綱敷天神社 禰宜日誌

大阪梅田の綱敷天神社のご案内ブログです

大阪駅 150年

2024年05月11日 | 日記

本日、令和6年(2024)05月11日。大阪駅が開業してからちょうど150年となりました。

当時、近代化を急ぐ明治政府は、明治5年(1872)に新橋駅ー横浜駅間に日本初の鉄道を敷設した事に続いて、大阪ー神戸間の鉄道敷設を計画。

当初は貨物輸送なども考えて米市場のある、大阪市北区堂島あたりに頭端式の駅を計画していましたが、地価が高いのに加え、建設資材運輸の問題、また将来的に東京まで繋ぐ東海道線への接続を考えると立地的に不便でした。

そこで検討の結果、東西に抜ける事が出来る、現在のような通過式が採用される事となり、堂島の東北、当時泥沼地で田畑しか無く、地価も激安だった梅田が好適地として選ばれ、現在のJPタワー梅田あたりに建てられる事が決まりました。

しかし当時の日本には、鉄道建設のノウハウはありませんでしたので、いわゆるお雇い外国人である、英国人技士ジョン・イングランド氏の指導を仰いで、建設に着手。

英国ダーリントン社製の双頭のレールが敷設され、駅舎の骨組みは木造でしたが、壁面は赤レンガで飾られ(色合いのせいなのか当時はこのレンガの事を麭麺瓦(パン瓦)と呼んだそうです)、建物の角には隅石が配され、
このように、これまでの日本に無かった近世フランス調ゴシック様式の西洋建築が突然、田畑しかない場所に出現した事は、当時の梅田の人々には相当な衝撃であったようです。今なら田畑しかないところに宇宙ロケットの発射基地が出来るようなものだったのかもしれません。

こうして大阪初となる技術がどんどん注ぎ込まれて建設された大阪駅は、明治7年(1874)05月11日に開業しました。

開業当初は英国人が建設始動した事もあってか、英語で「梅田ステーション」と呼ばれていましたが、英語に不慣れな大阪人は「梅田すてんしょ」と訛って呼んでいました。

開業時点では、大阪―神戸間には、大阪、神崎、西宮、住吉、三宮、神戸の6駅だけで、列車は1日8本。だいたい乗降客数は1000人ほどだったようです。
運賃は、上等が1円、中等が70銭、下等は40銭とあり、明治の円相場は変動が大きいですが、『米価三代暦』にある明治7年の玄米一俵(60kg)の価格2.91円をもとに、令和5年の総務省発表、玄米60kgの平均小売価格が約28,404円なので、大雑把に現代の価値に直すと、上等は約1万円、中等7千円、下等は2千円ぐらいになります。今は460円ですから、約21倍も高いですね。(現代と明治7年では物価も違いますし、当時の大阪の経済状況はめちゃくちゃでしたので、一概にも言えませんのであくまでも推計です)

このように旅客は高額でしたので、当時は旅客よりも貨物輸送の比重が大きく、明治11年には、堂島川から運河が開削され、駅の南西に入堀も設けられました。これによって水運も図られる駅となっており、明治中頃には、缶詰を作る製缶工場等が駅の北側にはあったようです。

しかし、開業当時の大阪駅は周辺に何も無く、また梅田墓地というお墓がすぐ隣地にあり、開業後も暫くは卒塔婆や墓石が立ち並んでいたそうで、当時、十代半ばの新人駅員が、夜あまりにも怖くて姉に迎えに来てもらったという逸話も伝わっています。

その暗さと怖さのせいなのか、実は大阪で最初に電灯が点いたのは大阪駅前で、明治16年(1883)11月18日に、大阪駅前の火の見櫓にアーク灯が設置されています。

こうした新しい技術の粋が集められた大阪駅でしたので、新しいもん好きの大阪人には格好の名所となり、数多くの絵画に描かれ、中にはお弁当持参で機関車に乗るだけの、いわゆる「乗り鉄」も早い段階からいたようです。

このお弁当持参の旅客に目をつけて、明治21年(1888)には、水了軒というお店が駅弁業を始めています。ちなみにこの年、神戸ー東京間が東海道線で結ばれた年でもありました。この水了軒さんは現在は仕出し中心となられていますが、いまも営業されています。

ちなみに、この大阪駅の初代駅長である武藤正明氏は、奥様が高杉タケさんといい、なんと高杉晋作の妹さんであり、この武藤駅長とは義理の兄弟でもありました。初代大阪駅は明治の草創期という事もあり、こうした逸話が色々とあります。

