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ある牧師から

ハンドルネームは「司祭」です。

イエスの「ベトザタの池でのいやし」を考える、教皇一般謁見

2025年06月20日 | キリスト教全般

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 人々をいやされるイエスの観想を続けましょう。今日は特にわたしたちが身動きできない、行き止まりの道に迷い込んだ状況を考えて欲しいと思います。しばしば、希望を持ち続けることが無駄に思われることがあります。諦めが生じて、もう闘うこともしたくなくなります。こうした状況が、福音書の中で、体の麻痺した人のいやしを通して語られています。こうしたことから、今日は、ヨハネによる福音書の5章にある、病気で動けない人をイエスがいやすエピソード(5,1-9)を取り上げたいと思います。

 イエスはユダヤ人の祭りのためにエルサレムに行かれました。すぐに神殿に向かわれず、ある門の傍らで足を止められました。それはおそらく犠牲として捧げられる羊を洗う場所だったかと思われます。この門の近くには、多くの病人が横たわっていました。羊との違いは、彼らは不浄とみなされ、神殿から締め出されていたことでした。

 そこで、イエスは自ら、人々の苦しみの中に赴かれます。これらの人々は、自分たちの運命を変えるような奇跡に期待していました。実際、門の傍らには池があり、その水はいやしの力を持ったもの、すなわち人を治せるものと考えられていました。たまに水が動く時、それに最初に浸かった者はいやされると、当時は信じられていました。

 こうしたことが、ある種の「貧乏人の争い」とも言える状況を生んでいました。病気の人々が池に入るために、困難のうちに自らを引きずる悲しい光景が想像されます。この池は「ベトザタ」と呼ばれていました。それは「いつくしみの家」という意味です。これは、病者や貧しい人々が集い、主がいやしと希望を与えるために来られる場所としての、教会のイメージかもしれません。

 イエスは、特に38年間病気で動けなくなった人に向けて言われます。その人はすっかり諦めていました。水が動く時、池の中に決して入ることができなかったからです(参照 ヨハネ5,7)。実際、多くの場合、わたしたちを動けなくするものはまさに失望です。わたしたちはがっかりすると、無気力に陥りがちです。

 イエスはこの病人に、無用に思われかねない問いをします。「良くなりたいか」(同5,6)。しかし、それはむしろ必要な問いでした。なぜなら、何年も動けないでいると、治りたいという意志さえも失ってしまうことがあるからです。時に、わたしたちは病気の状態のままでいることを好み、自分の世話を他者に押し付けることがあります。また、それを、人生をどうすべきかを決めないでいることの言い訳にしたりすることもあるのです。

 事実、この人はイエスの問いに対して、まわりくどい答え方をします。そこには彼の人生観が表れています。彼はまず、自分には池に入れてくれる人がいない、と言います。つまり、彼のせいではなく、面倒を見てくれない他者のせいなのです。こうした態度は、自分が責任を負わないための言い訳となります。しかし、彼を助けてくれる者が誰もいなかったのは本当でしょうか。ここに聖アウグスティヌスの啓発的な答えがあります。「そう、彼がいやされるには人が必要であった。しかし、それは神であったかもしれない。 […] ともかく、必要だった人が来た。ならばなぜ、まだいやしを先延ばしするのか」。

 この人は、さらに、「自分が池に行こうとすると、ほかの人が自分より先に着いてしまう」と付け加えます。ここに彼の運命論的な人生観が表れています。われわれは、何かが起きるのは、自分が不運だからだ、とか、運命が味方してくれなかったからだ、と考えます。この人は意気消沈しています。彼は人生の闘いに敗北したと感じているのです。

それに対し、イエスは、彼の人生は彼の手中にあること発見するよう助けます。イエスは彼に、慢性的な状況から、起き上がり、床をかつぐようにと招きます(同5,8)。その床を、置き去ったり、捨てることはできません。それは彼のかつての病、彼のストーリーを表わすものだからです。

 その時まで、彼は行く手を過去にふさがれ、死人のように横たわることを余儀なくされていました。今、彼は床をかつぎ、どこでも望みのところに持っていくことができます。自分のストーリーをどうするか、自分で決めることができるのです。それは、歩むこと、どの道を行くか責任をもって選ぶことです。それができるようになったのは、イエスのおかげです。

 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、自分の人生がどこで行き詰まったのかを理解する恵みを主に願いましょう。いやされたいという望みを声に出してみましょう。そして、身動きできないと感じ、出口を見出せないでいる、すべての人のために祈りましょう。真の「いつくしみの家」である、キリストの聖心の中に再び住めるようにと、祈り求めましょう。

イエスの「ベトザタの池でのいやし」を考える、教皇一般謁見 - バチカン・ニュース

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