまで意味づけして造られていたのかと感心する。また、散策路につけられた名前のことだが、「つるばみの道」「ひさかたの道」「しろたへの道」などと、よくわからないものばかりなのだ。ZAMACはいままで案内板が有っても無くても関係なく、足元の草花だけを見て歩いていたのだと気づかされた。
<左から説明板、歌碑、散策路案内板と、ていねいな園内ガイドがある。>
● つぎに注目したのは歌碑と解説板を交互に読んでみると。「読めない」「意味不明」と決めつけて敬遠してきたものが、「ホホーッ。そういうことか。」となんとか理解できるような気がしてきた。
< 山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行くかめど道の知らなく 高市皇子 >
● 明るい光が漏れる初夏の森。散策路を歩いては立ち止まり、これを繰り返して約10首ほどを鑑賞した。頭の中は満杯となっているのに、万葉集をだれがまとめたのか? 全巻で何首あるのか? 恋の歌のように遠くで想う詩歌の多いこと・・・・と雑念ともつかぬ、思いがつぎつぎと湧いてきて、いつもと違う疲れを感じた。
万葉の森 管理事務所に立ち寄って万葉集についての本や資料を見たりしながら、管理人さんとしばし歓談。その展示室には当然のように「令和」と書いた書が掲げてあり、「小学生の団体が来るなど、来園者が急に増えました。」とのこと。
● 知らぬが故の素朴な疑問の一つに、ZAMACにとっては難しい「万葉集」とはどのように書かれているのだろうか、と気になるところだ。
中国生まれの漢詩に対して、日本の詩歌は「和歌」といい、万葉集はすべて漢字で書かれていたそうだ。その原本はなく各種書写本によって伝えられていたが、当時はまだ平仮名はなかったという。そのためか発音で選んだ多くの当て字(漢字)があることだ。アルファベットの一文字・一文字に意味がないのと似ていて、原文が分かり難い一因になっていると思う。
例として散策路につぎの歌があったので調べてみると、なんと5,7,5,7,7の合計31の漢字すべてが、現在の平仮名で書かれているようなものだった。
・作者(詠人): 大伴家持
・掲載箇所 : 巻18の 4109番 天平感宝1年5月15日
・原文:久礼奈為波 宇都呂布母能曽 都流波美能 奈礼尓之伎奴尓 奈保之可米夜母
・読み:くれなゐは うつろふものぞ つるはみの なれにしきぬに なほしかめやも
くぬぎで染めた着古しの衣に 優るものがありはしないのだよ
注:橡 → つるはみ → つるばみ → くぬぎ
● 感想
億面もなく万葉の世界に入り込み、小窓から覗き見をしたようなもので、わたしが得た断片的な知識ではとても「名歌鑑賞」などはほど遠く、ここまで書くのが精一杯だった。どなたかわかりやすく「萬葉集」を説いていただけるなら飛んでゆきたいものだ。
そんな中、ZAMACは快晴に誘われて植物園散策をしようと考えた。きっと「ここはいいぞ!」と思いついたのが、「昭和万葉の森」。新元号は万葉集を元にして検討されたと聞くので、それに乗っただけなのだが。
● その「昭和万葉の森」は自宅から北へ約25Km。車で約17分 (Googl) のところの大衡村(おおひらむら)にある。仙台北部中核テクノポリス開発区(仙台北部工業団地)として位置づけられ、仙台市の高度な都市機能を活用する一大工業団地を形成しているところだ。
その団地に隣接している「昭和万葉の森」は、昭和30年全国植樹祭の会場となった御成山に、昭和天皇陛下御在位60年を記念して整備された。万葉集関連の植物を主体に23ヘクタールの広さを持つ、全国でも有数の森林公園の一つだという。
<昭和天皇御製歌の碑と御手植えの松。>
● 園内は万葉集をテーマとして植物が集められ、散策路には48基の歌碑と解説板を散りばめて、その総延長は5.6km にもなる。ZAMACはこの園内をカメラ片手に、1年に2、3回は訪れるようになって20年以上になる。だか恥ずかしながら散策路の歌碑には関心がなく、もっぱら草花の撮影が目的だった。それがきょうは和歌なる「短歌の世界」を覗いてみようというわけだ。これらの体験を備忘録としてまとめておきたい。
