ある冬の日ニューヨークで・・・・・・②
その後、チュンサンには大切な仕事ができた。
それは、以前ユジンからプレゼントされた”不可能な家”を実際に建ててみようという計画だった。
2年もの月日が過ぎた今でも、チュンサンには、その”不可能な家”の完成だけが生きる目的のようになっていた。チュンサンはニューヨークでの初冬を迎え、ただちにその仕事に取りかかった。
韓国での作業は、キム次長が当たり前のように誠実にチュンサンを手伝ってくれていた。
そして今日、彼がニューヨークに到着するという知らせがあったのだ。
キム次長は、どんなニュースを持ってきてくれるのだろう・・・・・・。
家はもう完成したのだろうか・・・・まさか何か問題が起きたのでは・・・・・。
期待と不安で胸を膨らませている間に、窓の外にはいつしか雪が降りはじめた。
チュンサンはキム次長が訪ねてくることをすっかり忘れたまま、アパートの外に飛び出した。
そして、すぐセントラルパークへと足を運んだ。
雪を肌に感じたかったし、雪の中の散歩にはとびっきりの場所だったからだ。
チュンサンはひとりで道を探してセントラルパークへ行くことができるようになっていた。
公園に着くと静かに腰を下ろし、顔や耳元に舞い降りる雪の音に聞き入る。
それはまるで過去の思い出と静かに対話するかのようだ。
たとえ目には見えなくても、今の自分の目の前には、「過去」という言葉に邪魔されない
幸せなユジンとチュンサンが無邪気に雪を振りまきながらはしゃいでいる。
チュンサンは思い出のささやくままに身を任せた。
どれだけの時間が流れただろうか・・・・・。
雪は止み、どこからかいれたての濃いコーヒーの香りが、雪が降った後の静謐な空気を満たしていた。
ベンチの横に誰かか座った。チュンサンはにっこりと笑った。
「キム次長?」
「そう、私ですよ。誰かほかに待ってる人でもいるんですか?さあ、これでも飲んでください」
キム次長は、チュンサンに公園の入り口で買って来たコーヒーを手渡した。
彼は、いつものようにさりげなくあっさりとした口調で話しかけたが、その裏にはいつもチュンサンに対する
深い思いやりと友情がうかがえた。
チュンサンはキム次長に会うとわけもなく楽しくなる。
以前スキー場で一緒に働いたころに戻ったようで、明るい気分になった。
チュンサンはコーヒーを受け取り、ニッコリと笑った。
「ありがとうございます。あ、すみません、次長。アパートでお会いすることになっていたのに・・・」
キム次長がわざと怒ったように言った。
「そう。雪が降ったから、自分でも知らないうちに公園に向っていたって言いたいんでしょ。
わかってますよ。すべてお見通し・・・・」
そう言うとキム次長は、ぶつぶつ文句を言いながら煙草を取り出し1本吸った。
「お疲れではないですか?昨日、韓国から到着したばかりなのに、すぐに僕のところに来ていただいて・・・」
「まあ、大丈夫ですよ。私が来るのを待っている理事を放りっぱなしにして、
私がどうして両足を伸ばして休めると思うんですか?ところで理事はどうなんですか?
ちょっとやつれたようですね」
「そうですか?天気のせいでしょう。僕は大丈夫です。
ところで韓国の仕事は、うまくいってますよね?」
チュンサンが期待と不安をこめて訪ねた。
「理事に伝えることが2つあります。ひとつは、あなたにとって嬉しいニュース。
もうひとつは、私にとって良いニュース。どっちを先に聞きたいですか?」
チュンサンはにやりと笑った。キム次長はいつもこうだ。些細なことでも人を楽しませてくれる。
昔は彼のこんなところを理解できない時もあった。しかし今のチュンサンには
いつもの変わりないキム次長が、余裕のある温かい人物に感じられ、心地よかった。
「うーん・・・・・僕を探してここまで来てくれたんだから、次長にとって良いニュースから聞きますよ」
チュンサンが少し大げさに笑いながら言った。
キム次長は、「そんな、冗談ですよ」とちょっと笑ってからまじめに話し始めた。
「理事が設計した家ですがね・・・・。なかなかいい感じに骨組みができましたよ」
その瞬間、チュンサンの顔が真剣になった。
その瞳は視力を失ったとは思えないほど深みを増しきらきらと輝いた。
チュンサンは、まるで今、目の前にその”不可能な家”があるかのような思いにかられ、
微笑みながら言った。
「2階のテラス超しに海が見えるように・・・・そう造ってありますよね?