明治34年(1901)7月に大阪市電の乗り入れ計画や、旅客輸送量の増大、駅前広場を確保する為、駅の位置を東にずらし、当宮の氏地であった北野松本町付近に二代目大阪駅が建てられ、そして現在に至っています。
ちょうどその頃ぐらいから、梅田すてんしょとは呼ばれず、ただ単に大阪駅と呼ばれるようになっていったようです。
ちなみに、「私鉄は梅田駅なのに、なぜ国鉄は大阪駅なのか」という論争は昔からありましたが、一応、現在のところJR西日本さんの公式見解としては、大阪の玄関口であるので大阪駅と呼称しているとされています。

梅田は、近世まで田畑しか無い地でしたが、この大阪駅の登場で、鉄の時代に入り、そして今では大阪の玄関口として1日あたり、約70万人の乗降客数を誇る、西日本最大の駅となっています。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

玉姫稲荷神社の例祭と御朱印

2024年05月01日 | 日記

令和5年から授与を開始しました、茶屋町の綱敷天神社御旅社の境内末社、玉姫稲荷神社の御朱印を、好評につき本年も5月3~5日限定で授与致します。

そもそも玉姫稲荷神社(玉姫社)は、女性守護の神様といわれ、梅田に住まう女性、働く女性、縁ある女性方を中心に尊崇され、また芸能上達、良縁、商売繁盛、そして子供たちを疫病からお守り下さる神様として信仰されています。

その例祭日は5月5日で、通称「玉姫祭」ともいわれ、午前11時からの神事に加え、同日には神牛像への花飾りを施す倣いがあり、これは江戸時代に梅田で行われていた「梅田の牛の薮入り」という行事の名残と考えられており、梅田の民俗風習上、重要な神事でもあります。

授与致します御朱印には、社号の揮毫に加え、
大阪を中心に活躍するイラストレーター「舛田善信さん」の手による当宮ゆかりのお花の絵と、
女性に向けた広告で定評のあるグラフィックデザイナーの「釣井裕紀さん」の手による玉をイメージした印面となっており、大変華やかな御朱印です。


期日 5月3日~5日 (3日間のみ) ※6日はありません

時間 午後1時から午後5時まで

場所 大阪市北区茶屋町12番5号 綱敷天神社御旅社内

授与枚数 100枚
      5月3日 上限25枚
      5月4日 上限25枚
      5月5日 上限50枚 

初穂料 1枚500円 (書き置きのみ)

 

注意事項

  ・御本社、御旅社、歯神社の御朱印も
   通常通り授与します(待ち時間発生します)
  ・5月6日は玉姫社の御朱印の授与はありません。
  ・授与は先着順です
  ・事前の取り置きは出来ません
  ・お一人につき一枚の授与です
  ・授与は3日間のみです
  ・転売禁止です

その他

  ・玉姫社の例祭は5月5日11時からです。ご参列自由です。
  ・玉姫社、神牛像へのお花のお供えは、花束状のものですと
   暑さで萎れますので、小さなアレンジメントなど鉢状のものか、
   設置してあります榊立てに差し込む程度のものでお願いします。
 
  



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

与謝蕪村の菜の花の句 250年

2024年03月23日 | 日記

安永三年(1774)3月23日、京都東山(諸説あり)において、連句の会が開かれ、そこで俳人の与謝蕪村が「菜の花や 月は東に 日は西に」という有名な句を詠んでから、今日でちょうど250年(註1)となります。

この句については、俳人の高井几董が残した『続明烏』や『宿の日記』に3月23日に、即興で作られた「春興二十六句」の発句として詠まれた連句(註2)である事が記されています。

一面に広がる菜の花畑、その東にはお月さまが出て、西には夕日。

この風景を詠み込んだ写生的な名句ですが、万葉集の柿本人麻呂の歌や、与謝蕪村の母方郷里の丹後地方の俗謡などを組み込んでいるともいわれ、非常に高度な俳句とされています。

この菜の花の句ですが、一説には与謝蕪村が生まれた、大阪市北区の東北角あたりにあった、毛馬村の淀川堤防から見た、菜の花咲く茶屋町の風景が原型であったともいわれています。

当時は、堤防の上に登って西の方を向くと、ちょうど、茶屋町付近の菜の花畑が一面によく見え、さらに東には月、西には日と、まさに菜の花の句のような風景が広がっていたと思われます。

