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夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

サプリメント学習

2012年12月27日 17時48分01秒 | 日記
 最近テレビを見ていてウンザリするのは、あれがアメリカ式宣伝というのだろうか、”クドい!!”、素人などを動員して”サクラ”演技をさせる、”デモソノマエニ・・・”などと射幸心を煽るようなことを言う、非常にエゲツなく下品だ。だからすぐチャンネルは換えない、・・・なぜならどこでもそのような宣伝をやっていて本当の番組か何か一見見違えるから、別のところを見ようとはせずに見るのをやめる、スイッチ・オフ、もう寝よう、バカラシイ、時間の無駄だ、となる。もうテレビは買わない。
 次にウンザリはサプリメントの宣伝である。あんな安易なものが真に体にいいはずがない。ああいう安直なものを摂れば体はすぐに怠けぐせがついてまっとうに機能しなくなるだろう。これぞ、アメリカ文化そのもの、ジ・アメリカだ。結果重視の文化は嫌いだ。
 日本文化は形式美を追い、過程を重んずる。茶の湯然り、弓道、剣道、雅楽、全て過程の美を追う。その深淵な意義を西欧啓蒙主義はわからんだろうな。
 ええと、何を言おうとしてたんだっけ・・・・、そうだ高校の学習だった。私は今の公立進学高校の学習をサプリメント学習と名付ける。じわじわと効いて、一生の栄養になる勉強をさせない、”我が校は国立大学に何人入れた”だとか”吾輩は何人”だとか、ばかり考えているのではないか?そしたらそれは予備校だ。
 昔、浪人して予備校に入ったことがあった。数学の時間に”ここまで解けば5点、ここまで解けば15点・・・”などと言うのを聞いて、”とてもやっとられん”と教室を出た事があったが・・・、何故かそれを思い出す。休暇の前に高校生が宿題のプリントを持って来る。そこに”緊張の夏”だとか”冬を制する者は受験を制する”などと教師が書いている。かわいそうだねえ、今の高校生は・・・要は教師や学校の猿回しのサルにされているのだ。彼らの”手柄”の道具にされて、”生涯役に立つ、生涯成長し続ける学習の種”を播かれていない。だから、だろうな、レッキとした戦前の一流中学、戦後の超有名高校卒業、旧帝国大学卒業がまっとうな英文レターも書けなければ、工学的センスも身についていないし、身に付かない、要するに”素地”が培われていないのだ。
 大学受験と言うハードルを越す技術だけをサプリメントのように授ける、全ての学習を大学受験目的に集中する、甚だしきは○×選択問題では先頭が○である可能性は少ない、などと真顔で教える・・・等々、将来何をやりたいか?でなくオマエはここの大学を受けろ、などと言う例もあるそうな。塾の教師をしたことがあるから聞いて知っている。
 だから大学に入った途端”何をしていいか判らない”になる。タイガー・ウッズの父親は彼にゴルフが如何に面白いものであるかを教えたと言うが、日本の教師は勉強がいかにつまらなく面倒くさいものかを教えて以て日本の可能性と国力を損なっている。バカモノ!!