それと船着場から家に向う道は、林の中を通っていますか?あ、それから庭園は設計図のとおりですよね?」
チュンサンは、キム次長を見つめるように言った。
「さあ、早く言って。次長が見てきたとおり、感じたとおり・・・・
その家がどんな感じなのか教えてください」
キム次長は、思わず小さなため息をついた。チュンサンの頼みでその”不可能な家”の施工に入って、
いつも間にかもう2年が過ぎていた。
チュンサンは、病気が完治した後すべての仕事の依頼を断り、その”不可能な家”の
完工だけに熱中している。何がチュンサンをこれほどまでにこの家に執着させるのか。
キム次長は内心わかっていたが、そのような素振りは少しも見せなかった。
チョン・ユジンのことは口にしない・・・・・。
これは、自分とチュンサンが結んだ無言の約束だとキム次長は思った。
しかし、、キム次長はニューヨークにいるチュンサンに会いに来る途中、
もうこれ以上そんな約束を守り続ける必要はないと思った。現在のチュンサンを本当に癒してくれるものは何かと考えれば、やはりユジンという女性に行き当るのを認めざるを得なかった。
だから、もうユジンの話をしてもいいだろうという気がした。
ユジンのために作ったこの”不可能な家”も完成を間近に控えている・・・・
いつまでも避けられる問題ではない。
「来年の4月が完工予定です。そう春だ・・・・・」
「春か・・・そうですね。それじゃ、木も、花も沢山咲いていますね。・・・きれいでしょうね」
チュンサンは、まるで自分に言い聞かせるようにささやいた。
夢の中だけで描いていたその家が完成するなんて・・・・どんなにうれしいか。
キム次長が意味ありげに言った。
「完成したら見に行かなきゃ。そうでしょう?」
「そうですね・・・でも、目が見えないのに行っていったい何を見るんですか?」
チュンサンは、わざと皮肉っぽく答える。それは今すぐにでもその家へ行きたいという
自分への忠告だったのかも知れない。
キム次長がそんなチュンサンの心を知らないはずがなかった。
「それでも行って感じてみなくちゃ。自分が設計して自分が作った家に、日差しはちゃんと入ってくるのか・・・風の通りはいいか・・・建築家なら責任を持ってそれぐらいはしないといけないでしょう?
