ロシアによるウクライナ侵攻の様子と、他国に避難するウクライナ国民の模様は痛々しく、その映像を見たものの心にグサリと突きささります。その映像が伝える力は文字にはない計り知れない大きさです。スマホ撮影と思われる一般人撮影の映像も加わり、かつオンタイムで伝えられています。
このたびの報道を見るにつけ「写真」の世界の進歩と変貌ぶりに驚嘆してしまいます。
戦禍の記事とまったく次元は違いますが、そんな半月間の報道が動機付けとなった「わたしと写真」の回顧録のようなものです。
■ 写真家「竹内敏信氏」のご逝去報道
新聞記事に目が留まり「エッ! ホント!?」「わたしより若いはず。信じられない」 その時の率直な気持ちでした。
■ わたしの写真との出会い
わたしが写真なるものに興味を持ち始めたのは、小学館の「小学○年生」の付録の日光写真でした。中学生になってボール紙で自作した針穴写真が、現像処理をする写真の初めての体験でした。
そしてサラリーマン時代は機材を持っていても、作品つくりは二のつぎでした。変化のないその長いトンネル抜け出したのは「竹内敏信氏の三原山噴火(1986年)」という写真を見たのがきっかけでした。身の危険を冒して立入り禁止区域で撮ったのではないかと思えるド迫力なのです。
■ 熱心に「北上川写真学校」受講
そして月日が経ち、竹内氏は風景写真家としてすっかり売れっ子になっていました。その竹内敏信氏(以下先生)とお会いするチャンスが訪れたのです。当時の宮城県桃生郡北上町(現・石巻市)が町の振興のために、特産の「北上川の葦(よし)原」をテーマにした先生の写真教室に参加でした。アマカメラマン向けの一泊二日のセミナーで、県外からも参加していたようです。
その後は毎年12月を定例化して開催されました。
セミナーの ・1日目は参加者全員が北上川河口の広大な葦原(よしはら)で撮影。そして楽しみは夜の先生・町長さんも交えての交歓会 ・2日目は参加者の葦原作品講評会です。
これがワクワクするのです。先生の講評や自分の作品と仲間の作品の比較がなんとも言えない緊張感もあって有意義でした。いまも構図について「1対1」「どちらが主役 ?」……… という先生の声が耳に残っています。
中央が季刊誌「風景写真」内のトップに1ページを使って、載せていただいたわたしの作品(10作品全部)。
右が「東日本大震災後に先生監修による、クラウドファンディングで発刊された写真集。
■ わたしのその後
その後も他の色々なセミナーを受講しましたが、もっとも楽しく懐かしく思い出される写欲満々の時期でした。また、全国組織の2つの写真クラブに所属して、写真展に出展を課せられことも良い刺激でした。
先生は亡くなりました。当時、先生の助手をしていた方々はいまでは独立した写真家として大活躍しておられます。
時代は進み変化を遂げているのに、わたしの写真力はあまり変化なし。「歳だ!!」「加齢だ!!」とは思いたくないのに、周囲では「○○を …… よくおやりになっていますね!? 」と聞くことが多くなりました。やはり「そうか」と素直に認めたくない自分と闘っています。
この春は先生を忍びながら福島県中通り地方(福島 — 郡山方面)の桜街道をなんとかカメラウォッチングをしたいものだと思っています。先生が大好きで毎年通った福島桜回廊ですから。
End
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