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ある牧師から

ハンドルネームは「司祭」です。

3月9日(日)礼拝メッセージ

2025年03月09日 | 説教要旨

モーセはホレブの山で燃える雑木を見ました。けれども木は燃え尽きず、火が燃え続けています。その火がモーセに「わが民イスラエルをエジプトから連れ出しなさい」と言ったのです。モーセは「あなたの名前は」と聞くと、「『私はある』という者だ」と答えがありました。「私はある」という名前の神様なのです。それはエジプトの王ファラオが拝んでいた命のない神ではなく、最初からあり、いつまでもある神様だったのです。

聖書の神様は本当は「私はある」という名前なのですが、神様の名前をみだりに唱えることはできないので、「主」と呼ぶようになりました。主は、モーセとその兄アロンをファラオのところにつかわします。そして杖を蛇にします。ファラオの魔術師も蛇を出しましたが、モーセの杖の蛇が魔術師の蛇を飲み込んでしまいました。

その後、主なる神はモーセを通して川の水を血に変え、カエル、アブ、ブヨ、疫病、皮膚病、ひょう、いなご、暗闇の災いを起こします。けれどもいずれにおいてもファラオはイスラエル人をエジブトから出すことを許しませんでした。

そこで最後の災いが起こります。それを避けるために、イスラエルの人の家には鴨居と柱に羊の血を塗るように命令されました。その家を神様は通り過ぎ(過越し)ました。イスラエルではこのことを記念して過越しの祭りが行われるようになりました。

10の災いの内、アブ、ブヨ、疫病(コロナ)、皮膚病、ひょう、いなごの災いは、人類が昔から戦ってきた災いです。ここでこれらのお話が書かれ、そしていずれも終わりになっていることは、そういった自然災害はいつまでも続くことはないのです。神様は終息させて下さるのです。

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3月20日礼拝メッセージ

2022年03月21日 | 説教要旨

聖書 マルコによる福音書8勝27~33節
題  「あなたはメシアです」

イエス様はフィリポ・カイザリヤというところに向かう途中で、お弟子さんたちに「人々は私のことを何者だと言っているか」と聞かれました。弟子たちは、「洗礼者ヨハネと言う人もいるし、エリヤと言う人もいるし、預言者の一人と言う人もいます」と答えました。洗礼者ヨハネもエリヤも預言者でしたから、人々はイエス様のことを預言者だと思っていたということです。預言者とは神の言葉を語る人ですが、あくまでも人間です。

イエス様は「あなたがたは私を何者と言うのか」と聞き返しました。そうするとペトロが「あなたはメシアです」と答えました。メシアはキリストということであって、そこには神の子であるという意味が含まれています。イエス様は神の子キリストであるということです。これはキリスト教会が二千年間大切にしてきたことです。「あなたこそキリストです」という信仰告白の言葉の上に、教会は立っているのです。

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2月27日礼拝メッセージ

2022年03月07日 | 説教要旨

聖書 ルカによる福音書5章17~26節
題  「その人たちの信仰を見て」

イエス様はガリラヤで、教えを説いたり病気の人たちを癒しておられました。イエス様がおられるところには多くの人たちが集まっていました。ある家で教えていた時もたくさんの人たちが集まっていました。

そこに歩けない中風の人を床に乗せたまま担いだ男の人たちが来ました。イエス様のところに連れて行きたいのですが、人が多くて連れて行けませんでした。それでこの人たちは屋根に上りイエス様の真上の瓦をはがして中風の人をつりおろしたのです。

イエス様はつりおろした人たちの信仰を見て、しかし中風の人を癒すのではなく、中風の人に「あなたの罪は赦された」と言ったのです。

これは中風の人がイエス様を信じる信仰を持ったことを意味します。しかし見ていた律法学者やファリサイ派の人々は「神のほかに罪を赦せる人はいない。この男は神を冒涜している」と考え出したのです。イエス様は中風の人に「床を担いで家に帰りなさい」と言ったのです。

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2月27日礼拝メッセージ

2022年02月27日 | 説教要旨

聖書 ルカによる福音書5章1~11節
題  「人間をとる漁師に」

ゲネサレト湖というのはガリラヤ湖の別名です。漁師のシモン(ペトロ)とヨハネとヤコブが一晩中ゲネサレト湖で漁をしていましたが、一匹も魚がとれませんでした。漁師たちが網を洗っているところにイエス様がやってきました。

ペトロの舟にイエス様が乗って来て、岸から少し漕ぎ出すように頼みました。そこで岸に向って語りだしたのです。ペトロもそれを聞いていましたが、イエス様の教えを受けいれたものと思われます。イエス様が「沖に漕ぎ出して網を下し漁をしなさい」と言われると、一晩中の漁でも取れなかったのにもかかわらず実行します。そうすると二そうの舟がいっぱいになるほどに魚がとれました。

イエス様に従うことによって「やり直す」ことが出来たのです。このあとペトロは、イエス様に「人間をとる漁師になる」と言われます。それはペトロがイエス様の昇天後にわたり、福音の宣教者となることを意味しています。

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2月20日礼拝メッセージ

2022年02月22日 | 説教要旨

聖書 ヨハネによる福音書12章35~36節前半
題  「光のうちに歩む」

CSの先月のテーマは「新しい命」でした。新しい命というのは、人間の命に神様がさらに付け加えて下さる命です。それはイエス様が十字架で死なれたことによって与えられました。

イエス様は十字架で死なれたことによって愛を示されました。ですから、「わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい」というイエス様のいましめに従うことが、新しい命に生きるということです。新しい命に生きるということは、光のうちに歩むということと同じ意味です。

イエス様は「わたしは世の光である」と言われました。つまり、イエス様のうちに歩むことが光のうちに歩むということです。イエス様は「光は今しばらくあなたがたの間にある」と言われました。これはイエス様が間もなく十字架に架かるという予告です。光のうちに歩むということは、十字架に架かられて命を捨て私たちに命を加えてくださったイエス様と歩むことです。

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