私は現場責任者に、来年、理事が韓国に最終確認すると言っておきましたから。
あとは理事のお好きなように」
キム次長は、ちょっとつきはなすように言った。
しばらくチュンサンは表情を曇らせたが、何気なく別の話をはじめた。
「それじゃあ、キム次長にとっての良いニュースというのは何ですか?気になりますね・・・」
「いやあ、たいしたことではないですよ・・・。チュンアさんが明後日ニューヨークに来るそうです」
キム次長はいつもの彼らしくなく、ちょっとうわずった声で言う。チュンサンの瞳がかすかに動いた。
キム次長は、今までユジンと関係のあった人達の名前を意識的に避けていた。
しかし、もうこれ以上はだめだと、あえて口にしたのだった。
チュンサンは無理に何気ない調子で言った。
「チョンアさん・・・・元気ですか?短い髪に、はきはきした甲高い声・・変わってないでしょう?」
「そりゃ、あの性格は変わりようがないでしょう。仕事で来るのでついでに私も会って・・・
そして理事にも会いたいからって・・・」
キム次長は、仕方なく控え目にチュンサンの反応を待った。
「僕・・・・僕の話をしたんですか?」チュンサンは少しあわてたように尋ねる。
「しました。でも”不可能な家”の話はしなかったですよ。ただ近況だけを話してあげたんです。
私が理事とたびたび会っているのをチョンアさんも承知しているのに、
知らぬふりはちょっとひどいでしょう」
「・・・・・本当、次長の言う通りですね。そういえば、次長とチョンアさん、もうそろそろいい時期なんじゃないですか?」
チュンサンは笑ってキム次長の方を見た。
キム次長は、チュンサンには見えないとわかっていながらも赤くなった顔を見られるのが恥ずかしいのか、
ぶっきらぼうに言った。
「結婚は誰でもいいからしなきゃいけないものなんですかねえ?
あんなに鼻息の荒い女とどうやって暮らせって?」
「心にもないこと言わないでくださいよ」
チュンサンが待っていたかのようにすかさずキム次長に言う。
「次長、僕がおこがましい忠告をひとつだけしましょう。これ以上年を取る前にプロポーズしてください。
チョンアさんも次長に気があるからニューヨークへ来たんでしょう?
僕にはそのおまけで会いたいと言っているだけなんだから・・・」
そう言うチュンサンの姿は、韓国で一緒に働いていた時の率直で積極的な男
イ・ミニョンだ。
キム次長はそうかなと空笑いをした。実はチョンアとお互いに口にしないものの、
心の中ではお互いを人生のパートナーとして認める関係だったのだ。
そして、チョンアが明後日ニューヨークに到着したらプロポーズするつもりだった。
キム次長は、迷いながらも恥ずかしそうに重い口を開いた。
「実は、今度プロポーズとか何とかいうのをしようと・・・・・・・うまくいくかな?」
「うまくいきますよ。本当にチョンアさんを待たせすぎましたよ」
チュンサンが笑いながら言った。
キム次長は、からっと笑ってチュンサンの肩をポンと叩いた。
「わかった、わかった。それじゃ、理事も明後日チョンアさんに会って夕食をご一緒しましょう、いいですね?」
「・・・・・・・はい、そうしますよ」
チュンサンは、少しためらってから答えた。
実は、ユジンに関係のある物や人とは関わりたくなかったのだが、
キム次長の好意を思ってチョンアに会うことにしたのだ。
チュンサンはじっと虚空も見つめた・・・・。と、その時、雪がまたゆっくり降り始めた。
チュンサンは明るい声で言った。
「キム次長、また雪が降ってきましたね」
「本当だ・・・本当に沢山降ってますね・・・・。理事、まだここにいるつもりですか?」
チュンサンは笑いながらうなずく。
キム次長はわざとぶつぶつ言いながら立ち上がった。
「コーヒーをもう一杯飲もうかな・・・・。理事も飲みますか?」
「あ、ええ、ありがとう。次長・・・・・」
チュンサンはあいまいに答え、雪に降られながらじっと座っている。
キム次長は、コーヒーを買いに行こうとしながらふと振り返った。
チュンサンは、まるで別の時間に閉じ込められた人間のように身動きもせずに、
雪が降り続く虚空のどこかを見つめている。
キム次長は歩きながら、明後日チョンアと一緒に会うことを考えると、期待が半分、
不安が半分だった。明後日、チョンアはひとりで来るのではない。
しばらくニューヨークに滞在する予定でパリから来るユジンと会い、一緒に現れるはずだ。
おそらく、明後日の夕食の席にはチョンアとキム次長のほかにユジンとチュンサンも
一緒に会うことになるだろう。
しかし、このことは本人達も知らない。
キム次長とチョンア・・・・・・、ふたりだけの計画だったのだ。 (つづく)