行き詰まった地上社会を突破する概念

2012年12月27日 11時59分10秒 | 日記
 息子は不登校に始まり20余年を引き篭もりで過ごし、その中にあって何とか這い上がろうと英語とドイツ語を勉強した。英語はTOEICの最高点とまでは行かないがそこ近くまで行ったが結局それで仕事はなかった、現在別の仕事をしている。その彼が”言霊”と言うものを私に教えた。さらに日本語に現れている日本文化について解説した。おもしろかったので書き留める。
 ”俺が、私が、彼が”と言う主語、或いはそれを暗示する格が無くても通用する言語はおそらく日本語だけではなかろうか。それが無くても”会話は成立する”・・・例えば”昨日どこへ行ったの?”と言う言葉に主語も主格もない。が、それを言われた数人の人の誰かは”何処其処”と答える。
 これは日本人が”全体性の意識”中で生きている、”他者と自分の区別が余り明確でない”ことの現れではないか?と彼は言う。その付言として言ったのが次のようなことであった。
 幕末から明治維新にかけてやって来た外国人は最初、日本人は”博愛の精神”が無い、と見た。しかし長く見聞するうちに考え方が変わった。例えば、神社の境内で暮らす、或いはそこで物乞いをする病人を”放置”している、何と冷酷な、と最初は思ったが、時経つうちに日本人たちが”明日はわが身かもしれないが、それも天の定め”なる諦観のうちに生きている、自分にも何時そのような事が起こるか分からないがそれはそれで自分の”分”として甘んじる覚悟・・・大して違うものでもないとの思いで生きている、ということに気がついた。
 また、西欧人は人間と動物を峻別し差別と保護の概念があるが日本人はその観念も薄いことに気着いた。例えば炎天下で使役する牛の頭上に日よけのコモをかぶせてある、池の鯉が夜中に野鳥の害に会わぬように夜は洞窟の中に追いやる、などを見て仰天した。・・・確かに、私の祖母もネコを苛める私に向かって”家族の一員じゃから、苛めてはいけない”と言った。ペットなる概念はさらさら無かった。話が逸れるが犬用の防寒着などと言う発想は未だに日本人がペットの真の意味を理解していない、犬もネコも”家族”の概念が生きているのではなかろうかと思う。
 以上は”逝きし世の面影”なる本の記事だそうだ。そこで私もその本を読んでみた。すると終わりの方に、しかしこの日本的なものは近代化に従って捨て去れらる運命にある、と言う意味のことが書かれている。そこには”個”を主張する西欧近代の啓蒙思想こそが”進歩した文化の表れ”である意味がほのめかされている。
 しかし、まさにその”個”を重んずる、主張することが現代の病巣ではないか?”頑張ったものにはそれだけの報いがあってしかるべきであり恵まれないものはそれだけの理由がある、そんなものに自分の頑張りの成果など分けてやるものか”の思想がアメリカのカウボーイ経済ではないか?”自己主張の軋轢を解決する手段”として訴訟があり、はなはだしくは銃があり、そこから”絶えざる緊張”が生まれ、あらゆることにバネ仕掛けの反応・・・強烈な有無を言わさぬ自己主張と防御動作が出てくる。或いは”己の才覚によって稼ぐ、際限なく稼いで何が悪いか?”となる。
 その同じ象限の中に、”国の借金1000兆円、ドーするんだ?!”の論議が出てくるように思う。もしこれが個人と全体を峻別しない江戸時代以前の概念にの中に置かれたら、それでみんながしあわせならエージャナイカ、エージャナイカになるのではなかろうか。日本人の心の底にある、”貧しきを憂えず、等しからざるを憂う”の概念はそういうところに起因するのではないか?
 そこにしか、つまり全体性への回帰しか最早現代社会の未来展望は開けないのではなかろうか。そう考えると国、ではない、政府つまり国家を運営する組織の借金1000兆円とか現在の経済的閉塞感を解決出来るのは最早経済学ではなく哲学ではあるまいか。且つもし仮に世界に先んじて日本がそれに成功したら・・・多分国民のモラルの程度から推してそれを出来る唯一の国が日本であろう・・・間違いなく日本人が21世紀以降の指導者だろう。奇しくも12月23日から占星学的には地球は支配被支配、権力、闘争の星、魚座を離れ協調と平衡の水がめ座(だったかな、記憶あいまい)に移行した由。