その光景が強烈に目に焼き付き、幼い与謝蕪村の心の原風景としてあったのではないかとみられています。

また与謝蕪村はこの句を詠んだ3年後に、「春風馬堤曲」という俳詩を発表しており、その内容が故郷の毛馬村への郷愁の念を込めて詠んでいる事から、この時期、老境に差し掛かっていた蕪村は、故郷への思いを強めていた可能性が高く、この句会でもその時の思いが菜の花の句として現れたのかもしれません。

今回、この250年という節目の日を控えた3月22日。当宮神職が与謝蕪村の眠る京都 金福寺に、個人的にお参りして、茶屋町産の菜の花を墓前に捧げてまいりました。この菜の花は地域の皆さんがお育てになられた菜の花で、茶屋町のお花屋さんであるフロリストメリーさんにお願いして墓前用に仕立てて頂き、金福寺さんにお供えの許可を頂いた上で捧げました。

菜の花は古来、ささくれる心を穏やかにするチカラがあるといわれています。蕪村も郷愁の念とともに、心穏やかに茶屋町の菜の花に思いを馳せていたのかもしれません。

 

写真①
茶屋町の梅田芸術劇場前にある与謝蕪村の句碑。今年も地域の皆さんが育てた菜の花で彩られています。

写真②
京都 金福寺にある与謝蕪村のお墓。茶屋町産の菜の花を、フロリストメリーさんにお願いして墓前花に仕立てて頂きお供えさせて頂きました。(金福寺さんの許可済み)

写真③
与謝蕪村の故郷、毛馬村のあったあたり。現在の淀川大堰があるたりです。

写真④⑤
京都東山の将軍塚からみた、月は東に日は西に

 

※註1
当時は旧暦ですので、今の暦に直すと、この句が詠まれたのは、恐らく新暦の5月3日になります。この時期ですともう菜の花も散っている時期です。(ですので菜の花の句は与謝蕪村が想像をめぐらして詠んだ句であり、幼い頃に見た茶屋町の菜の花を詠ったものとみられています)
しかし、せっかくの菜の花の句ですので、今回、5月ではなく、菜の花咲く、新暦3月23日に寄せて投稿いたしました。


※註2
連句とは上の句と下の句を別々の人が詠むものです。この菜の花の句の場合、
発句
 菜の花や 月は東に 日は西に
             与謝蕪村
脇句
 山もと遠く 鷺かすみ行く
             三浦樗良
と、与謝蕪村と三浦樗良の二人によって詠まれています。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

享保の大火(妙知焼け)から300年

2024年03月21日 | 日記

享保9年3月21日(1724年4月14日)。
大坂三郷(現在の大阪市中央区、北区南部、西区東部)を焼き尽くした大火、「享保の大火」から今日でちょうど300年です。


この大火災は、戦災を除けば大阪の歴史上最大規模の火災で、火元となった尼僧の名前から、「妙知焼け」とも呼ばれます。


この日、午後1時頃、現在の大阪市西区南堀江2丁目あたりから出火し、まるまる一日かけて大阪市内の大半を焼き尽くし、町数407、焼失家屋11765軒、戸数60292、蔵屋敷32、寺社44が罹災。当地梅田も、現在の扇町線から南側は灰燼に帰しました。


あまりにも凄まじい火災であった為、この享保9年から前の記録というのは大阪市内ではあまり残っておらず、近世未曾有の大火災であった事が分かります。


しかし、10万人が死亡した江戸の明暦の大火などに比べると、死者数は293名であり、これは防災意識が高かった事や、水の都の堀割が至るところにあった事なども影響があったのかもしれません。


現在、大阪は第二次大戦の空襲以来、市内を焼き尽くすほどの火災というものを経験していません。ですが、大阪市北区の南浜霊園にある「大坂三郷大火五十回忌追善塔」は、現代に火事に対する警鐘を鳴らし続けています。


冬春の入れ替え時、風の強いこの季節。どうぞ火の元にはお気をつけ下さい。

写真①:近世大坂三度の大火。一番左が享保の大火。
写真②:享保の大火の被災地を現代地図に投影。(正確なものではありません)
写真③:南浜霊園に残る享保の大火の五十回忌追善塔

※正確には当時の3月21日は旧暦でしたので、現代の暦に直すと4月14日ですが、先人の火災への警鐘を思えば、突風の吹きやすいこの時期の方が相応しいと考え、本日投稿しました。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゴジラ御守 奉製について

2024年03月11日 | 日記

本日、第96回 米国アカデミー賞の授賞式があり、日本の「ゴジラ-1.0」が視覚効果部門を受賞されました。
この賞はその時代を代表する先進的な映像作品、特にSF作品に贈られてきた賞であり、今回アジア初の快挙です。