● なるほど「万葉集」の目で見てみると、森全体がここまで意味づけして造られていたのかと感心する。また、散策路につけられた名前のことだが、「つるばみの道」「ひさかたの道」「しろたへの道」などと、よくわからないものばかりなのだ。ZAMACはいままで案内板が有っても無くても関係なく、足元の草花だけを見て歩いていたのだと気づかされた。
<左から説明板、歌碑、散策路案内板と、ていねいな園内ガイドがある。>
● つぎに注目したのは歌碑と解説板を交互に読んでみると。「読めない」「意味不明」と決めつけて敬遠してきたものが、「ホホーッ。そういうことか。」となんとか理解できるような気がしてきた。
< 山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行くかめど道の知らなく 高市皇子 >
< 春霞流るるなへに青柳の枝くい持ちて鴬なくも 詠人不詳 >
● 明るい光が漏れる初夏の森。散策路を歩いては立ち止まり、これを繰り返して約10首ほどを鑑賞した。頭の中は満杯となっているのに、万葉集をだれがまとめたのか? 全巻で何首あるのか? 恋の歌のように遠くで想う詩歌の多いこと・・・・と雑念ともつかぬ、思いがつぎつぎと湧いてきて、いつもと違う疲れを感じた。
万葉の森 管理事務所に立ち寄って万葉集についての本や資料を見たりしながら、管理人さんとしばし歓談。その展示室には当然のように「令和」と書いた書が掲げてあり、「小学生の団体が来るなど、来園者が急に増えました。」とのこと。
● 知らぬが故の素朴な疑問の一つに、ZAMACにとっては難しい「万葉集」とはどのように書かれているのだろうか、と気になるところだ。
中国生まれの漢詩に対して、日本の詩歌は「和歌」といい、万葉集はすべて漢字で書かれていたそうだ。その原本はなく各種書写本によって伝えられていたが、当時はまだ平仮名はなかったという。そのためか発音で選んだ多くの当て字(漢字)があることだ。アルファベットの一文字・一文字に意味がないのと似ていて、原文が分かり難い一因になっていると思う。
例として散策路につぎの歌があったので調べてみると、なんと5,7,5,7,7の合計31の漢字すべてが、現在の平仮名で書かれているようなものだった。
・作者(詠人): 大伴家持
・掲載箇所 : 巻18の 4109番 天平感宝1年5月15日
・原文:久礼奈為波 宇都呂布母能曽 都流波美能 奈礼尓之伎奴尓 奈保之可米夜母
(31文字)
・読み方:紅は うつろふものぞ 橡の なれにし来ぬに なほしかめやも ・読み:くれなゐは うつろふものぞ つるはみの なれにしきぬに なほしかめやも
(31文字)
・大意: 見た目はいくら美しくとも 紅染めは移ろいやすいものだくぬぎで染めた着古しの衣に 優るものがありはしないのだよ
注:橡 → つるはみ → つるばみ → くぬぎ
● 感想
億面もなく万葉の世界に入り込み、小窓から覗き見をしたようなもので、わたしが得た断片的な知識ではとても「名歌鑑賞」などはほど遠く、ここまで書くのが精一杯だった。どなたかわかりやすく「萬葉集」を説いていただけるなら飛んでゆきたいものだ。
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P.S. 万葉集編者で代表者の大伴家持は、蝦夷征伐の責任者として
赴いていた多賀城(別な説もある) で、783年に亡くなり
68歳だったという。 これも初めて知ったことで、
万葉集がより身近な文学となった。
赴いていた多賀城(別な説もある) で、783年に亡くなり
68歳だったという。 これも初めて知ったことで、
万葉集がより身近な文学となった。
と言うことで、万葉集の入門書をご紹介します。
タイトル:「万葉集楽しくわかる図解雑学」 中西 進監修(氏はあの有名な「令和」を起案したとされる万葉集の学者です)
出版社:ナツメ社 ¥1,300
メモ:挿絵、漫画、雑学など盛りだくさんですが、お勧めです。書店にもあるのではと思います。
ご参考まで。
次回も楽しみにしています。
奈良時代などは何か遠い世界のようで、その魅力や知識は、実に貧弱なものしか持っていないZAMACでした。
改元はその点で古の文化を気付かせてくれましたし、動機づけとなりました、紹介頂いた本を早速探してみます。