NHK、その他報道、右傾化

2012年12月27日 11時12分09秒 | 日記
 もう十年以上前のことになろう、朝のNHKで経済に関する識者の座談が放送されていた。毎朝聴いていた。そのある日、紺屋典子氏が”今こそ公共工事を”と発言された。尤もな話だ、と思った。
 ところが翌週から紺屋氏は出なくなった。猜疑心の強い私はNHKの作為を感じた。以後、NHKの報道を信用しなくなった。今でも信用していない。
 その他の報道についても”まじめには”、見ない、聴かない、読まない。特にキャスターなるものの発言にはウラがあると思っている。
 では何で”知るか?”であるがでそれらの報道を重ねあわせた映像から、数十年生きて身につけた”動物的カン”で探る。基本的に、私は人の言うことを信用しない。それは造船設計と言う職業に由来する習性かもしれない。自分の目で確認し、ウラ着けを取った情報しか採用しない。若い頃はそうではなかった、が、何度も痛い目にあってうたぐり深くなった。
 最近気になる事象だが、”右傾化”と言うことばが頻繁に出てくる。”報道の作為”を感じる。自衛隊をその自衛なる本来の機能を発揮させる為には”軍隊”と位置着け軍法を整えるべきであろうがそれを言うと”保守反動軍国主義復活”と”バネ仕掛け”のように思い込むように日本人は報道によって刷り込まれている。
 憲法と言っただけで”憲法改正、即ち9条放棄、すなわち軍国主義復活”なる恒等式を思い出すように国民は報道によって刷り込まれている。
 そしてその両方の概念を要約すれば”右傾化”と言う短い言葉になる。
 その右傾化と言う発言を外国がしている、と報道はことさらに”報道”する。猜疑心の強い私はそこに”ある作為”を感じる。
 地球上を百人の村にたとえれば、・・・と言う本があったようだが、日本を百人の村に例えれば、私には報道、メディアなるものが”村の協同”を破壊すべくあの手この手を使う”主義者”に見える。

人は無いものをねだる

2012年12月27日 09時40分33秒 | 日記
 健康な人は健康でありたいなどとは寸毫も思わない。平和な世界に住む人は平和平和と言わない。江戸時代の人々が平和運動をしたと言う話を聞いたことがない。だから人は持っていないものをねだる。故に今日多くの人が口にしたがる言葉を拾ってみれば世相がわかる。
 平和平和平和・・・平和のオンパレード、これを言わなきゃまっとうな市民ではない、はずれモノ扱いになる。つまり人々は不安があるのだ。だが、その不安の正体が余りよくわからないからとりあえずストレス解消の為に平和平和と言うのだ。実はそう言い、そういう運動をすることによって”平和”から遠ざかっていることに気がつかない。
 ふれあい、ふれあいひろば、交流しました・・・なんて品のない日本語だね。”子供達よ、さあ、ふれあおう!”なんて言うか?、女子学生に向かって”ふれあいの場を持ちましょう、とか交わろうよ(エホバの証人が好きな言葉だ)”なんて言えるか?ああキモチワルイ!!それほど”個”が”個の確立”が大切なのかね?これぞ明治維新以来のルター、カルヴィン発改革キリスト教由来西欧啓蒙思想の刷り込みの結果だ。”全体の一部”の概念は昔の日本人にはあった。今、それはない。その”全体性の意識が全くない”の同じ象限のなかに”銃を持つことは自己防衛の権利である”の主張があり、銃乱射事件もそこに在る。
 いのちの大切さを教える・・・バカじゃなかろうか、そんなのも”顕在意識”であげつらっても、要するに書き込みも書き直しもできないプレビュー画面で大騒ぎするだけの事だ。命を奪うことの”恐ろしさ”を潜在意識に書き込まなければ何にもならない。むしろ最近はゲームなどで仮想空間に遊び、”殺す必要と快感”を”おもしろい・・即ち無意識に書き込む道具”があるじゃないか。昆虫採集をする、昨日まで生きて動いていた虫が今日はもう動かない、その”覆水盆に返らず”の”罪深さ”を味わって初めて子供は、人は、”人間知の及ばない世界、力、存在”を垣間見る。中学校の理科の時間、カエルの解剖をやった。やる前に先生から生きているものを殺すことのオソロシサを懇々と説教された。
 愛・・・カネがない人がカネに強い関心があるのと同じで愛のない世界に住んでいれば愛、愛、愛、・・と言うようになる。人は飢えているものを口に出してその飢えを白状するのだ。カネを追いかけている間はカネは逃げ回るように愛を追いかけている間は愛は傍に来ない。理由は?・・・”追う”と言う行為は”無い”が前提にある。その”無い”が意識下にあれば、”無い”が”現象化”する、のがこの地上三次元世界の”場の論理”だから。