また、先日には第47回日本アカデミー賞の最優秀作品賞を含む8冠も受賞され、このゴジラ70年、古希の慶節にこの上ない栄誉を得られた事、心からお慶び申し上げます。

そして当宮では、令和6年2月3日からゴジラ御守を授与しております。

この御守は、令和3年(2021)。当宮で男の子向けの新しい御守を検討していた頃、当宮の氏子さんでもある東宝㈱さまで恒例の神事があり、当宮とは長年のお付き合いもある事から、男の子向けのキャラクターについてご相談させて頂いたところ、ゴジラ御守の構想が出て来たのがそもそもの始まりでした。しかし、その時点では半分冗談のように考えておりましたが、

令和4年(2022)2月24日に、ロシアがウクライナに侵攻した際、核兵器の使用の危機という話が聞こえてくるにつれて、核兵器の落し子ともいうべき初代ゴジラを生み出した、当時の方々に思いを致し、まさに今の世にこそゴジラが必要なのではと心を後押しし、

また、ちょうど、劇中でゴジラが大阪梅田・茶屋町にやってきた作品「ゴジラVSメカゴジラ(平成5年(1993)公開)」の公開から令和5年12月で30周年である事に気づき、またこの作中でゴジラは我が子であるベビーゴジラを大切にする描写がある事から、子供向けの御守を模索していた当宮としては、これもやはり何かのご縁かと思い立ち、そこから本格検討に入り、ゴジラ御守の奉製に着手する事になりました。

しかし、時期がちょうどコロナの真っ只中でしたので、中々一気には進められない状況ではありましたが、その中で、ゆっくりとしか動かせないのであれば、品質を高める時間にすべきだと思い、

平成11年(1999)に公開された、「ゴジラ2000 ミレニアム」で本物のゴジラをデザインされた、西川伸司先生にゴジラの絵をお願いし、不躾なお願いにも関わらず、先生には大変丁寧にお進め頂き、素晴らしいゴジラ(通称:ラドゴジ)を一から描き起こして頂きました。 ちなみに当宮で当時お手伝いを頂いていた巫女さんが、西川先生が特任教授を務められている嵯峨美術大学・短期大学の学生さんだった事も西川先生にお願いする一つのきっかけになりました。

御守の裏面には、「ゴジラVSメカゴジラ」で、ゴジラが梅田・茶屋町にやってきた時、一緒に映像に映り込んでいた、当宮の御旅社と、茶屋町アプローズタワー、MBS(毎日放送)を織り込み、また梅田の代名詞ともなっているHEPの赤い観覧車と、梅田の梅の字の由来にもなった当宮の梅を配したデザインを整え、令和5年12月に奉製を開始しました。

令和6年2月2日。当宮の御祭神である、天神さまこと菅原道眞公が梅田に到来された日と同じ日にゴジラ御守は当宮にお納めされ、同日、困難打破、身体健康、子供愛護、往来安全の祈念を込め、翌、2月3日、ゴジラ御守の授与を開始しました。

その初回授与の際は、想像以上のゴジラ人気を目の当たりにする事になり、当宮側の準備不足もあって、あっという間にご用意した先行分の御守は出体終了となってしまい、後からお参り頂いた方々には申し訳ない形となってしまいましたが、

それから御守の奉製職人の皆様にはご無理を言って、大急いで奉製を進めて頂き、3月8日の日本アカデミー賞で「ゴジラ-1.0」が最優秀作品賞を含む8冠受賞の慶報を受けた翌日の、3月9日に第2回目授与を開始。初回授与の時よりも大変多くの参拝者で賑わい、通行される方が驚かれるほどでした。

そして本日の米国 アカデミー賞の受賞を受け、本当にゴジラ御守の奉製を思い立ってから今日まで間、大神さまが次から次へとご縁を繋いでくださって、いまの核戦争危機への警鐘と、そして未来を担う子供たちへのご加護を感じずにはおられませんでした。

このゴジラ御守をお受けになられた皆様が、核の惨禍の無い平和を享受し、ゴジラのような力強さで困難を打ち破り、己の足の歩みで、健康に、そして我が子だけでなく、様々な次世代を育む心の一助となりましたら、何よりも嬉しい思いでございます。

なお、まだゴジラ御守の方、数に限りがある事から、暫くは土日13~17時限定で、お1人さま1体のみの授与となります。今後奉製体制が落ち着いて参りましたら、平日御朱印受付日などに合わせて、平日授与や、複数体の授与も検討して参ります。正式には当宮のX(Twitter)でご案内致しますので、そちらもご覧下さいませ。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする